第1136回 日本文化の古層に流れる縄文人のコスモロジー

 

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北海道 積丹半島

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北海道 積丹半島 水無しの立岩。


 私が子供だった頃、文明は、約5000年前、大河のほとりで生まれたと教わった。エジプト、メソポタミア、インダス、黄河だ。農耕が始まり、富の蓄積によって文明は生まれたということだった。

 しかし、近年、トルコのギョベグリ・テペ遺跡で、多種多様で繊細な模様の刻み込まれた10トン以上の巨大な石柱が多数発見され、年代測定で、今から12,000年前に作られたとわかった。それは、古代の祭祀場だった。

 エジプトのピラミッドより7000年も前、大河のほとりではない高台に、権力者の命令ではなく信仰への欲求が人々を協力させて、大神殿群が作られたのだ。

 近年の様々な発掘成果によって、海外でも日本でも、これまで学校で教わった歴史を根本から見直さなければならない段階に来ている。もちろん、権威ある歴史家は、そう簡単には新しい発見を認めず、もっと慎重に調べる必要があると時間稼ぎを行う。せめて自分が生きているあいだは、これまでの常識が通用するようにと。

 世界の文明に比べて日本は出遅れていたというのも学校で教わった歴史だった。世界各地で文字が発明され金属の道具が使用され神殿が建造され都市が築かれていた時、日本は縄文時代で、人々は粗末な家に住み、毛皮を着て、動物を追いかけ回していたと教育によって植えつけられた。

 しかし、近年になって、新しい発見が続出して、縄文時代に対する認識も大きく変えなければならなくなっている。

 日本は、決して遅れていたわけではない。古代四大文明が築かれた場所が、長いあいだ乾燥地だったのに対し、日本は湿潤な気候だったために、過去の痕跡の多くが朽ちてしまっただけなのだ。

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地鎮山環状列石

 先日、北海道の余市に残る縄文時代の環状列石を訪れた。

 地鎮山環状列石、西崎山環状列石、忍路環状列石と、海岸近くに三つの環状列石が築かれている。それらは見晴らしの良い高台に築かれ、同じ敷地内に墓の跡も発見されている。

 それらの環状列石は、約3500年くらい前のものと考えられているのだが、そのすぐ近くに、フゴッペ洞窟がある。

 フゴッペ洞窟の岩壁には無数の刻画が残されている。人、舟、魚、海獣、4本足の動物のようなものなど200を超す刻画がきれいに残る洞窟遺跡は、世界的にも貴重だ。

 肩に突起のある不思議な人物像も描かれており、豊猟祈願の祭祀的なものだという指摘もある。刻画のほか土器や骨角器、炉跡なども発見されているのだが、その内容から判断して、私は、1万年以上前の石器時代のものかと思ったが、実は、およそ2000~1500年前に属する遺跡であることが明らかになっている。

 だとすると、すぐ近くにある環状列石よりも、1500年から2000年も新しい。

 本州では、ヤマト王権の時代で、各地で巨大な古墳がいくつも建造され、金属器も大量に作られていた。また、ヤマト王権による蝦夷攻撃もあったと考えられるが、その蝦夷は、骨角器で戦ったとは思えないほどの抵抗を見せている。

 東北も含めた本州と北海道では、かなりの違いがあったということか。

 また、フゴッペ洞窟の岩絵と環状列石を比べても、古い時代に環状列石を作り上げた人たちのコスモロジーの方が、ビジョンとして壮大で、地上における目先の現実を超えたところにあるように感じられる。

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忍路環状列石

 私は、すぐ近くにあるこの二つの聖域は、歴史的順番として逆ではないかと思っていた。

 この逆転現象は、ヨーロッパなどでも見られる。有名なイギリスのストーンヘンジは、4000年前から4500年前に作られたと考えられ、太陽の動きや天体との関係が指摘されており、そこには、今日の我々が持つ合理的・科学的な観点を超越した何かがある。

 しかし、その2000年後のローマ時代、タキトゥスが書き残したローマ北方のゲルマン人は、巨石を積み上げる文化など無縁の未開の人々だった。

 イギリスのストーンヘイジをはじめ、ヨーロッパに謎の巨石建造物を築きあげた時代の人々は、古代ギリシャ・ローマや、現代人と異なる思考、ビジョン、宇宙観を持ち、我々とは異なる自然への働きかけ方をしていたのだろう。現代人が、人類の最高レベルであると思っているかぎり、古代の謎を解くことができない。

 北海道の余市にあるフゴッペ洞窟の岩絵について、アムール文化との関連を指摘する声もあるが、そのつながりを説明する証拠はないそうだ。

 アムール河は北海道よりも北のサハリンの北端が河口であり、オホーツク海の流氷は、アムール河の河口で淡水が凍って南下してきたものだ。つまり、アムールは、北海道よりも寒さの厳しいところだ。

 縄文時代、北海道は今よりも温暖だった。しかし、次第に地球の寒冷化が起こり、アムール河流域にいた人たちが南下して北海道の余市周辺に住み着いたのかもしれない。それ以前に北海道にいた人たちは、寒冷化のため、もしかしたら、本州に南下したかもしれない。同じ余市の地において、3500年前の環状列石と、それよりも2000年も経った時に描かれた洞窟壁画との時代的なギャップは、そう考えれば理解できる。

 学者の世界では、証拠が揃わなければ”正しい”とはされないが、縄文時代に起こった寒冷化現象を裏付ける”証拠”も出てきている。

 余市の環状列石群の真南、室蘭の地球岬の近くに北黄金貝塚がある。

 7000年前の史跡である北黄金貝塚は、世界史的にも重要なものである。 

 この貝塚は30万㎡の大きさを誇り、東京ドームの7倍あり、北海道全体の貝塚の5分の1の大きさである。

 北黄金貝塚は、7000年前、4000年前、3000年前と段階がわかれており、海岸線が次第に台地から遠ざかっていることがわかる。その理由は、寒冷化によって極北の海が凍って海面が下がり、陸面積が大きくなっていくからだ。そのため、貝塚で発見される貝の種類も、温暖系のハマグリからカキ、アサリ、ホタテ、ホッキと、次第に寒冷系のものに変わっている。

 北黄金貝塚からの出土品で目立つのは、葬儀や祭事に使われたのではないかと考えられる道具が多く、これまで信じられていたような、貝塚がただのゴミ捨て場という学説に一石を投じている。

 さらに、この遺跡からは、世界最古、6000年前の立派な刀剣が出土している。これは、鯨の骨で作られたものだが、実用のためではなく、何かしらの祭祀用ではないかと考えられている。

 丈夫な鹿の骨で作られた道具もたくさん見つかっており、こちらは漁のためや、装身具など様々に加工されており、装飾も精巧で、衣服作りや刺繍などに応じた各種の縫い針なども見られ、高度で洗練された生活文化も備わっていたであろうと想像できる。

 また、貝塚に隣接する集落跡からも興味深い遺構が多く発見された。

 その一つが、人工の池と、水際まで下りるための足場だ。この場所は、今でも豊富に水が湧き出ているが、底に磨石と石皿が1200個以上敷き詰められており、それらの99%は壊された状態となっている。どうやら、わざと壊して儀式が行われた場所のようだ。この磨石と石皿は、何かを擦りつぶすためのものと考えられており、木の実をつぶしたとか、魚の擦り身づくりだとか生活用具としての役割も考えられるが、どうやら祭祀道具であり、ベンガラなど鉱物を擦りつぶして染料を作るためのものだった可能性がある。

 というのは、北黄金貝塚からは人骨が発見されているのだが、その人骨は、死体の腰や手足を折り曲げて埋める屈葬が施され、埋葬された土の上に、石皿や磨石が供えられているからだ。

 屈葬の理由もいろいろな説があるが、その一つが、胎児の姿を真似て再生を祈るというものがある。

 そして、ベンガラの赤い色素は、生命の象徴である血液を意味するのか、古墳時代の石棺に塗り込められているものがたくさん発見されており、再生のイメージとつながっている。

 さらに、北海道函館の垣ノ島B遺跡から出土した埋葬者の副葬品の衣服も、頭から膝にかけておおわれた繊維が赤色に染められていた。これは、漆と、赤色を発色するベンガラを焼いて混ぜたもので、約9000年前に作られた世界最古の漆製品として知られている。

 漆や土器は、湿気に強く、湿潤な日本の風土のなかでも残りやすい。日本の縄文土器や漆製品が世界最古級であるというのは、この二つだけに特化した文化が日本に存在したということではなく、これらを作り出す高度な技術と知識を備えた人たちが縄文時代に存在していたが、多くの遺物が、湿潤な風土のなかで朽ち果ててしまったと考えた方が理にかなっている。

 垣ノ島B遺跡からわずか2kmほどの大船遺跡からも、北黄金貝塚と同様、膨大な数の石皿が発見されている。皿の数からして色素の大量生産が行われていたという説もあるが、一千年以上にわたって人々が同じ場所で暮らしており、その色素が祭祀用のものだとすると、代々、同じことが積み重ねられて、膨大な数になったとも考えることができる。

 巨石の遺構などにしても、現代人は、どのくらいの人数で、どのくらいの歳月を必要したかと今日の建築物を作るのと同じ発想で計算するが、古代の人々の時間観は現代人とは大きく異なっている可能性が高い。

 縄文人など古代の人は、何千年ものあいだ、同じ場所を拠点としている。一世代に少しずつ積み上げていくことで、千年を超える歳月のなかで、現代人にとってミステリアスなものが出来上がる可能性だってあるのだ。

 縄文人は、狩猟採集を行なっていた。農耕の場合は、同じ土地にとどまり続ける理由は明瞭だが、狩猟採集なのに、なぜ、同じところで住み続けたのかは謎だ。

 もちろん、海の幸、山の幸を獲得するうえで条件に恵まれた場所に集落を作ったから動く必要がなかったということもあるだろうが、代々、同じ場所で死者を供養し、そして、その復活を祈っているのだから、その土地との宗教的関わりが強固であったとも考えられる。

 地面を深く掘った竪穴式住居で眠る時、縄文人は、子宮の中にいる胎児のようなもので、太陽が昇るたびに自分が新しく生まれ出たかのように感じ取っていたのではないか。

 縄文人にとって、自分が暮らしている土地は、きっと母体と等しいものだったのだ。

 そうした縄文人にとって、環状列石は、いったいどのような意味を持っていたのだろうか?

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西崎山環状列石

 環状列石は、現在、日本国内で176箇所が確認されており、その大半が3000年前から4000年前に作られたと考えられているが、秋田県だけで74箇所、その次が北海道の29箇所と、東北だけで軽く半数を超えている。

 そして、環状列石は、日時計状の組石が設置されているなど、方位や太陽の軌道が強く意識されている。東西南北だけでなく、夏至冬至の日没や日の出の方向も示されているのだ。

 単なる時計や暦が必要ならば、巨石を積み上げるなど大規模な工事をする必要はなく、天の摂理と地上の摂理を結びつけようとする宗教的な意思が働いているとしか思えない。

 北海道の余市に3つの環状列石が集中している理由について確かなことはわからないが、不思議なことに、世界最古の刀剣が出土した北黄金貝塚や、世界最古の漆製品が発見された函館の垣ノ島B遺跡、その傍の大船遺跡は、余市の環状列石群の真南のライン上にある。さらに、その南、本州の東北にも縄文の重要遺跡が連なっている。

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北海道の余市にある三つの環状列石から岩手県のシンボルである岩手山まで、東経141度のライン上に、環状列石や縄文遺跡が並ぶ。  余市の真南は、室蘭岬のそばの北黄金貝塚。その南、内浦湾を超えて函館の大船遺跡、その南、津軽海峡に面した戸井貝塚津軽海峡を越えて大間のドウマンチャ貝塚、その南、陸奥湾を越えて夏泊半島の付け根の平内町の60の縄文遺跡、そこからまっすぐ南に奥羽山脈が伸びて、岩手山の北麓に、釜石環状列石がある。  日本最大の環状列石である秋田の大湯環状列石群は、奥羽山脈の西の花輪盆地にあり、大湯環状列石群とともに縄文遺跡を代表する三内丸山遺跡や、その東南8kmの小牧野の環状列石は、奥羽山脈の西の青森平野の周縁の高台に位置する。

 

 函館の大船遺跡は、近くの南茅部町(現在の函館市尾札部町)で発見された「茅空(かっくう)」土偶が有名だ。2017年に北海道初の国宝に指定されたこの土偶は、中空土偶としては国内最大の大きさで、作りが極めて精巧で写実的で、非常に薄づくりで紋様構成も優れていることから、縄文時代における土偶造形の頂点とも評価されている。

 この土偶が発見されたあたりは、著保内野遺跡と呼ばれ、ヒスイの勾玉や漆片なども発見され、縄文時代の集団墓と考えられている。

 大船遺跡は大規模な集落遺跡で、100棟を超える竪穴建物跡が発見されているが、その規模が巨大で、深さ2m以上掘り込んでいることが特徴的だ。その中には長さ8~11メートルのものがあり、三内丸山遺跡と同じく集会場ではないかと考えられている。そして、未発見の建物が地中に800棟〜1500棟あるのではないかと推測されている。さらに、この住居群と貝塚のような大規模な盛土遺構の南西に100基以上の土坑墓群が発見されている。

 大船遺跡の住居跡は幾層にも重なっていることが確認されているので、この集落が、何世代にもわたって長期間、使用されていたことがわかる。

 また、この大船遺跡の真南、津軽海峡に面したところに4000年ほど前の戸井貝塚があり、この貝塚からは、船形の土製品が出土している。縄文人が使っていた船の遺物は発見されていないが、この土製品からイメージすることは可能だ。

 戸井貝塚の真南は、津軽海峡の向こう、マグロの一本釣りで有名な大間で、ここにもドウマンチャ貝塚がある。

 青森県側には、大規模集落で有名な三内丸山遺跡や、その南8kmの環状列石を主体とした小牧野遺跡があり、北海道側の縄文遺跡と共通した様式の土器(円筒土器)や同質のヒスイ製品などがそれぞれ大量に発掘されているので、津軽海峡を挟んだ交流があったのだろう。

 余市の環状列石から続く南北のライン、北黄金貝塚、大船遺跡、戸井貝塚、ドウマンチャ貝塚をさらに南に行くと、陸奥湾を超えて夏泊半島があり、この半島の付け根の浅所海岸という遠浅の海岸に面した平内町には、なんと縄文遺跡が60箇所もある。その遺物は、1万年前にも遡るものがある。

 夏泊半島は、奥羽山脈の最北端で、ここから続く山脈を真南に120km行ったところに聳えるのが、岩手県最高峰の岩手山だ。2038mの円錐状のこの火山は、富士山のように長い裾野を引く整った形で、古くから信仰の山だ。

 この岩手山の北麓に、釜石環状列石という大環状列石群がある。

 環状列石群の中央には直径12mの大型な環状列石があり、その中央には火を炊いた後がある直径1.5mの石囲いがある。そして、北側には縦横2mの石を敷き詰めた祭壇状があり、そこから真南を見ると、環状列石の石組みの延長上に岩手山の山頂部が見え、明らかに、岩手山が祭礼と関係している。

 この巨大環状列石の周囲には、直径3m程度の小型の環状列石が配置され、少なくとも大小7基の環状列石が確認され、環状列石の周囲には住居跡が発見され、さらにその付近からは土器、土偶、土版、石版、石器などが発見されている。

 奥羽山脈は、岩手山から南は、やや西の方向に連なっているが、岩手山から青森県夏泊半島までは、まっすぐ北に連なっており、この山脈の西の秋田県の花輪盆地に、日本最大の環状列石の大湯環状列石群がある。

 この環状列石群のなかの万座環状列石の最大径は54.25メートル、野中堂環状列石の最大径は44.00メートルである。

  これらの環状列石は川原石を雑然と置き並べた程度のものではなく、数個から十数個の石を円形・楕円形や菱形などに組み合わせて、これらが二重の円環を描くように並べられており、「日時計状組石」も存在する。

 また、掘立柱建物群、竪穴住居跡、環状配石遺構、石列、柱列などの遺構がたくさん発見され、多量の土器、石器、土製品、石製品が出土している。

 土器の中には、赤色顔料を塗り、日常使用ではなく祭祀用と考えられるものもある。土製品・石製品も種類が多く、土偶、鐸形・キノコ形・動物形土製品、石刀、足形石製品などがあり、これらは、葬送儀礼など何かしらの祈りとマツリに使用された道具と考えられている。

 さらに、大湯環状列石群とともに縄文遺跡を代表する三内丸山遺跡や、その東南8kmの小牧野の環状列石は、奥羽山脈の西の青森平野の周縁の高台に位置する。

 三内丸山遺跡で人々が活動していた時代は、現在より気温が高かったと考えられており、したがって海水面は今より高く、内陸に入り込んでいた。そのため、青森平野は、海か、湿地帯だったようだ。

 こうして見ていくと、北海道では北の余市から函館、本州では、岩手県岩手山から青森県夏泊半島まで、見事なまでに南北ライン上にそって、環状列石や縄文遺跡が配置されていることがわかる。

 一つひとつの環状列石が方位を意識して作られていることは明らかだが、さらに異なる場所との環状列石がつながって、全体として何か意味を示しているのだろうか。

 環状列石にかぎらず、日本国中に存在する磐座をはじめとする聖域が、冬至夏至のライン、東西南北のラインでつながっているのだが、その精神の源流は、環状列石を作っていた縄文時代にあるのかもしれない。