識られざる神霊の支配する世界に入るためには、最も強力な呪的力能によって、身を守ることが必要であった。そのためには、虜囚の首を携えて行くのである。道とは、その俘馘(ふかく)の呪能によって導かれ、うち開かれるところの血路である。
(白川静 道字論)
前回のブログで、磐長姫を祀る京都の西賀茂大将軍神社と羅生門が南北のライン(東経135.74)で、その二つの真ん中が、平安京の政治の中心、大極殿であることを書いた。
そして、そのライン上を羅生門からさらに南に伸ばしたところに、京田辺市の甘南備山がある。
甘南備山は、その名の通り山全体が神の山とされるのだが、この場所は、桓武天皇による平安京造営に際して、京都の中軸線として朱雀大路建設の目印にされたという。
標高221mのこの山に登って、真北を見ると、右に比叡山、左に愛宕山がきれいに見え、二つの山にはさまれたところが平安京で、大極殿が築かれた朱雀通り(現在の千本通り)は、この甘南備山の真北にあたる。
つまり、西賀茂大将軍社、大極殿、羅生門、甘南備山は、一直線に並ぶ。
そして、甘南備山の北麓は、鹿児島の大隅半島のオオスミの地で、大極殿までの一直線のライン上に月読神社が鎮座する。
この場所は、隼人舞発祥の地で、大隅半島出身の隼人の居住地だった。
隼人は、犬の鳴き声のような吠声(はいせい)で皇宮衛門の守護や行幸の護衛を行っていた。その声には悪霊退散の呪力があると信じられたため、儀礼において、官人入場のさい、隼人が立ち並び、そこを官人が通り、吠声を受けていた。
さらに、「延喜式」の「隼人司」の項目の記録では、国の境界や、山川・道路が曲がっている所を通過する時にも、隼人の吠声が行われた。
隼人の吠声は、祓いの儀礼と関係している。隼人が、異なる風習、異なる世界に生きている人たちであるという認識が持たれていたからこそ、その犬吠えが、境界を守る力になると考えられていた。
東国の蝦夷が征伐された後、俘囚として連れてこられた蝦夷の民が、朝廷警護の役割を担っていたことも同じだろう。
冒頭の白川静さんの言葉のように、もっとも強力な呪力を用いたのである。
鬼退治された鬼が、守り神になるという構造が、ここにある。
そして、平安京の真南の甘南備山の真西(34.81度)、15kmほどのところに、茨木童子貌見橋がある。
この場所は、第1135回のブログで書いたように、茨木童子が、川の水面に映る自分の姿を見て、自分が鬼だと覚ったところとされている。
そして、この場所の南1kmのところが、第1135回のブログでも詳しく書いたように、東奈良遺跡の銅鐸の鋳型が出土した場所で、茨木童子貌見橋のあたりは、銅鐸の鋳型が35点も出土した日本最大級の銅鐸製造場所だった。
さらに、茨木童子貌見橋の真北1.5km、パナソニックの工場敷地内だが、これまた日本でも最大級の規模、弥生時代の140基の方形周溝墓が出土した倍賀(へか)遺跡がある。
伝承によると、茨木童子は16ヶ月の難産の末に生まれた時には歯が生え揃い、生まれてすぐに歩き出して、母の顔を見て鋭い目つきで笑ったため母はショックで亡くなり、父はその赤子を持て余し、隣の茨木村の九頭神(くずがみ)の森近くにある髪結床屋の前に捨てたということになっている。
赤子で捨てられた茨木童子を世話したのが髪結床屋というのも象徴的で、髪結いの道具は、古代、若い女性を人柱にした習わしを象徴しているし、髪には生命が宿り霊力があると信じられていた。
そして、赤子の茨城童子が捨てられたところ、九頭神の”クズ”というのは何か?
古代、吉野には、国栖(クズ)と呼ばれる人たちがいて、神武天皇がヤマトに入る時も、壬申の乱の前に天武天皇が吉野の地に隠れている時も、”クズ”の人たちが支援している。”クズ”の人たちは、食生活など異なる文化を持っていた人たちとして記録されている。
そして、吉野から奈良にかけて、たくさんの九頭神社が鎮座しているが、その多くの祭神は天手力雄命(タヂカラオ)である。
天手力雄命(タヂカラヲ)を祀る神社として有名なのが、長野県の戸隠神社であるが、ここは、もともとは九頭龍大神が祀られていて、伝承では、九頭龍大神が、天手力雄命を迎え入れたとされている。
スサノオの狼藉があり、アマテラス大神が岩戸にこもってしまい、世の中は暗闇になってしまった。そのアマテラス大神の手を引いて外に連れ出したのが、タヂカラオである。
タヂカラオは、闇から光への復活と深く関係している。
茨木を代表する茨木神社は、奥宮として鎮座する式内社の天石門別神社が創建された時に始まるのだが、天石門別神社の祭神は、天手力雄命(タヂカラオ)だ。
この天石門別神社は、茨木童子貌見橋の北、500mのところである。
茨城童子と、九頭が、ここでもつながっている。
ちなみに、第1135回のブログの記事で、茨木童子は、宇治の橋姫と重ねられていると書いたが、宇治の橋姫が、嫉妬のあまり愛して男を殺したいと考え、自分を鬼にしてくれるようにと祈るのは、貴船神社の丹生大明神である。
丹生は、水銀関係の土地と関わりが深いが、特に吉野の地にこの地名は多い。貴船の大明神に仕える鬼たちも、吉野の鬼たちだ。そして、吉野は、上に述べたようにクズの地である。ゆえに、九頭神と関わりの深い天手力雄命(タヂカラヲ)を祀る天石門別神社のそばに、茨木童子貌見橋があるのも不自然ではない。
天石門別神社の真北5.3kmのところに藤原鎌足の墓ではないかと騒がれた阿武山古墳が発見された阿武山が聳え、その南麓に阿為神社が鎮座する。
藤原鎌足の勧請で創建されたと伝わるが、祭神は、天児屋命(アメノコヤネノミコト)である。
アメノコヤネノミコトは、タヂカラオとともにアマテラス大神の復活に関わっており、アメノコヤネノミコトは、アマテラス大神が岩戸に閉じこもってしまった時、岩戸の前で祝詞を唱える。
阿為神社の真南1.6km、タヂカラオを祀る天石門別神社の真北2.5kmのところに阿為神社の御旅所がある。
御旅所というのは、祭りの時に神輿が立ち寄ったり、神輿が向かう目的地である。神輿は、祭りが終わるまでそこにとどまり、祭りの終わりに神輿は元の神社に戻ってくる。御旅所は、その神社と関係の深い土地であり、もともとの鎮座地であることも多い。つまり、茨木童子貌見橋の近くに、アマテラス大神復活と関わりの深いタヂカラオとアメノコヤネノミコトの聖域があることになる。そして、阿為神社の御旅所が鎮座する場所は、今でも、耳原という地名で、耳原古墳なども存在している。
ミミというのは、『古事記』および『日本書紀』では、和泉地方に陶津耳(スエツミミ)、丹波地方に玖賀耳(クガミミ)、また但馬地方に前津耳(マサキツミミ)、三島の摂津地方に三嶋溝咋(ミシマミゾクイミミ)が記録されているが、いずれもその地方の首長と考えられている。
茨木童子貌見橋のあるところは三島地方であり、この地の首長、三嶋溝咋(ミシマミゾクイミミ)の娘の玉依姫が事代主(古事記では大物主)と結ばれて、神武天皇の皇后のヒメタタライスズヒメを産む。
谷川健一は、『青銅の神の足跡』のなかで、ミミの人は、もともとは南方系の海人で、漁労に長けていただけでなく、稲作農耕や金属精錬技術も習得していたと記している。
そして、ミミの人たちは、鬼退治される側でもあった。
第10代崇神天皇の時、 丹波の大江山は「陸耳御笠(くがみみのみかさ)が支配していて、が日子坐王(ひこいますのきみ・崇神天皇の弟)に退治されたという話が古事記などに残っている。
三島の”ミミ”の人たちも、歴史のある段階において、鬼という立場になった可能性がある。
しかし、その三島の地は、銅鐸の鋳型が35点も出土し日本最大の銅鐸工房の一つとされる東奈良遺跡や、140という日本でも2番目の数を誇る方形周溝墓の倍賀遺跡などを見ればわかるように、弥生時代、日本でも有数の先進地帯を築いていた。
ならば、この弥生時代の先進地帯を築いた人たちが、ミミの人たちで、この人たちと、後からやってきた人たちとのあいだに、血なまぐさい抗争があったのだろうか?
それとも、この場所に、もしかしたら縄文時代から活動していた人たちがミミの人たちで、後からやってきた東奈良遺跡や倍賀遺跡を築いた人たちが、強力な武器をもって鬼退治を行ったのだろうか。
いずれにしろ、アマテラス大神が岩戸に隠れ、タヂカラオの手によって外に導き出されるのだから、アマテラスで象徴される太陽神は、もともとミミの人たちの神様で、鬼退治で象徴される出来事の後、いったんは、その霊威を失うが、後に復活させられたと考えることが自然だ。
アマテラス大神が岩戸隠れをする原因は、スサノオの暴力であるが、具体的には、丹生都比売と同一とされる稚日女尊(わかひるめ)が機屋で美しい布を織っている時、皮を逆さに剥いだ天斑馬(ふちこま)を投げ入れて驚かせ、殺してしまったことがきっかけとなる。
これは、いったい何を意味しているのか?
古代において布は非常に神聖なもので、機織りは、巫女の仕事だった。
神の降臨において、巫女が自ら織った神布を捧げ、神の一夜妻となる。
このビジョンは、七夕祭りにも流れている。
日本では古来より、民間信仰のなかに「棚機津女=棚機女(たなばたつめ)」という行事があった。
それは、水辺につくられた棚機(横板の付いた織機)で乙女が布を織り、神を迎えることを行事化したもので、巫女が神の降臨を待って人里離れた水辺の小屋で一晩過ごし、翌日に笹竹の飾りを川や海に流して穢れも流す。この「棚機女」の信仰と、中国から伝わった「織女伝説」と結びついて、今日の七夕の風習ができた。
川に流すことで浄めるという発想は、祓いの神、瀬織津姫に重なる。
宇治の橋姫は鬼女として伝えられるが、もともと川にかかる橋の神は、外敵の侵入を防ぐ守護神である。そして、この宇治橋は、祓いの神、瀬織津姫が祀られていた。
鬼の橋姫を祀る宇治川の宇治橋は、第1135回のブログでも書いたように、茨城童子が妖術の修行をした茨木市の北に聳える竜王山の真東(北緯34.89)である。
この宇治橋は、中世、鎌倉時代から室町時代に架けられたもので、もともと橋はなくて、五十鈴川の浅瀬を直接渡っていた。そして、今でも同じだが、御手洗場まで行って清めてから参拝を行う。この場所が、川の神を祀る聖地だ。
この川の神が、もともとの伊勢の大神で、それが瀬織津姫だった。
瀬織津姫は、皇大神宮の内宮のすぐ後ろに「荒祭宮」にアマテラス大神の荒魂として祀られている。
内宮には、別宮が10社あるが、その中で、内宮神域にあるのはこの荒祭宮だけで、内宮と同格の扱いを受けている。
そして、皇大神宮には、アマテラス大神が祀られていることは誰でも知っているが、実は、皇大神宮の祭神はアマテラス大神ではなく、相殿神として、左に、アマテラス大神を復活させたタヂカラオ、右には、織物の神であり天孫降臨のニニギの母親である栲幡千千姫命(たくはたちぢひめのみこと)が祀られている。
神話は、物語が重層化して複雑になっているが、構造としてはシンプルである。
天孫降臨のニニギの母親も織物の神であり、つまり、水辺に作られた織機で布を織って神と交わる巫女である。この栲幡千千姫命は、甘南備山、羅生門、大極殿、西賀茂大将軍神社のライン上の、大極殿の北に鎮座する今宮神社境内の織姫社に祀られており、西陣の織物関係者たちが大切に祀ってきた。
織姫の息子で天孫降臨したニニギは、オオヤマツミノミコトの娘のコノハナサクヤヒメと出会う。
日本書紀、一書(第六)において、2人の出会いの場面がこのように記述されている。
…天孫、また問ひてのたまはく、「其(か)の秀(さき)起(た)つる浪穂(なみほ)の上に、八尋殿(やひろどの)を起(た)てて、手玉(ただま)も玲瓏(もゆら)に、機(はた)織る少女(をとめ)は是(これ)誰(た)が子女(むすめ)ぞ」…
この記事からもわかるように、コノハナサクヤヒメも機織りの巫女なのである。
そして、コノハナサクヤヒメは、一夜で身籠もる。まさに、一夜妻である。
織物の神は、巫女であり、川の流れに穢れを流す祓いの神でもあり、また川にかかる橋の神として外敵の侵入を防ぐ守護神となる。
川の流れは、龍神に喩えられることもあるが、時に人々に恩恵を与え、時に凶暴な牙をむく。それは、自然現象においてもそうだったが、人間界においても同じだった。つまり、マレビトは、海だけでなく、川をも伝ってやってきたのだ。
折口信夫は、「客人」を「マレビト」と訓じて、それが本来、神と同義語であるとした。
外部からの来訪者(異人、まれびと)に、宿や食事を提供して歓待する風習は、各地で普遍的にみられるが、その時、一夜妻となる女性がいて、その女性は、神と交わる巫女と同一となった。
マレビトは、新しい知識や新しい技術を伝える役割も果たしていた。
そして、マレビトと結ばれて同族化していく人たちもいただろうし、マレビトとはうまくいかない人もいた。
磐長姫で象徴されるものたちが、後者だった。
イワナガヒメは、名の通り、岩の神の霊威を伝える。それは、古代から延々と伝わってきているものである。しかし、ニニギにとって、それは、異形のもの、異世界のもので、自分のものにはできない畏れ多いものだったのではないか。
ニニギに拒絶されたイワナガヒメの恨みが、日本書紀に記されている。
磐長姫、大きに恥じて詛(とこ)ひていはく…故、生むらむ児(みこ)は、必ず木(こ)の花の如(あまひ)に移(ち)り落ちなむ」…。
…磐長姫、唾(つば)き泣(いさ)ちていはく「うつしき蒼生(あおひとくさ)は、木の花の如(あまひ)に、しばらくうつろひて衰去(おとろへ)なむ。
「生まれる御子は、必ず木の花のようにはかなく散り、この世に生きている青人草は、木の花のごとくしばらくうつろって衰えることになる」と。
イワナガヒメが激しく慟哭しながら呪詛の言葉を吐いているようにも見えるが、言っていることは、世の無常である。
これは、まさしく般若の世界である。
女性の憤怒 (ふんぬ) と嫉妬 (しっと) とを表した般若の面。
目を見開き、眉間にシワを寄せた恨みの表情は、恐ろしくもあるが、悲しさや、恥ずかしさや、後ろめたさがある。
その鬼を鎮める祈祷が、般若心経である。
源氏物語の「野宮」を題材にした能で、鬼の形相になった六条御息所は、般若心経によって鎮められる。
般若は、仏の智慧であるが、その核は、空の思想であり、それは、「無常」つまり「この世に常なるものはない」と悟ること。
磐長姫は、鬼の形相で、無常を語っている。その霊威は般若そのものであり、ニニギには、手が出せない畏れ多いものだった。
娶らなかったというより、神の元に置いたままにした、ということだろう。
山の中の磐座の神威は、ニニギの時代も、それより遥か前の時代も、そして現在も、神の依り代として永遠の霊威を保ち続けているのである。
(つづく)