第1143回 古代は未来への架け橋となりうる。

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丹後の竹野の海岸に立つ穴穂部間人と聖徳太子の母子像。

 

 現代社会で他者との競争に明け暮れて生きる私たちは、私たちの意識というものは、自分の言動を管理している自己意識が全てだと思いがちだ。

 そして、社会での色々な不安や悩み、他人と比較した優越感や劣等感、確執や争い、喜びや満足も、この自己意識の基準の上に生じている。

 脳の専門家の説明では、右脳は感情的な部分を担い、左脳が論理的な部分を担って、そこから人間意識が生じるとされる。

 それに対して、ジュリアン・ジェインズが、『神々の沈黙』という著書の中で、私たちの意識は、古代において大きく変わった時期があったと述べている。

 彼は、その意識の変化は、アルファベット文字を使い始めた紀元前1000年頃と判断した。その根拠として、ギリシャ最古の叙事詩ホメロスの神話において、書かれた時期の異なるイリアスオデッセイアの二つの物語に着目し、イリアスが書かれた頃と、オデッセイアが書かれた頃の言葉の使い方の違いから意識のあり方の変容を見出し、それを、右脳言語から左脳言語への移行というふうに捉えた。

 その言語野の変化によって、人間意識の変化が現れ、それまで自分と世界が一体化されていたのに次第に分断され、社会の変化として、巫女の減少と消滅のことが挙げられていた。

 アルファベットの登場以前、人間の言語野が右脳にあった時は、巫女が、社会の中に当たり前のように存在した。しかし、アルファベットの登場後、言語野が右脳から左脳に移行していくにしたがって、巫女は少なくなり、しかし巫女の重要性は認識されていたため、巫女な素質のある者をデロス島などに住まわせ、世俗的な穢れに染まらないように隔離して育てた。しかし、さらに時代が下り、ローマ時代になると、その努力すらほとんど効かなくなってしまったようだ。

 アレクサンダー大王は、アリストテレスを家庭教師に持つ理性的な人物であったが、東征前に、デロス島の巫女の神託を受けていた。それほど、巫女の存在が重視されていた。それは迷信とかではなく、実際の世界においても、不可欠な力だったようだ。

 そして、ジュリアン・ジェインズは、フェニキア文字以前の未解読の文字言語、ヒッタイト文字やミケーネ文字などが詳しく解読できるようになれば、人間は、現在の自己中心的な意識ではない方法で世界とアクセスすることが可能だと覚ることになるだろうと預言した。

 ジュリアン・ジェインズは、ただの知的好奇心で、このような研究と考察を続けていたわけではない。彼は、我々の左脳言語に偏重した意識が、今日の様々な歪みを生み出していると認識していた。

 たとえば幸福感なるものは、満たされた感覚を得られればそれで幸福なはずなのに、左脳意識のロジックが介入すると、人と比較したり、社会的な体面とか色々な分別で、それを計ろうとして、せっかくの喜びを損なってしまう。

 優劣とか不安とか焦燥とか猜疑心などという幸福感を蝕むものは、左脳意識のお得意な分別から生まれている。この不幸な状況を抜け出すための意識の回路を、ジュリアン・ジェインズは見出そうとしていたのだと思う。

 左脳意識よりも右脳意識が思考回路の軸になるような思考というものはどんなものか。それを知るために、左脳言語を主体にした思考(科学的分析)で、フェニキア文字以前の文字言語を解釈したとしても、意識の構造が異なるから、真の意味で理解できない。理解したと思っていても、それは左脳意識の思考の癖でそう決めつけているだけのこと。

 これは、左脳言語と右脳言語のあいだだけでなく、文学作品などの翻訳でも起こる問題だ。いくら外国語の単語の意味を多く記憶していたとしても、文脈を読む力、書かれている内容の背後を読む力が弱いと、その真の意味を捉えて翻訳することはできない。

 欧米言語の場合は、アルファベットの使用が、意識の変化に大きな影響を与えた。ならば、日本の場合はどうなのか。

 日本の場合は、ヒッタイト文字などのように3000年以上前に遡らなくても、2000年から1000年前に、そうした変化があったのではないか。

 長く平和に続いた縄文時代は、それ以降とはまったく異なる世界観があったのではないかと想像できるが、おそらく意識の在り方も、それ以降とは異なっていたのではないか。

 しかし、弥生時代が始まってからは、急激に島国以外からの人々が増え、異なる文化背景を持つ人々が、この狭い島国で争うこともあっただろうし、そのことによって凄惨なことになったため、まとまって生きていくためにはどうすればいいのか、ということも真剣に考えざるを得なかっただろう。

 そして、国を束ねていく人たちのあいだで、共通文字として漢字が導入された。その漢字を、島国で古くから育まれてきた意識との調和を実現するために、様々な工夫が重ねられ、古事記日本書紀万葉集をはじめとする多様な表現も創造された。この時代が、古代ギリシャでは、ホメロスの神話の時代にあたるのではないだろうか。

 その後、ギリシャでは哲学が発展し、その強固なロジックをもとに、民主制が敷かれる。

 日本も日本ならではのロジックを獲得し、律令制を強化していく。

 しかし、日本の古代の特徴的なところは、おそらくそれ以前の時代がとても豊かで長く続き、その蓄積が大きかったからだと思うが、漢字という中国から輸入した言語に重きを置く意識に抵抗する別の意識が膨らんでいった。そして、仮名文字を、豊かに育んでいく道が、表現分野において実践された。

 石川九揚氏が、二重言語国家・日本という見事な書物で、漢字とひらがなという日本語の二重構造から浮かびあがる日本文化および日本人の意識の深層を、鋭く解いていく試みを行ったが、まさに、日本という国、日本人の意識を考えるうえで、この二重構造に対する認識は不可欠だ。

 私は、漢字と仮名文字を調和させていく試みが、日本の長く平和に続いた古代の記憶を、タイムカプセルのように現代まで伝える箱舟になったのではないかと思っている。

 そして、その揺籃期において、紫式部をはじめとする女性が力を発揮したということ、また、女性にそれを可能にさせる社会構造が、長年の歴史的蓄積によって整えられていたことも大きかったと思う。

 古代日本は、この部分において、きわめて成熟を遂げた社会だった。 

 古代、地方から選ばれて宮中に仕えていた采女と呼ばれる女性も、今日の基準で言うところの美人とか、スタイルがいいとか、そんな下卑た基準ではなく、教養や品格が大事だった。

 宮中に仕えるといっても、単に夜の相手をしたり、お手伝いさんだったわけではなく、大王の話相手や、幼い姫や皇太子の教育係でもあったのだから。

 社会において、女性の文化的地位が高かったのは、おそらく、それ以前から、その基礎が準備されていたからだろう。このことが、日本文化において、とても大きかった。

 というのは、やはり、男性に比べて女性の身体の方が、月経や出産など、自然の摂理に即してできており、自然に基づいた身体に宿る意識は、左脳の自己都合的なロジックに勝るものだからだ。

 1000年ほど前、紫式部などの女性を中心にして、新しい日本の文学が創造された。その文学は、今日では単に文学部、絵画部、音楽部などに分断された専門的部門の一つにすぎないものになってしまったが、言語を使うことで意識を整えていく人間の精神にとって、文学は骨格である。もしも、文学は自分には無縁だと鼻で笑って他分野の表現活動に勤しんでいる者がいたとしたら、時代の風潮のなかで人に受けたりそうでなかったりすることはあっても、古代から箱舟に乗せられて伝えられてきた人間精神の普遍性を、未来へとつなぐ仕事とは、また別のものだろう。

 紫式部たちが創造した文学の中に宿る精神は、その後の様々な表現者や為政者に影響を与えた。本来の詩人は、ホメロス(1人とは限らない)のように言葉の力によって精神の箱舟を生み出すものであって、単に詩と呼ばれる定型の言語活動をする人のことではない。だから、詩人は、画家や音楽家や写真家と違って、詩家とはならず、詩の人であり、名刺の肩書きとなる業界や専門ジャンル、ましてや社会的ステイタスではない。

 

 「詩は志の之くところなり。心に在るを志と為し、言に発するを詩と為す。」

                             (白川静 字統より)

 この意味において、詩心が、過去と未来の紐帯となってきた

 源氏物語」を、実際に読んだこともないのに、漫画や、流行の早わかり本からの断片的情報で、プレイボーイの女性遍歴だと思っている人がいたら、それは非常に残念なことだ。

 「源氏物語」は、ホメロス神話のように、古代の精神と次の時代の精神をつなぐ役割を果たしており、それは、紫式部に、そういう志があったからだ。だから彼女もまた、当然ながら、真の詩人である。

 その紫式部に影響を与えたと思われる竹取物語

 紫式部が、源氏物語のなかで、「物語の出で来はじめの祖(おや)なる竹取の翁」と書いているように、日本最古の物語といわれるが、成立年も、作者もわかっていない。原本も存在しない。もっとも古い写本でも、室町時代に書かれたもので、それでも原本の時代から300年が経っており、しかも、この写本はほとんど流通しておらず、多くの人が現代語訳で知っている「かぐや姫」は、江戸時代に活字印刷で出回った「流布本系」を原本としている。

 実際に竹取物語が書かれてから1000年近く経ち、写本を繰り返すうちに、その時々の価値認識にもとずく判断で、文脈は大きく変わっていないにしても表現に修正が加えられていった写本を、竹取物語の原本としているのだ。

 助詞や助動詞の表記も、1000年前と同じかどうかわからない。

 「ぬ」という文字も、否定なのか完了なのか、未然形、連用形、終止形など、学校教育の古文で習う方法論に添って理解しようとしても、そもそも、平仮名一文字が書き換えられていたら、意味が大きく違ってしまうことになる。

 なので、物語の真意は、文脈全体から判断していくほかない。

 しかし、文脈といっても、古典研究に精を出すだけや、物語の中だけを解析してもわからないだろう。文章の背後のことを想像力で補えるだけの時代認識も必要だ。

 上に述べた”巫女”ということについても、時代によってその捉え方がまったく異なる。

 現代で巫女といえば、神がかりをして、時には口から泡を吹いたりして、わけのわからないことを言う宗教家だと思っている人が多いかもしれない。

 それはともかく、紫式部は、竹取物語から、古代から箱舟に乗せられてきた大切な精神のエッセンスを受信している。それが、”もののあはれ”という形でさらに磨き抜かれていく。

 物語の出で来はじめの「竹取物語」」の作者も、自分勝手な想像力で物語を作ったわけではなく、それ以前の時代から伝わっているものから、精神のエッセンスを掬い取っている。

 竹取物語の成立は平安初期と考えられているが、”もののあはれ”の精神の起源はそれ以前にある。とくに、上に述べたように、漢字という新しい思考の様式が入ってきて、それまでの思考の様式との違いに軋轢を感じながら、なんとかそれを分断させずに調和させようと努力していた時代、6世紀頃からの精神文化が、古代と新しい時代をつなぐ架け橋として、非常に大きな役割を果たしたことだろう。

 文学作品は、上に述べたような修正が加えられ、原本に触れることもできず、原本のように信じられている多くの写本も修正が加えられており、古代へとアクセスするためのハードルは非常に高い。

 しかし、造形美術は、ストレートに、私たちの左脳意識以外の意識に働きかけてくる力がある。

 完全な形で現存する造形美術として最も古い斑鳩中宮寺の半跏思惟像や、国宝第一号の京都の広隆寺弥勒菩薩像を愛する日本人はとても多い。

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中宮寺 木造菩薩半跏像 (中宮寺ホームページより)、広隆寺 弥勒菩薩(パンフレットより)

 この二つの像を、仏像のジャンルで分けることにまったく意味はない。

 日本が、まだ仏教を消化しきれていなかった時代に作られた、静かに物を思うあの表情、あの微かな笑み、あの佇まいに心惹かれる人が多いのだ。

 竹取物語の作者もまた、中宮寺の半跏思惟像や広隆寺の彌勒菩薩像によって、古代から伝わってきた精神文化のエッセンスを受け取ったことだろう。

 中宮寺の半跏思惟像は、中宮寺に住み、その場所を尼寺にした穴穂部間人や、聖徳太子とつながっている。そして、物部氏蘇我氏の戦いの時に丹後の竹野に隠遁していた穴穂部間人は、竹野の土地とつながっている。そして、第11代垂仁天皇の妃で、竹野媛の後裔で、竹野の地をルーツに持つ迦具夜比売命かぐやひめ)をモデルにしたとされる竹取物語は、丹後の竹野の地の記憶と無関係であるはずがない。

 穴穂部間人が丹後の竹野に隠遁していたのは、おそらく彼女の母親が、その土地とつながっているのだ。母親とは、蘇我稲目の娘で欽明天皇に嫁いだ2人のうち1人の小姉君(おあねのきみ)だ。

 小姉君の娘の穴穂部間人は、用明天皇の皇后になるが、ともに父親は欽明天皇である。そして、用明天皇の母親が、蘇我稲目の娘である堅塩媛(きたしひめ)で、穴穂部間人の母親が、蘇我稲目の娘の小姉君。もしも、堅塩媛と小姉君が実の姉妹だとすれば、用明天皇と穴穂部間人の子供の聖徳太子に流れる血は濃すぎる。

 小姉君は、蘇我稲目の養子と考えるのが自然であり、なぜ彼女を養子にしたのかというと、おそらく、丹後を拠点にする海部氏と同盟関係を結ぶためだろう。

 穴穂部間人が、丹後の竹野に身を隠すことができたのも、母親の実家だからだと考えると筋が通る。

 そして、興味深いことに、蘇我氏が滅ぼされた後に天皇に即位した孝徳天皇の皇后となりながら、難波京において、孝徳天皇と関係を断つようにヤマトの地に帰ってしまった中大兄皇子と行動をともにした間人皇女も、聖徳太子の母親と同じ名前だ。

 彼女は、中大兄皇子の妹とされ、兄妹の間で禁断の恋に落ちたからだとする世俗的な発想の説もあるが、2人を産んだとされるタカラノヒメミコ(後の皇極天皇重祚して斉明天皇)は、他の男性に嫁いでいたのに、37歳の時、突然、舒明天皇の皇后になり、中大兄皇子天智天皇)と大海人皇子天武天皇)と間人皇女を産んだとされる。しかし、37歳以降というのは今でも高齢出産であり、当時だとちょっと考えられない。

 間人皇女は、養子縁組だと判断するのが自然だろう。そして、彼女もまた丹後の竹野の間人と関係している可能性が高い。なぜなら丹後の海部の力は、大化の改新乙巳の変)の後の新政権にとっても重要だからだ。

 丹後の竹野は、羽衣伝説の土地でもあるが、この地域の女性の役割を踏まえることなく、竹取物語の本質にたどり着けないと思う。

 海部氏の拠点である丹後の女性とは、簡単に言うと、神に奉斎する聖なる人であり、さらに同盟関係における紐帯。

 中世の戦国時代において、同盟関係を結ぶ大名同士の間では、妻や子供が人質にとられたが、古代において、同盟の紐帯で人質の役割も負う女性は、時には皇后になり、皇統を継ぐ子供を産む人物でもあった。

 垂仁天皇の皇后となり景行天皇ヤマトタケルの父)を産んだと神話に記録される日葉酢媛(ひばすひめ)も丹後の女性である。

 とくに、丹後の竹野川流域は、古墳の多さや多くの弥生遺跡などの出土品から判断して、古代から栄えた場所であることは間違いないが、飛鳥時代の頃は、海部氏と呼ばれる海人の拠点でもあった。

 海人は、単に漁に勤しむ人ではなく、船舶を自由に操る人たちであり、古代世界において重要な役割を果たしていた。

 古代に限らず、中世においても、たとえば豊臣秀吉は、瀬戸内海の村上水軍を味方にするための懐柔策を駆使しており、水軍が敵につくか味方になるかで、勝負の行方が決まってしまうところがあった。

 海部氏と尾張氏アメノホアカリを始祖とする同族であったとされるが、それは、もしかしたら同盟関係の盟約が結ばれたうえでの同族だったかもしれない。尾張氏物部氏が同祖とされるのも、それと同じかもしれない。

 6世紀のはじめ、突然、天皇に即位することになった第26代継体天皇の最初の妃は、尾張目子媛であり、継体天皇は、尾張氏の力を味方につけていた。

 ある日、突然、福井の王が、歴史の表舞台に登場したわけではないのだ。

 壬申の乱で勝利を収めた大海人皇子天武天皇)は、その名からもわかるように、幼少期に、若狭湾の沿岸で、凡海氏(海部一族の伴造) の養育を受けていた。

 欽明天皇の時代に、蘇我稲目が、突然、頭角を現すようになるが、小姉君を通して、丹後の海部氏との関係が深まったからだろう。

 小姉君は、聖徳太子を産んだとされる穴穂部間人や、その兄弟の穴穂部皇子崇峻天皇を産む。

 しかし、穴穂部皇子は、敏逹天皇が亡くなった時、次の王は自分であると横暴に振る舞い、その後、物部守屋と組むが、蘇我馬子に阻止されて、物部氏とともに滅ぼされる。崇峻天皇も、即位したものの自分の思うどおりにできないと不満をもらし、蘇我馬子に殺害される。

 これらのことについて、歴史の教科書は蘇我氏の横暴を伝える。

 しかし、穴穂部皇子の行動は、かなり問題がある。

 というのは、穴穂部皇子は、敏逹天皇が亡くなった直後、炊屋姫(敏達天皇の皇后、後の推古天皇)を犯そうとして、天皇の死体を安置している神聖なる殯宮に押し入ろうとしたのだ。その時、敏達天皇の寵臣の三輪逆(みわのさかう)が門を閉じてそれを防いだのだが、そのことに怒った穴穂部間人は、三輪逆を殺すように物部守屋に命じ、守屋は軍を率いて実行した。その時、蘇我馬子は、「天下の乱は近い」と嘆くが、守屋は「汝のような小臣の知るところにあらず」と答えたと記録が残る。 

 こうした記録を見れば、蘇我馬子は、海部の力を背後に持つ穴穂部間人と物部守屋が結びついて、傍若無人な行動を起こしつつあったことを憂いているようにも見える。

 崇峻天皇の暗殺にしても、崇峻天皇が、蘇我馬子を殺害することを暗示したからでもある。もしかしたら蘇我馬子は、様々な勢力の調和をはかりながら国をまとめていこうと、聖徳太子と協力しながら努力していたにもかかわらず、穴穂部皇子崇峻天皇が、自分たちの背後にある丹後の海部の力をもとに、横暴になっていた可能性もある。

 そう考えないと、蘇我馬子物部守屋との戦いの際、聖徳太子蘇我氏と行動をともにした理由がわからなくなる。いくら、聖徳太子の父親(用明天皇)が蘇我氏の血を受け継ぐとしても。聖徳太子は、叔父の穴穂部皇子の粗暴な振る舞いよりも、蘇我馬子の方が、国を束ねるうえで相応しいと判断していたのではないか。

 蘇我氏は最初、強力な軍勢を持つ物部氏の前に劣勢だったが、聖徳太子が、「この戦いに勝利したら、四天王を安置する寺院を建立し、この世の全ての人々を救済する」と誓いを立てたことで、流れが変わり、勝利したとされる。

 これが大阪の四天王寺の起源であるが、単なる神頼みを行ったわけではなく、河内の勢力を味方につける何かしらの根回しがあった可能性もある。

 物部守屋を弓で射た迹見赤檮(とみのいちい)は、物部氏の一族であるという説もあるが、この戦いの後、勝利の殊勲者として、物部氏の遺領から一万田を賜与されており、彼が寝返ったと想像することは可能だ。

 蘇我氏物部氏の戦いの時、穴穂部間人は、母と義母が蘇我氏の出身で、兄の穴穂部皇子物部氏とつながっていたわけだから、その心中は、さぞ複雑なものだったろう。

 日本神話は、悲劇の女性を主人公にするものが、とても多い。

 旅している天皇が、各地で出会った女性に妻どいをするという形をとっているが、同盟関係を結ぶための手続きが、神話化されているのだろう。

 しかし、大切な紐帯役として嫁いでいく女性は、同盟関係が破綻する時、垂仁天皇の皇后、狭穂姫命(さほひめのみこと)のように、兄をとるか、天皇をとるかと迫られて引き裂かれる。

 世の不条理にさらされて、女性は、よりいっそう神話的な存在となっていく。

 紫式部が書き上げた長編小説の源氏物語も、光源氏のまばゆい魅力が、光源氏と関わりを持つ1人ひとりの女性の個性を、より鮮明に浮かび上がらせる。

 女性たちは、実に多様な、個性ある存在として書き分けられている。

 多様社会といわれる現代、実際のところ、源氏物語の登場人物ほど多様な個性を、1人ひとりが持ち合わせているだろうか。

 源氏物語に登場する女性たちの多様性を生み出すものは、いったい何なのか。

 それは、彼女たちが、世間の基準にそって分別を駆使しながらエゴを肥大化させる人物ではなく、関わりを深める他者の隅々まで気持ちを行き届かせることでエゴを滅却し、その結果、世間の基準が無化された、その人自身の色が立ち上がってくるからだろう。ジュリアン・ジェインズの言葉を借りれば、左脳言語による計画や打算ではなく、右脳言語に即した無為の献身によって、時代を超えた個性的な存在となる。

 それに対して、竹取物語において、かぐや姫に求愛し、かぐや姫に試みられる男性陣の、狡いけれども滑稽な顛末となる言動は、自己基準の左脳言語に即した意識による茶番ということになるだろう。

 竹取物語の作者は、丹後の竹野の女性たちが、異なる勢力のあいだで紐帯の役割を果たしながら運命に翻弄されてきた歴史事実をもとに、神聖なるものと穢れた世俗に関する比喩表現を立ち上げたのではないか。

 今から、1000年以上も前に、人間意識の違いを絶妙に書きとめながら、普遍性を追求している姿勢は、とても感動的であるが、それもまた、古代からの蓄積があってのこと。

 そして、それらの文学が、後の時代に多大なる影響を与えているわけだから、まさに、古代は、未来の架け橋となっている。計算高い左脳意識による計画によってではなく、エゴによって分断される世界の紐帯にならねばという志を育む右脳意識と結びつくことで。

 古代に限らず世界というものは、解釈の度合いを人と競い合うだけでは何にもならない。自分に引き寄せて、その根元を解かなければ、どこにもつながらない。

 

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