第1145回 この国の祈り

 以前から気になっていることがあります。『古事記』や『日本書紀』の国譲りの物語の解釈についてです。

 国譲りの物語は、苦労して国をまとめあげたオオクニヌシに対して、天孫といわれる神様たちが国譲りを迫るものです。

 大陸から渡ってきた勢力(後のヤマト王権)を高天原天孫とみなし、それ以前から存在していた出雲国葦原中国)の王がオオクニヌシで、国譲りというのは、ヤマト王権出雲国葦原中国)を帰順させたというのが基本的な認識になっています。

 そして、出雲国の場所としては、これまでは島根県出雲大社が鎮座する場所と考えられていましたが、あの出雲大社は7世紀以降に造られたものであることがわかり、周辺に古墳なども存在せず、さらに『出雲国風土記』には国譲り神話も天孫降臨神話も記されていないゆえに、出雲大社のある場所は、7世紀以降、記紀の神話にそって人工的に作り出されたものだと考えられるようになってきています。

 ならば本来の出雲はどこにあったのか?という疑問が生じますが、古事記日本書紀で描かれる国譲りに似た物語は各地に残っており、代表的なものとして、『播磨国風土記』の中に、渡来系の天日槍(アメノヒボコ)と土着の伊和大神の確執の物語があります。この2神は土地争いをしますが、なかなか勝負がつかず、周りのものに迷惑をかけるだけだと悟った2神が、妥協案を決め、伊和大神は播磨、天日槍は但馬を開発することになったというものです。

 こうした新旧の対立は、日本中どこにでも見られたはずで、それらが記紀の編者に影響を与えた可能性もありますが、記紀の国譲りの物語というのは、古代に起きた地上の土地争いのことを単純に伝えているだけなのだろうか?と、私は疑問に感じるのです。

 記紀のなかの国譲りの場面を振り返ると、天孫の神々が高天原から葦原中国を見た時、蛍火のように勝手に光る神や、ハエのように騒がしい邪神が多くいて、草や木さえも言葉を話せる状態であり、アマテラス大神やタカミムスビ神を中心に「葦原中国の邪神達を平定するために誰を派遣すべきか」と、議論がなされています。

 そして、最初に派遣されるのがアメノホヒという神ですが、この神は、オオクニヌシに心服して高天原に戻りませんでした。

 アメノホヒというのは、第11代垂仁天皇の時、それまで行われていた殉死の風習に代えて埴輪を用いることを考案し、土師臣(はじのおみ)の姓を賜った野見宿禰の祖神ですので、古代の祭祀に影響を与えた神と言えると思います。

 国譲りの前の状態である、”ハエのように騒がしい”という表現は、記紀のなかでは、これ以前に二回出てきます。

 一つ目は、スサノオが、母の国である根の堅洲国に行きたいと願って、泣きわめき、その声があまりにも激しく、青々とした山は枯れ、川や海はすっかり乾ききった時で、「是を以ちて悪ぶる神の音、狭蝿如す皆満ち」て、あらゆる禍が起こったとあります。

 二つ目が、アマテラス大神が天の岩戸に籠ってしまった時で、高天原も葦原中國も暗闇になり、「是に万の神の声は、狭蝿那須満ち」て、あらゆる禍が起こったとあります。

 「さばえ‐なす」というのは、万葉集でも騒ぐとか荒ぶるにかかる枕詞ですが、一般的には、”さばえ”を、五月蝿と書いて、五月頃、群がり騒ぐ蝿だと解釈されているのですが、果たして、その程度の解釈でいいのでしょうか?

 スサノオが天をも揺らすような大声で泣き喚いた時は、山も枯れ、川も干上がってしまい、アマテラス大神が岩戸にこもった時は、世界中が暗闇になってしまいました。そういう状況ですから、昆虫の蝿が群がり出てきたというよりは、もっと深刻な現象を表しているに違いありません。

 活火山の桜島のある鹿児島では、蝿と火山灰は同じ”へ”と発音するそうですが、空中を漂う無数の黒いものというイメージが、蝿と火山灰で一致するのでしょう。

 山も枯れ、川も干上がり、世界が暗闇になった時、黒い火山灰が空中に舞い続けているイメージは、リアリティがあります。これは、古代から火山の大噴火の後に繰り返されてきた現象でしょうし、空中に漂い続ける火山灰によって深刻な日照不足となり、その後、作物への影響など様々な災禍が続けて起こったことでしょう。

 このことは、火山国の日本だけでなく、たとえば紀元前1500年頃、エーゲ海サントリーニ島が大爆発した時、津波地震、噴火に伴う雷鳴、空から降り注ぐ焼けた岩、そして数年にわたって空中を漂い続けた火山灰によって太陽光線が遮られたことによって、クレタ島、新王朝のエジプト、トルコのヒッタイトなど周辺諸国に壊滅的な被害が発生し、その混乱に拍車をかけるように、海の民という新勢力による大規模な移動と侵略行為が重なり、地中海周辺の文明圏の姿を一変させました。その潜在的な記憶は、後の様々な神話や聖書などに伝えられています。

 古代日本において、”さばえ”が満ちた状況は、アマテラス大神が天の岩戸に籠った時にも、国譲りの前にも起きていました。そして、アメノタジカラヲが岩戸を開いてアマテラス大神が岩戸から出てくると世界が一変するのですが、国譲りもまた、単なる土地争いのことではなく、何かしらの大きな出来事の後のパラダイムシフトだと想像することは可能です。

 国譲りにおいて最初に派遣される神はアメノホヒであり、この神が象徴している役割を踏まえると、祭祀の変化が考えられます。すなわち、火山噴火や地震などの天災を避けて通れないこの島国の環境で、人間社会の秩序をどう整えていくべきかという大きな課題が、国譲りの物語の背後にあるかもしれません。

 ここでまず考えなければいけないことは、日本という国の治め方の特殊性です。日本の歴史を天皇抜きに語ることはできません。天皇は、他国の王様とは少し違う存在の仕方をしています。 

 現在でも、天皇な莫大な公務を行っておられますが、テレビなどで伝えられる天皇の姿とは別に、一般の人々には知られない大切な仕事があります。

 それは、祈りです。

 2019年4月30日を持って退位された上皇明仁は、退位の前に、天皇の務めとして何よりもまず国民の安寧と幸せを祈ることを大切に考えて来ました。」という言葉を述べられました。このたびの譲位も、体力が落ちている状態で公務の負担がかかりすぎると、日々の祈りに支障が出てしまうという真摯な思いからです。

 歴代の天皇は、宮中にて、国の安泰と国民の幸福、さらに世の中の平和を祈念した祈りを、人知れず、連綿と続けておられ、その秘儀の中の秘儀は、天皇から天皇への口伝で伝えられています。 

 世俗的な権力者ではなく、祈りの存在である天皇が、内閣総理大臣最高裁判所長官の任命や、国会の収集を行うことに深い意味があるのです。

 日本における天皇による権威づけは、個人の世俗的な我欲を超えたものであるということが前提になります。もちろん、その大きな説得力が、権力者による天皇の利用につながり、実際に、歴史の中で、そうしたことが繰り返されてきました。

 春・秋のシーズンで約4000人ずつ、褒章は約700人ずつが受章している叙勲にしても、その名簿と功績調書に天皇陛下が目を通され、天皇陛下から授与される形がとられていることが重要で、それは、その叙勲が、世俗的な我欲を超えた価値という意味を持つからでしょう。(現実的には、世俗的な現実の中で他人に自慢できる栄誉を獲得したという矮小化が起きているだろうとは思いますが。)

 いずれにしろ、神話というものが、天皇の権威を高めるために作られたとしても、その権威とは、権力者の世俗的なポジションのためではなく、天皇の祈りの意義を高めるためのものです。それゆえ、古代日本における神話の創造は、侵略戦争などの戦いの勝利を正当化するためのものである必要はないのです。

 天武天皇古事記の編纂を命じたことや、藤原不比等の関わりについて、”当時の体制の正当化のため”と解釈することは、あまりにも現在の我々の価値観に当てはめすぎているように思われます。知ったかぶりの人たちが口にする藤原不比等の陰謀説においても、古事記の中に、それほど藤原氏を優先化するような記述は思い当たりません。

 ところで、日本という国において、天皇が祈りを行う際、いったい何に重きが置かれるのでしょうか?

宮中の作法はまず第一に神事、その後に他のことがあって、朝夕に神を敬う」といった天皇の基本姿勢が、13世紀前半の順徳天皇(第84代)が著した『禁秘抄』の冒頭に書かれていますが、それが日本の天皇の普遍的な姿であり、日本社会がすっかり西欧的価値観に覆い尽くされた現代でも、天皇陛下は、その姿勢を受け継いでおられます。

 天皇が宮中で行っている宮中祭祀について、原初の姿を知る術もありませんが、701年に制定された大宝律令から927年に制定された延喜式のあいだに、今日の体系的な祭祀の基礎が完成されています。律令時代には、祈年祭月次祭新嘗祭が重視され、また大嘗祭も最大の祭儀として成立しています。

 大嘗祭は、新しい天皇陛下が初めて行う新嘗祭で、新穀を神に奉り、その恵みに感謝し、国と民がいつまでも安らかであるように祈る祭りです。

 大嘗祭儀礼は秘儀ですが、その中でも根幹にあるのが、繒服(にぎたえ)と麁服(あらたえ)という布織物であるとされます。この二つは、神衣(かみそ)と呼ばれ、神の依代(よりしろ)として神聖視されているのです。

 この二つの織物の使い方は明らかにされていませんが、通説では、即位する皇子が儀礼が行われる深夜に、これらの布を身に纏い、祖霊である神々とひとつになることで、本当の天皇になると言われています。

 織物は、過去から連綿とつながる時間を織る事の象徴で、それを自分の身にまとうことが、世の災いを鎮める力につながるということなのかもしれません。

 麻の麁服(あらたえ)は、古代から阿波国忌部氏が奉織することが定められており、鎌倉時代頃からは、忌部氏の子孫である三木家が調進を行い続けてきました。

 一方、絹の繪服(にぎたえ) は、古来から東三河豊橋市豊川市の周辺)のもので、その理由として、はっきりしたことはわからないとしたうえで、東三河の絹の質が高いからと説明されていますが、本当にそれだけの理由なのか疑問です。

 この二つの地域は、当時、都のあった近畿圏に隣接する西と東で、ともに中央構造線の上にあるのですが、そのことと、神の依り代となる布織物との関係は、どこにも説明されていません。

 私は、この中央構造線というのが、日本の祭祀の根幹において、重要な鍵を握っているのではないかと思っています。

 中央構造線上には、伊勢神宮をはじめ日本を代表する聖域がズラリと並んでいます。

 そして、記紀の中の国譲りの神話で、最終的に雌雄を決するのはタケミカズチとタケミナカタの力比べですが、この二つの神を祀る聖域の代表が、茨城県鹿島神宮と長野県の諏訪大社であり、これらの地も中央構造線上なのです。

 国譲りの神話なのに、鹿島や諏訪の聖域は、邪馬台国ヤマト王権の拠点である九州や近畿に比べて、随分と東に寄っています。

 また、アマテラス大神が岩戸に隠れてしまう前、スサノオが横暴に振舞っていても、アマテラス大神は、理由あってのことだろうと寛容です。しかし、アマテラス大神が機屋で神に奉げる衣を織っていた時にスサノオが機屋の屋根に穴を開けて皮を剥いだ馬を落とし入れ、驚いた1人の服織女の陰部に横糸を通す道具が刺さって死んでしまった時、アマテラス大神は、天の岩戸にこもってしまうのです。

 つまり、スサノオは、織物を神に捧げるという行為を冒涜し、そのため、昼も夜も区別のない暗闇の世界になってしまいました。

 すると、アマテラス大神の復活は、当然ながら、織物の復活も意味します。

 だからかどうか、伊勢神宮の内宮では、誰でも知っているアマテラス大神だけではなく、天の岩戸からアマテラス大神を外に導き出したアメノタヂカラヲと、織物の神である栲幡千千姫命(タクハタチヂヒメノミコト)も一緒に祀られています。

 栲幡千千姫命は、火瓊々杵尊ホノニニギノミコト)の母親ですが、ホノニニギノミコトが天孫降臨の後に娶ったコノハナサクヤヒメもまた、機織りをしていたところ、声をかけられました。

 織物にはそれだけの深い意味があるのです。

 新しい天皇が即位する時の大切な儀礼である大嘗祭で重要な役割を果たす麻織物の産地である阿波(徳島)と、絹織物の産地の東三河が、中央構造線上にあり、国譲りの主役であるタケミカヅチの聖域の鹿島神宮タケミナカタの聖域の諏訪大社中央構造線上です。

 鹿島神宮奥宮近くに、三十センチほどの石を祀る小さな祠がありますが、この石は、地表に出ている部分は全体のごく一部で実際は地中深くまで達する巨石であり、地震を起こす原因となる巨大なナマズの頭を押さえていると伝えられ、要石と呼ばれます。つまり、タケミカヅチの聖地は、明らかに、大地の下のエネルギーと関係しているのです。

 そして、天の岩戸の神話で活躍するアメノタヂカラヲは、伊勢神宮に近い佐那神社で古くから祀られており、さらに吉野に多く見られる九頭神社などにも祀られていますが、伊勢神宮から吉野、高野山のラインは水銀の鉱脈のあるところで、中央構造線上です。

 さらに、アメノタヂカラヲの聖域として長野県の戸隠神社がよく知られていますが、戸隠神社諏訪大社の真北に位置しており、日本海に面した糸魚川から、諏訪大社、太平洋に面した静岡市を結ぶ糸魚川・静岡構造線に接しています。糸魚川・静岡構造線は、西側のユーラシアプレート、東側の北アメリカプレートというプレートの境界線なのです。

 日本列島は、四つの巨大なプレートが重なる複雑な地殻構造の上に存在していますが、その重なりの一つが、ここにあります。

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世界屈指の巨大な断層である中央構造線にそって、西から東まで重要な聖域が並ぶ。東から茨城の鹿島神宮、長野の諏訪大社、そこから南に曲がり、ゼロ磁場で知られる分杭峠東三河の霊山の本宮山、その麓の砥鹿神社、愛知の豊川稲荷、三重の伊勢神宮、奈良の吉野離宮高野山、和歌山の日前神宮、淡路島の南でオノゴロ島の候補である沼島、徳島の大麻比古神社、愛媛の石鎚神社、熊本の阿蘇神社、鹿児島の新田神社。そして日本海糸魚川から太平洋側の静岡市までが、糸魚川・静岡構造線というプレートの境界。中央構造線糸魚川・静岡構造線の交わるところが諏訪。日本の真ん中、南北にのびる赤い垂直のラインは、東経138.07度で、北からアメノタヂカラヲを祀る戸隠神社諏訪大社(下社)、南アルプスを経て、アメノタヂカラヲの娘の和魂を祀る阿波々神社、荒魂を祀る事任八幡宮

 糸魚川・静岡構造線の西は、5億5,000万年前 から6,500万年前の古い地層なのに対し、東は2,500万年前以降の堆積物や火山噴出物で出来ており、東と西で地層構造がまったく異なるものになっており、この糸魚川・静岡構造線と、中央構造線が交わるところが、国譲りの主役の1人、タケミナカタの聖域である諏訪ということになります。

 また、戸隠神社諏訪大社の真南に南アルプスがあります。北アルプスとともに南アルプス日本の屋根と呼ばれますが、北アルプスには火山がたくさんあるのに対し、南アルプスには火山が一つもありません。地質的にも、火山の噴火でできた火成岩ではなく、地中深くでマグマが冷えて固まった花崗岩が隆起してできた山脈が南アルプスなのです。

 東日本の火山帯は、北海道から東北を通り抜け、八ヶ岳や富士山のところで南へと進路を向け、伊豆半島、伊豆諸島へと続きます。

 南アルプスは、その火山帯に向き合うように連なる、別の地質で形成された巨大な壁なのです。

 その南アルプスの真南に、静岡県掛川市の阿波々神社と事任八幡宮が鎮座します。

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南アルプスの南端、粟ヶ岳の山頂に鎮座する阿波々神社。

 

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阿波々神社の真南に鎮座する事任八幡宮


 阿波々神社と事任八幡宮の場所は、戸隠神社諏訪大社と同じ東経138.07度です。 

 阿波々神社の祭神は、阿波比売(アワヒメ)ですが、社伝によれば天津羽羽神(アマツハハノミコト)の別名であり、この神は、アメノタヂカラヲと同じとされる天石戸別命(アマノイワトワケノミコト)の娘です。

 また、事任八幡宮の祭神は、日本でここだけに祀られている己等乃麻知媛命 (コトノマチヒメノミコト)という神ですが、この神は、阿波比売(アワヒメ)の荒魂です。

 つまり、アメノタヂカラヲの娘である天津羽羽神(アマツハハノミコト)の和魂が阿波々神社に祀られ、荒魂が事任八幡宮に祀られていることになります。

 日本列島の火山帯は、東と西に分かれ、東は北海道から伊豆半島、西は、南洋諸島から九州、そして山陰へと抜ける構造になっており、この二つのあいだ、近畿を中心に東は東三河、西は四国において、火山は存在しません。

 

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洞爺湖有珠山ジオパークのホームページより)

 

 火山国日本のなか、火山が存在しない近畿を中心にしたエリアの東西の端で、中央構造線上にある場所が、大嘗祭で重要な役割を果たす麻織物の阿波と、絹織物の東三河なのです。

 そして、東日本の火山帯を遮る壁のようになっている南アルプスの東経138.07度のラインに、世界の暗闇を終了させたアメノタヂカラヲとその娘が鎮座しているのです。(西の火山帯の壁は島根県の出雲)。

 中央構造線や、糸魚川・静岡構造線は、日本の大地を引き裂く巨大な断層です。当然ながら、地下のエネルギーは凄まじいものがあり緊張を孕んでいますが、火山は、大地が引き裂かれる断層の上にできるのではありません。火山は、プレートの下に沈み込んだ海のプレートからの水の働きによって上部マントルの一部が融けて上昇していき、マグマが形成されて、それが地表に噴出することで生じますので、プレートの境界などの断層の近くに、断層と平行して並ぶ傾向があります。

 そして、地殻のエネルギーが高まれば大規模な噴火になりますから、巨大な断層の中央構造線糸魚川・静岡構造線は、火山噴火や、それと連関する大地震などをもたらす地下活動の変化をキャッチする重要なセンサーだと言えるでしょう。

 それゆえ、そこに聖域があり、神が祀られるというのは、理由があってのことと思われます。

  中央構造線上で、直接的に政治とつながる場所としては、吉野離宮があります。

 律令国家の体制を築いた天武天皇は、古代最大の内乱とされる672年の壬申の乱の時、吉野離宮で挙兵を行いました。吉野離宮があった場所と考えられている宮滝遺跡は、中央構造線の緑色変岩の断層崖に面しています。

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吉野離宮のあった宮滝遺跡。

 そして、壬申の乱の勝利の後、天武天皇は、679年、皇后となった鵜野皇女(後の持統天皇)や草壁皇子ら6人の皇子を連れて吉野離宮を訪れ、異母兄弟同士互いに助けて相争わないことを誓わせた吉野の盟約を行っています。

 また、持統天皇は、在位中に31回、文武天皇への譲位の後も2回、吉野離宮行幸を行っています。

 吉野は保養地でリフレッシュのために訪れていたのかもしれないという意見もありますが、季節に関係なく行幸を行っていますので、保養のためといより、天皇の大切なつとめを果たすために吉野離宮を訪れていたと考えた方がいいのではないでしょうか。持統天皇の後、文武天皇元正天皇聖武天皇の時も、吉野宮への行幸が行われています。

 これらの天皇が吉野離宮に何度も通っていた時は、まさに『古事記』や『日本書紀』が編纂された頃です。吉野離宮には、いったいどんな意味があったのでしょう。

 『日本書紀』には応神天皇雄略天皇の吉野行幸の記事が見られるものの、離宮が築かれたことを明確に示している記事は、656年、斉明天皇の時です。

 斉明天皇は、天智天皇天武天皇の母親ですが、49歳という高齢で皇極天皇として即位し、乙巳の変大化の改新)の後に弟の孝徳天皇に譲位しますが、孝徳天皇の死後、62歳の時、再び斉明天皇として重祚するという異例の天皇です。

 この皇極天皇斉明天皇)の時代、日本書紀には、天変地異のことが数多く記録されています。

 即位1年6月、日照りがある。7月、客星が月に入る(不吉)。蘇我蝦夷が仏教儀式を行っても雨は降らず、8月、天皇が拝むと雨が降る。即位1年10月、8日地震、9日地震。11月、大雨と雷。12月、春のような気候。即位2年1月 五色の雲が立つ。大風が吹く。4月、大風と雨。即位2年5月、日食。即位2年8月、茨田池の水が藍の汁のような色になり、虫が浮かび、水が凝固し、魚が死んだ。斉明天皇即位1年5月、空に竜に乗るものが見える。即位6年、ハエの大群が現れたので、救援軍が敗れる予兆と考えた。

 ハエに関しては、推古天皇が亡くなる前も、

 即位34年、蘇我馬子が亡くなって、長雨で飢える。即位35年にハエが大量に発生、即位36年 推古天皇が病気になり、日食で太陽が消え、推古天皇が亡くなる。

 という記録があります。

 この場合の”ハエ”も、上に述べたように、単なる昆虫の蝿でなく、火山噴火による火山灰など、より深刻な影響を与える不吉なものだと思われます。

 天変地異が頻発した時代、祈雨の拝みで結果をもたらす神がかった能力を発揮した斉明天皇は、吉野離宮を築きました。

 そして、天武天皇も、神がかった力を備えていたようで、『日本書紀』の天武天皇の巻において、冒頭、天皇の出自や幼名などが紹介されたあと、いきなり「天皇は天文や遁甲(とんこう)の術をよくされた」という文章が見られます。そして、その実例として、壬申の乱の際のエピソード、「横川に着こうとするころ、黒雲が現れ、広がって天を覆った。天皇はこれを怪しんで、式(ちょく)を執り、『これは天下が二分されるという天象だが、最後には私が天下をとるであろう』と占った」とあります。

 この神がかった力を持つ天武天皇が、吉野離宮で、子供達に争わずに協力してやっていくように盟約を結ばせ、持統天皇は、その吉野離宮に33回も行幸を行っています。

 これらは、吉野離宮という場所が中央構造線上にあることと無関係とは思えません。上に述べたように、麻の麁服(あらたえ)と、絹の繪服(にぎたえ) を準備する場所、諏訪大社鹿島神宮伊勢神宮日前神宮など、重要な聖域の多くが、中央構造線の上に鎮座しているからです。

 日本は、4つのプレートの境界ということもあり、地下にエネルギーがたまり、地震や噴火が頻発します。こうした環境下において国と民の安らかさを願ううえで、大地の下の状況に無関心でいられるはずがありません。

 ならば、地下のエネルギーの問題への対応と、国譲りがいったいどういう関係を持つかについて、さらに考える必要があります。 

 絹の繪服(にぎたえ) を準備する東三河の古くからの霊山、本宮山の山頂には、三河国一の宮で、大己貴命(おおなむちのみこと)を祭神とする砥鹿神社の奥宮が鎮座しますが、この奥宮も、里宮も、中央構造線上にあります。

 そして、砥鹿神社の奥宮にも里宮にも、荒羽々気(アラハバキ)神社が鎮座します。また、アラハバキ神は、本宮山の登り道にあたる新城市の石座(いわくら)神社にも祀られており、この神社は、弥生時代の遺跡の上に作られ、すぐ近くには、石器時代から縄文時代にかけての遺物が出土した大ノ木遺跡があります。

 アラハバキ神というのは、主に東北や北海道で祀られており、本州では、東三河の地に多く祀られています。

 もともとは、古代先住民の祖神、守護神だと考えられていますが、非常に複雑なプロセスを経ており、この神の歴史は、日本の複雑な古代史を解く鍵とも言えます。

 民俗学者吉野裕子氏が古代の蛇信仰と関わりがあるとし、谷川健一氏は、塞の神であると説明しています。それ以外、製鉄と関係しているという指摘もあります。

 いずれにしろ、アラハバキ神は、客人神(まろうど神)で、これは、外部からやってきたマレビトの神が、その土地に定着することもあれば、その逆に、外部からやってきた側が主力になって、その土地のもともとの神をそのまま取り入れて残しているケースがあります。

 宮城県多賀城は、ヤマトの王権が、東北の蝦夷を制圧するために築いた拠点ですが、このすぐ近くにもアラハバキ神を祀る聖域があり、谷川健一氏は、朝廷が蝦夷から多賀城を守るためにアラハバキ神を祀ったとしています。

 このあたりの事情は複雑ですが、谷川氏によれば、ヤマト王権蝦夷統治は、「蝦夷をもって蝦夷を制す」というもので、もともと蝦夷の神だったのを、多賀城を守るための塞の神として祀って逆に蝦夷を撃退しようとしたということです。

 この発想は、後の時代、怨霊を手厚く祀ることで守り神になるという御霊信仰にもつながり、菅原道眞などに代表される怨霊神の起源が、アラハバキ神だとも言えます。

 しかしながら、谷川氏の仮説とは逆に、もともとのアラハバキ神の聖域に、多賀城を作った可能性があります。

 というのは多賀城の真北、岩手県奥州市に、巨大な磐座を聖域とする磐神社があり、東北の安倍氏が、この大岩をアラハバキ神として尊崇していたからです。アラハバキ神は、遥かなる古代から、この南北のライン上に鎮座していた可能性が高いのです。

 この磐神社のすぐ近くには、奥州安倍一族の城郭だったとされる安倍館跡があり、安倍氏は、あえてアラハバキ神の聖域の近くに城を作ったのではないでしょうか。

 安倍氏は、謎の多い氏族です。陰陽道で有名な安倍晴明や、飛鳥時代、大規模な船軍を率いて蝦夷を討ち、さらに白村江の戦いでも将軍として朝鮮半島に向かった阿部比羅夫や、蘇我入鹿を暗殺した大化の改新乙巳の変)の後に左大臣となった阿部内麻呂など中央で活躍した者も多くいます。

 「あえ」 は「饗(あえ)」であり、天皇食膳奉仕をすることです。それが阿部氏の役割でした。安倍晴明は、陰陽道で有名ですが、父の安倍益材も安倍晴明自身も、大膳大夫という饗膳を供する機関の官僚を勤めています。

 饗膳の仕事は、祭祀や外交などにおいても重要な役割を果たし、さらに天皇の側近に仕えるため、朝廷警備も担当するので、必然的に情報力と軍事力を備えていきます。

 そのようにして7世紀の阿部氏は、政権内で大きな力を持っていましたが、もともとは、東北地方においてヤマト王権によって制圧された蝦夷で、俘囚だったという説もあります。

 俘囚の中から俘囚を管理する俘囚長が選ばれ、彼らが、中央でも活躍するようになっていったと考えられます。

 その阿部氏が、平安時代岩手県北上川流域に城砦を築き、半独立的な勢力を形成することになり、1051年から1062年、朝廷と激しく戦い、最終的に滅ぼされます。奥州12年戦争、もしくは前9年の役と言われています。この阿部氏が、飛鳥時代、中央の有力豪族だった阿部氏とどういう関係になるのかが詳しくわかりません。

 いずれにしろ、この阿部氏が、岩手県奥州市の磐神社でアラハバキ神を大切に祀っていたのです。

 そして、磐神社から真北に伸びるライン(東経141度)に岩手山があり、その北麓に釜石環状列石があり、さらに真北の青森の夏泊半島下北半島最北の大間に縄文遺跡があり、函館の大船遺跡、伊達市の北黄金貝塚と、世界最古の漆や刀剣などが出土した重要な縄文遺跡が続きます。そして、その最北が余市で、ここに三つの環状列石が集中し、そのそばに、日本最古の龍神を祀るといわれる金吾龍神社があるのですが、この奥宮にアラハバキ神が祀られています。

 そして、この東経141度のラインは、実は大規模な火山帯のラインと一致しているのです。

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余市地域にある三つの環状列石の一つ、西崎山環状列石。

 

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北海道の余市には日本最古の龍神を祀るといわれる金吾龍神社が鎮座し、この奥宮にアラハバキ神が祀られている。この神社の近くに三つの環状列石があり、この東経141度のライン上に、環状列石や縄文遺跡が並ぶ。  余市の真南は、室蘭岬のそばの北黄金貝塚。その南、内浦湾を超えて函館の大船遺跡、その南、津軽海峡に面した戸井貝塚津軽海峡を越えて大間のドウマンチャ貝塚、その南、陸奥湾を越えて夏泊半島の付け根の平内町の60の縄文遺跡、そこからまっすぐ南に奥羽山脈が伸びて、岩手山の北麓に、釜石環状列石がある。  日本最大の環状列石である秋田の大湯環状列石群は、ラインから少し西にずれているが、奥羽山脈の西の花輪盆地にある。そして、岩手山の真南、岩手県奥州市に磐神社があり、ここは阿部氏がアラハバキ神を祀る聖域。さらにここから真南が多賀城で、この地にもアラハバキ神の聖域ある。

 縄文遺跡は、東国をメインに日本の至るところに広がってはいるものの、主に北海道と東北、そして、長野と山梨に遺跡が極端なほど集中しています。

 新潟も火焔土器が有名ではありますが、たとえば土偶は、日本の各地で発見されてはいるものの、北海道、青森、岩手、長野、山梨が、圧倒的な数を誇っています。

 そして興味深いことに、これらの地域は、火山の集中地帯なのです。

 縄文文化が、火山地帯において特に発達しているのに対して、ヤマト王権のあった近畿は、火山がまったくありません。これはいったいどういうことなのでしょう。

 日本の火山地帯の分布を、もう少し詳しく見ていくと、さらに興味深いことがわかります。

 日本には主に二つの連続する火山地帯があり、一つは、北海道、東北、関東から静岡県に至り、そこから愛知県や関西方面には向かわず、南に進路をとり、伊豆半島、伊豆諸島に続いていきます。

 そしてもう一つは、南洋諸島から九州、そして山陰の出雲へと続くものです。

 なかでも、通常の噴火とはスケールがまったく異なる超巨大噴火は、日本列島では過去12万年間に18回、発生したようですが(火山学者の早川由紀夫群馬大学教授が、噴火時の噴出物の総量を基準としてシミュレーションを行った)、その多くは、北海道、東北、九州の火山で、そこに鳥取県の大山、島根県の三瓶山がふくまれています。

 これらの場所は、北海道の余市から東北の奥羽山脈へと続くアラハバキ神の聖域であり、さらには天孫降臨出雲神話の舞台です。 

 火瓊々杵尊ホノニニギノミコト)が天孫降臨した場所は、高千穂ですが、そのひとつの候補が鹿児島と宮崎の県境の高千穂峰で、これは霧島連山の第二峰であり、七千年まえから八千年前の噴火によって出現した成層火山です。

 霧島は、日本の代表的な火山地帯で、火山や、火口湖が二十ほど集まっています。その中の新燃岳は、2019年11月から火口直下を震源とする火山性地震が増加するなど、現在も、いつ噴火してもおかしくない活火山です。2011年にはマグマ噴火があり、2018年にも爆発噴火があり、噴煙が8000メートルまで上がったと推定されています。

 天孫降臨神話のもうひとつの候補地は宮崎県高千穂町で、阿蘇山の超巨大噴火で形成された火砕流台地の一画です。

 いずれにしろ、高千穂は、霧島や阿蘇といった日本有数の火山地帯であり、そこに火瓊々杵尊ホノニニギノミコト)が降り立ったことになっています。

 これは史実ではなく神話であり、その神話が秘めたメッセージは、この国の火山活動を鎮めることが期待されての天孫降臨だったということではないでしょうか。

 火瓊々杵尊ホノニニギノミコト)の”ニニギ”は、親和的であるとの意味ですが、”ホ”は、天孫降臨の際にアマテラス大神から稲穂が授けられたために、一般的には稲穂のことと解釈されていますが、火という漢字を使っているのに、それは不自然です。

 また、ホノニニギノミコトと結ばれたコノハナサクヤヒメは、一夜の契りで身篭ったことを疑われた時、産屋に火をつけて、ホノニニギノミコトの子であれば無事に生まれるはずと言い、火照命(海幸彦)・火須勢理命火遠理命(山幸彦)という、”火”がつく三柱の子を産みました。

 この話からすれば、ホノニニギノミコトの”ホ”も、文字通り、稲穂ではなく火そのものの意味で問題ないはずで、それゆえ、ニニギは、火に対して親和的な神ということでいいのではないでしょうか?

 ホノニニギノミコトと結ばれたコノハナサクヤヒメも、富士山や浅間山などの火山で祀られている神様です。

 そして、東征を行う神武天皇の実名も、彦火火出見(ひこほほでみ)であり、ここにも”火”が関係しています。

 その神武天皇は、『日本書紀』の中で、東征にあたって、兄達や子供達に語りかけます。

昔、火瓊々杵尊ホノニニギノミコト)は天關(アマノイワクラ)を開き、雲路(クモヂ)をかき分け、先駆けの神を走らせて、地上に降りました。その時はまだ世界は開けていなかった。その暗い世の中で、正しい道を養い、この西の偏(ホトリ)の土地を治めた。

 しかし、遥か遠くの地はまだ恩恵を得られていない。境界をつくって分かれて、互いに侵し合っている。

 ところで鹽土老翁(シオツチノオジ)から聞いたのだが、

『東に美(ウマ)し国がある。青い山を四方に囲まれて、その中に天磐船(アマノイワフネ)に乗って飛んで降りた者が居る』とのこと。思うに、その土地は必ずこの大きな事業を広め、天下に威光を輝かせるに相応しい場所だろう。六合(クニ=国)の中心となるだろう。

 その飛び降りた者とは饒速日ニギハヤヒ)だろう。その土地へと行って、都にしようではないか

 

 この話の中で、ホノニニギノミコトの天孫降臨の際、アメノタヂカラヲのように天關(アマノイワクラ)を開いたというのが興味深いですが、いずれにしろ、新しいコスモロジーに基づいた恩恵を広げるためにホノニニギノミコトが降臨し、そのコスモロジーに基づく国の中心に相応しい場所としてヤマトの地を選び、神武天皇が東征を行ったという内容です。

 そして、神武天皇は幾つかの試練を経て、奈良盆地畝傍山の東南の麓に、宮を築きます。その橿原宮の位置は、火山が存在しない近畿の真ん中で、さらに、日本を代表する火山である阿蘇山と富士山を結ぶライン上になります。

 橿原宮が実際に存在したかどうかは別として、神話の中で定められているところが、阿蘇山と富士山を結ぶライン上であることは紛れもない事実で、その近くに飛鳥の宮や藤原京が建設され、祭政一致のまつりごとが行われていたことも事実です。

 神話がフィクションであっても、神話を作った人々の意識の中に、富士山と阿蘇山があったことは間違いないでしょう。なぜなら、橿原宮の位置だけでなく、イザナミイザナギが国産みによって最初に作ったオノゴロ島の有力候補である沼島(淡路島の南)の位置は、阿蘇山と富士山を結ぶラインのちょうど真ん中であり、この場所に降り立って、イザナミイザナギは、次々と島を産んでいくのです。

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富士山と阿蘇山を結ぶライン上に、神武天皇が最初に宮を築いたとされる橿原宮がある。さらに、富士山と阿蘇山のあいだは約750kmで、そのちょうど真ん中の375kmのところが、淡路のすぐ南の沼島になる。オノゴロ島を淡路の沼島とすると、イザナミイザナギが産んだ8つの島というのは、オノゴロ島の東にオオヤマト、東回りに西にイヨ、その後、ツキシ、オキ、サド、コシまで、法則性のある図形の上を辿っていくことになる。(その次のオオシマとキビコシマが、どこかわからない)。

 これほどまで神話が、火山との関係を踏まえて創造されていたとすれば、神武天皇に激しく抵抗したナガスネヒコが何ものであるかということも考えなければなりません。

 ナガスネヒコを、「スネの長い」異族のこととする説もありますが、ナガスネは、長背嶺で、つまり長く伸びる山脈と捉える説もあります。

 すると、東北の火山地帯である奥羽山脈などが頭に浮かびますが、実際に、東北では、ナガスネヒコと、脛(すね)につける服装品である脛巾(はばき)という言葉をもつ荒脛巾神(アラハバキ)を同一視するところもあります。

 神武天皇の東征神話がフィクションであったとしても、荒脛巾神(アラハバキ)は、古代から現在まで実際に存在しており、記紀の編纂において、神武天皇とのあいだに軋轢が生じた存在として、荒脛巾神(アラハバキ)のことが念頭にあった可能性はあります。

 上に述べたように、アラハバキ神は、東北の奥羽山脈という火山帯にそったところに多く祀られています。

 そして、東日本の火山帯が途切れたところに急激に隆起した南アルプス(火山の多い北アルプスに比べて火山が一つもない)を壁にするように東三河の聖域があり、そこにもなぜかアラハバキ神が集中的に祀られ、ここが、大嘗祭で準備される聖なる二つの布、麁服(あらたえ)と繪服(にぎたえ)のうち、絹織物の繒服(にぎたえ)の産地なのです。

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東三河の古くからの霊山、本宮山の山頂には、三河の国の一宮である砥鹿神社が鎮座するが、すぐ傍にアラハバキ神を祀る聖域がある。この写真の場所は国見岩や岩戸神社という聖域で、砥鹿神社の奥宮の、さらなる奥の院ということになる。

 ”あら”と”にぎ”、すなわち、荒魂(あらだま)と和魂(にぎだま)は、神の霊魂が持つ2つの側面のことであり、この神の御魂の二面性が、神道の信仰の源となっています。

 荒魂はその荒々しさから新しい事象や物体を生み出すエネルギーを内包している魂とされ、和魂は優しく平和的で、仁愛、謙遜、運によって人に幸を与える働き、収穫をもたらす働きがあるとされます。

 そして、荒魂として現れた霊魂は、鎮め祀られることによって和魂となります。

 天皇の祈りというのは、この二つの魂が示す森羅万象の有様を、ともに大事なものとして受容し崇めながらも、時折、人間の営みに破滅的な災禍をもたらす荒魂を鎮め祀り、和魂に転換させ、国と民の安らかさを願うものなのでしょう。

 おそらく、縄文時代から祀られてきたアラハバキ神は、火山との関わりが強い荒ぶる神だったのではないでしょうか。縄文人は、荒ぶる神を身近なものとすることで、自然を畏れる気持ちを常に維持し続け、そのことが自然との調和均衡を崩さない暮らしを続けさせる力となり、人間社会においても長く平和が維持されていたのだと思われます。

 これはとても不思議なことで、東北だけでなく、長野から山梨にかけても、八ヶ岳と富士山という巨大な火山を結ぶライン上に、千を超える縄文遺跡が集中しています。

 縄文人は、狩猟採取をするのなら移動生活を送っていてもおかしくないのに、なぜか数千年以上にわたって火山帯の上に集落を築いています。八ヶ岳から富士山につながる火山帯から横に外れたところに、縄文の集落は、ほとんど存在しません。そして、八ヶ岳周辺の火山帯の上に集中する縄文集落からは、それと平行するように連なる火山のない南アルプス雄大な景観が眺められるようになっています。

 しかし、弥生時代となり、大陸から入ってきた新しい知識や技術によって、人間の自然観は少しずつ変容していきます。たとえば洪水対策などにおいても、自然の脅威の前にただ怖れおののいて生贄や人柱を捧げるなどといった行為は消えていき、人間の知恵と技術で食い止めるということを始めます。

 その結果、自然を畏れる気持ちも希薄になり、傲慢になった人間と人間が争い続けるようになります。弥生時代倭国大乱などの状況が、そのようなものでしょう。

 国譲りや天孫降臨という神話は、古い勢力を支配した新しい勢力の正当化というよりは、後には戻れない人間社会の変化において、再び、人間と自然のあいだを調和させようとする精神的な創造行為であり、その要に天皇の祈りを位置付け、天皇の祈りの意義、その正当性を伝えるためのものだったのではないでしょうか。

 そして、その祈りの中心として火山のない近畿が選ばれましたが、大地の下のエネルギーを敏感に感じられる場所として、中央構造線上の吉野に離宮が築かれたのです。

 天孫としての天皇陛下に求められたことは、一般の人々がともすれば忘れがちになる荒魂と和魂という森羅万象の二つの側面を、ともに受け入れながら、人間社会に活力と平和を賜るよう祈り続けることなのでしょう。

 日本の信仰が、森羅万象の和(にぎ)と荒(あら)をともに尊重する心構えに基づいているため、アラハバキ神に代表される天孫降臨以前の神様たちも、決して消滅させられることなく、隠れていながら大切な場所で、共存し続けているのではないかと思われます。

 なぜなら、それこそが、この国の祈りの形なのですから。

 

 

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