第1146回 新年の誓い

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 去年の1月3日、年のはじめに、年内にこれだけはやり遂げることを決めようと考えていて、年末に鬼海弘雄さんを見舞いに広尾の赤十字病院に行った時のことを、ふと思い出した。

 その時、ピンホールカメラで撮っている写真を鬼海さんに見せたところ、「本にしろよ」と言われた。「まだ早いでしょ」と答えると、「もう十分、このあたりで本にまとめないと整理がつかなくなるぞ」と、さらに背中を押された。 もちろん、「やります」とは答えず、そのまま、その時のやりとりは忘れていたけれど、年が明けて、一年の誓いを考えている時、鬼海さんのことを思い出した。

 鬼海さんの病は進行していたので、鬼海さんに本にしろと言われた以上、鬼海さんが元気なうちに本を完成させたいという気持ちが高まった。それですぐに制作を開始した。ほぼ毎日、朝から晩までかかりっきりだったので、3月末には印刷も完成して、すぐに鬼海さんに送った。けっこう文章も多かったのだけれど、鬼海さんは、文章も読んで感想をくれた。 一度の電話だけでなく、なんども電話をくれて、そのたびに、色々と感想をくれた。

 鬼海さんは、6月ごろからは文章を読むのも辛くなっていたので、間に合った、という感じだった。 鬼海さんに言われたように、このタイミングで本にしたことは正解だった。本にすることで、自分がやろうとしていることが、より明確になり、そのうえに、さらに取材を重ねることができた。 鬼海さんのアドバイスを真摯に受け止めて本にすることをしなかったら、その後の取り組みも、もう少し薄っぺらいものになっていたかもしれない。

 本にしろよ、というのが、鬼海さんの遺言であるので、今年も続けて、Sacred World 日本の古層を本にすることを年初めの誓いとする。 世の中の誰がどう評価してくれるかなどというのは二の次で、天国にいる鬼海さんに向けて、Sacred world VOL.2を作ること。

 風の旅人の時は、日野啓三が亡くなった後に始めたけれど、作りながら、これを日野さんが見たらどう感じるだろうか? ということだけを考えていた。何やってんだよという恐い顔か、なかなかいいね、と満足そうに微笑んでいる顔か。

 自分にとって一番確かな指針は、自分が尊敬する人にどう受け止めてもらえるか、ということを想像すること。たとえその人が、すでにこの世から去っていたとしても。この指針さえあれば、軸がブレることはない。

 忘れもしない、今から10年前の2011年の正月、私は、年末から高野山にずっとこもっていた。高野山は、何十年ぶりかの大雪で、その雪量は凄まじいものがあった。そして私は、早朝、大雪で参道が埋もれた高野山奥の院に、空海廟まで、毎日のように足を運んだ、1000年以上続いている、空海に朝食を奉仕する儀礼に参加するためだ。その時は、高野山の僧侶と私以外、奥の院空海の霊廟には誰もいなかった。

 その儀礼に参加するため、真っ暗闇のなか、奥の院の参道を30分ほど歩き続けるのは、心底、恐ろしかった。参道の周りには、高名な戦国武将の墓を含め、数千の墓が立ち並んでいたからだ。 冗談抜きに、私は、恐怖で涙まで流していた。そして今でもはっきり覚えているが、途中の参道があれほどまで恐ろしかったのに、一番最奥の空海廟に近づいた時、ふわりと空気が和らぎ、恐怖が消え去っていた。

 そして、高野山の僧侶は信じ続けている生き仏の空海に朝食を奉仕した後、30分ほどの勤行。ひたすら祈るような思いでその声を聞き続けていたが、あの時、いったい何を祈っていたのだろう。個人的には色々な思いがあったかもしれないが、大した悩みなどなく、悩みがないのが悩みなどと惚けたことを口にしていたのに。

 しかし、高野山の大雪のなかで、数日こもって風の旅人の第43号の企画を構想した。テーマは、「空即是色」だった。下山してその内容にそって制作を進め、発行は6月1日だったから、デザイン作業はほぼ終了していた。その時、3.11の東北大震災が起きた。私が準備していた風の旅人の第43号は、表紙も含め、東北大震災を心の深層で予感していたような内容だった。私は、すぐに東北に飛び、取材をして、ほぼ完成していた43号の最後の10ページに、3.11後の取材を付け加えて、印刷を行った。あまりにも、高野山で構想したことがシンクロしていた。正確に言うならば、43号の内容は、震災後の祈りとシンクロしていた。

 非科学的なことを、科学万能の現代社会で口にしてもあまり意味がないが、風の旅人の43号という本が、3.11の震災前に企画構想されていたことは事実であり、でも多くの人は、その内容を見て、3.11の震災の後に企画されて作られたと思うかもしれない。

 人がどのように受け止めるかなんて、どうでもいいが、あれから10年が経ってしまった。この10年は、自分でも、これまでの人生で一番キツイ10年だった。

 私は、誕生日が1月1日で、10年単位の2011年、2001年、1991年、1981年が、私にとって、20代、30代、40代、50代になる直前の年で、なぜかそれらの年において、その後の私の10年に多大なる影響を与える出来事があった。 そのたびに私は、それ以前の10年には、まったく想像もしていなかったことを始めたり、それまで一生懸命にやったことを無にしてしまうドロップアウトを繰り返してきた。 大学を辞めたり、会社を辞めたり、会社を始めたり、風の旅人を作ったり、風の旅人を辞めたり。10年の始まりの年は、まさに、始まりと終わりが一つになる境目だった。

 1981年には、イスラエルイラク原子炉攻撃やエジプトのサダト大統領が暗殺された。エイズという新しい病が世の中に出てきたのもこの年だった。私は、大学を辞めてしまい、2年間の海外放浪に出た。  1991年は湾岸戦争があり、そして、突然、表舞台に出てきたゴルバチョフによって、なんとソビエト連邦が終焉した。まともな就職をしたのがこの時だった。  その後の10年は、毎日、深夜12時まで、働き続けた。

 2001年は、9月11日、貿易センタービルに飛行機を衝突させるという前代未聞のテロ。その後、恩師である作家の日野啓三さんが亡くなり、運命に導かれるように、編集未経験の私が風の旅人を創刊し、編集長をやることになった。

 そして、2011年が、巨大津波原発事故。

 これらのことが起きた時、単細胞な私は、それまでと同じ人生を繰り返し続けることなどできないという衝動にとらわれてしまった。 さすがに、4度もそれが繰り返されてきたので、精神的な免疫はできている。 備えあれば憂いなし。

 2011年の正月は、大雪の高野山で降りてきた自分の着想がその後の世界とシンクロした。それは、他の人には関係なく、まったく自分個人の問題だが、自分としては、そうした経験は無視できるものではない。 私にとって10年単位の区切りである2021年も、きっと、何かが起きるだろうと思う。何が起きても、動じることがない覚悟はできている。

 

 

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