第1148回 民族が積み重ねてきた歴史文化風土

 

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【かんでんコラボアート】 2月26日(金)〜3月3日(水) 平日10:00〜19:00 土日10:00〜17:00 最終日は15:00まで 堂島リバーフォーラム 1階ホール 大阪市福島区福島1-1-17

 10年以上前だけれど、風の旅人の第39号で、日本のアール・ブリュットを欧米で紹介するために、フランス語版を作った。

 障害を持っている人たちが、施設などで絵画制作を行っていることは、様々な国々で見られることだと思うけれど、欧米では、それらを障害者の人の絵という概念ではなく、魂の芸術として評価しようという動きがあった。

 日本では、そういう考えはまだ浸透していなかったけれど、実際に彼らの作品は素晴らしいもので、制作者のバックグラウンドなど関係なかった。

 ただ、「魂の芸術」とか、そういう風にくくっていくと、現代社会では、たちまちカテゴライズされてしまう。

 たとえば、芸術が、商業主義世界の単なる一手段、一素材に成り下がったことに対するアンチとしてポストモダンが登場しても、たちまちポストモダンの寵児のように特定の誰かをもてはやし、その人や作品の露出が増えて作品にプレミアム価値がついて、心にどれだけ訴えてくるかなんて関係なく高額で取引される商品になってしまう。その商業主義に陥ったアート産業の中で新しいとか古いという競争が行われる。さらに、その現象を見て育つ若い人が影響を受けてしまい、そこに仲間入りをしたいという夢を抱いて似たようなものを再生産するというポストモダンの流行と商業化と世俗化が蔓延し、挙句にムーディーズのような企業格付け会社みたいな評論家が登場し、そこに擦り寄る制作者も増えて、アートという看板を掲げた縁故社会ができる。

 アール・ブリュットなどにしても、その物珍しさに目をつける仕掛け人が出てくると、たちまち、商業アート界の一ジャンルのようになってしまう。

 商業アート界とは違ってアール・ブリュットの制作者は、他人の目や世の中の流行などまったく無頓着に、淡々と、制作をし続けているだけなのだけれど。

 私は、風の旅人の第39号で日本の様々なアール・ブリュットを見た時、欧米人が制作したものと、かなり違っていることが、興味深かった。

 アール・ブリュットは、素晴らしい芸術の多くがそうであるように、画面がたとえ静寂であったとしても、ある種の烈しさが漲っているのだけれど、日本人作家のものは、生命の躍動や律動や連続を感じるものが多いのに対して、欧米作家のものは、烈しさが、自我の叫びのように伝わってくるものが多い。

 日本と欧米では、やはり、自我の在り方が根本的に違う。欧米は、個が屹立して生きることが当たり前の社会で、日本は、つながりが当たり前の社会。”当たり前”というのは、暗黙のうちに、そういうものでなければならないという意識がどこかにあって、家族、学校、会社などにおいて、慣習とか仕組みが、そういうことを前提にしていて、その環境の中で人々は生きている。

 なので、欧米の個人主義を、形だけ日本に輸入しても、歪なものになる。

 欧米の影響を受けすぎている社会において、そういう違いは見えにくくなっているのだけれど、アール・ブリュットには、はっきりとその違いが出る。

 それは、アール・ブリュットの制作者が、人の目を気にしたり、世の中の評価を気にしたり、他人の傾向をウォッチしたりとかまったく行っていないからだろう。

 創造的な芸術というのは、本来そういうもので、だから歴史に残る芸術家の多くは、周りから偏屈だと思われてきた。現代のようにサービス精神が旺盛な制作者で、頭に思い浮かぶ歴史上の芸術家は、誰もいない。

 現代のようにコマーシャリズムが発展しすぎて、情報を見て見ぬふりをすることも難しい時代に、時代社会や他人の影響を受けないという表現は、とても難しいのだろう。その結果、最終的に、みんな同じようなものになってしまう。

 地球上の全ての国が、どんどんフラットになって、同じようになってしまうことを良きことだと考える人もいる。

 しかし、人間は、生きている環境世界、自然風土、歴史風土、文化風土によって違って当たり前で、異なる風土を無視すると、日本の俄仕込みの個人主義のように歪なものになってしまう。(欧米の個人主義における”個人”の孤独と、その孤独に対する覚悟は、日本とは比較にならない。砂漠の民と森の民では、その世界観がまったく異なる。)

 アール・ブリュットが、魂の芸術家どうかはどうでもよいが、ただ一つ言えることは、創造における感情の先端部分において、その民族が積み重ねてきた歴史文化風土の凝縮液が出るのではないかと思う。

 日本のアール・ブリュットをずらりと並べて見た時、当時の私が、八ヶ岳に通って縄文土器土偶の野焼きなどを行っていたこともあって、縄文の世界観に通じるものを強く感じた。

 しかし、欧米のアール・ブリュットには、それを感じなかった。

 私は、日本と欧米のものしか知らないけれど、南米やアフリカ、イスラム世界、インド世界、アジア世界など世界中の国々で、他人の評価を全く気にせず、流行には関心を持たない人たちが黙々と作り上げてきたものを並べてみたら、どんな感じになるんだろう。

 個性というものが一体なんなのか?ということと、個性を超えた人間の普遍性というものも見えてくるかもしれない。

 

 

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