第1161回 有為転変の出来事そのものではなく、この世を司る理。

 

 

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 Sacred world 日本の古層 vo.2の最後の14ページは、ピンホール写真と、上嶋鬼貫の俳句のコラボレーションになっている。

 上嶋鬼貫は、芭蕉と同じ時代の俳人で、東の芭蕉、西の鬼貫と高く評価されていたものの、芭蕉ほど知名度が高くない。しかし、リルケなど、近代文明に対して批判的な目を持っていた欧米の抒情詩人に、少なからず影響を与えている。

 実は、Vol.2の最後を俳句とピンホール写真のコラボにしようと決めた時は、鬼貫の俳句だけにしようとは思わず、歴代の俳人の句に目を通した。俳句の場合は、著名な俳人の全ての句に目を通しても、そんなに時間がかからない。

 けれども、多くの俳人の句は、私が撮っているピンホール写真と響き合わない。

 たとえば、日本における俳句の近代を開いたとされる正岡子規は、やはり近代の目というのか写実的で具体的で、ピンホール写真ではなく、普通のデジタル写真に添えるのにちょうど、ということなってしまう。

 

  雪残る 頂きひとつ 国境     (子規)

  柿食へば 鐘が鳴るなり 法隆寺   (子規)

 

 松尾芭蕉小林一茶とともに、江戸時代の三大巨匠とされる与謝蕪村は、写真表現には不可能なビジュアルを、俳句で表現している。

 

  菜の花や 月は東に 日は西に  (蕪村)


 一瞬の光景を切り取って静止させるという写真の特技を、写真では不可能な情景において、写真の代わりに行なっているのだ。

 また、

 牡丹散りて うち重なりぬ 二三片  (蕪村)

 

 のように、蕪村は画家でもあったので、非常に絵画的な俳句も残している。

 ただ、蕪村は、その光景を見ている当人の主体性が明確で、これは、一般的な撮影行為のshoot(意識的に狙い撃つ)という性質が強く、無意識のうちに何ものかを招き入れるという感覚の写真行為となるピンホール写真とは、合わない。

  また、小林一茶は、素直で親しみのある句が多いので人気がある。

 

 名月を 取ってくれろと 泣く子かな  (一茶)

 やせ蛙 負けるな一茶 これにあり   (一茶) 

 

 しかし、現代のような消費社会においては、テレビドラマや映画などで人情に訴えるだけの似たような娯楽コンテンツは非常が多い。俳句のカルチャーセンター仲間なら、こうした俳句を話題に酒でも飲めるかもしれないが、他の人はどうなんだろう。

  俳聖の芭蕉は、さすがに他の俳人を超えた境地がある。なので、最終的には、芭蕉と鬼貫の二人の句で構成しようと思って、丁寧に芭蕉の句も確認し、実際に選んで、デザインもしてみた。

 でも、芭蕉の句は、鬼貫の句に比べて、どうにも合わない何かがある。 

 

 あかあかと ひはつれなくも あきのかぜ   (芭蕉

 あのくもは いなずまをまつ たよりかな   (芭蕉

 いきながら ひとつにこおる なまこかな   (芭蕉

 

 芭蕉の句は、子規の句のような目の前にある風景の写実ではなく、その前後左右への想像と体感の広がりがある。

 この芭蕉の句の世界は、素人がデジタルカメラで撮った写実写真ではなく、風の旅人で掲載してきたような、優れた写真家の写真に通じる。

 つまり、私が撮っているピンホール写真は、その境地に至っていない。だから、芭蕉の句と響き合わない。

 もしくは、鬼貫の句やピンホール写真は、優れた写真家の写真や芭蕉の句にはない何かが含まれている可能性もある。

 松尾芭蕉は、物事を凝視しており、凝視しているのに単なる写実にならず、世界に奥行きが展開される。これは、私が出会ってきた優れた写真家の写真と同じだ。

 それに対して、鬼貫の目は、凝視ではなく、どちらかというと眺めている風で、最初から、物事の向こうを見ているようなところがある。

 

 木も草も 世界皆花 月の花         (鬼貫)

 むかしやら 今やら うつつ 秋のくれ    (鬼貫)

 花雪や それを尽くして それを待つ     (鬼貫)

 咲くからに 見るからに 花の 散るからに  (鬼貫)


 鬼貫は、有為転変の出来事そのものではなく、この世を司る理というべきものを視界に招き入れている。

 芭蕉が凸ならば、鬼貫は、凹である。

 そして、ピンホール写真も、凹なのだろう。

 そして、文化というのは、この凹凸の両柱によって成り立っている。

 新たな展開を生み出していく凸と、生み出されたものを調えていく凹。

 凸は、時代を動かしている。だから、その後継者が続く。結果として、芭蕉は、パイオニアとして著名になる。

 凹は、展開してきた世界を、どこかに着地させる働きがある。そこから時代が動いていくわけではないので、後継者も続かない。結果として、鬼貫は、あまり知られていない。

 けれども、時代を隔てて、展開より調えることが必要になる時、凹の力が、再発見される。

 今という時代が、とくに凸を必要とする時代なのか、それとも、凹を必要とする時代なのか?

 とかく、「新しさ」というのは、凸の側面にばかり目が向けられる。

 世の中の激しく移ろう状況は、凸の力によって作り出されている。しかし、その凸がマンネリ化する時、有象無象の現象世界のなかで、文化も停滞する。

 そして、そういう状況にもかかわらず、文化というものが凹凸によって成り立っているということをわかっていない似非文化人が、凸表現のちょっとした作為の差異を「新しい」と持ち上げることによって、ますます文化は停滞する。

 凹の表現は、凸の延長にはなく、まったく別の、まったく逆のところからやってくる。

 凸レンズは、部分を拡大するのに用いられるが、凹レンズは、近視の目の屈折力を弱めて矯正する時に用いられる。

  近視というのは、目の前のことしか見えず、遠くがわからなくなっている状態である。

 

 

2021年7月5日発行  sacerd world 日本の古層 vol.2   ホームページで販売中

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