第1163回 古代から現在、そして未来への連続性

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 昨年の夏、自分の故郷の明石に長く滞在したこともあり、明石から播磨にかけての地域をじっくりと取材していた。

 私は、18歳まで明石で育った。明石原人や明石象の発見地ということもあり、その現場で考古学のママゴトをしていたが、明石周辺が歴史的に重要なところだったと、若い頃は思いもしなかった。

 

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 しかし、実は、これは明石に限らないことで、日本というのは、どこに行っても、神社があるだけでなく、古墳や縄文遺跡や弥生遺跡があり、歴史的な重みがあるところばかりなのだ。にもかかわらず、その地の人々と話しても、ほとんどのケースで、自分の地元にそのような重要で深い歴史があるなんて思ってもみなかったと言う。

 歴史の痕跡は、奈良や京都だけでなく、日本中、至るところにある。

 これはどういうことなのか?

 近代というのは、東京など数カ所の大都市が中心になっていて、文化は大都市にあり、地方は、何もないところというイメージを植えつけられている。

 けっきょくのところ、近代というのは、文化は、都市文化のことだけを指している。

 しかし、古代は、現代人が想像している以上に地方分権の世界であり、その自律分散した全ての場所が、文化の中心なのだ。その中心は、数え切れないほど多い。

 車や列車があれば、数十キロ離れたところに買い物にでかけるが、そういう交通手段がなければ、日々の生活で、そこまで遠出しない。なので、生活圏ごとに文化が育つことは自然なことだと言える。

 しかし、だからといって彼らが閉鎖的だったわけではなく、現在、地球の裏側と交易を行なっているように、東北と九州のあいだでも交易が行われており、古代人もまた、新しい知見を得ることで、自分たちの文化をより豊かにしている。

 そういう目で自分が住んでいる場所を見つめ直すと、新たな発見がとても多い。

 過去の歴史は、過ぎ去った遺物ではない。過去の人間の世界に触れ、その考え方や感性を想像し、現代へ至る連続性を探ることで、現代から未来への連続性もイメージできる。その結果として、現在の我々の暮らしの周りに溢れかえっている情報や物の中から、本当に必要なものを大事にすることができ、そうでないものに気持ちが乱されることも少なくなるような気がする。

 

 

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