第1167回 東京オリンピックが浮かび上がらせたもの

女子バスケットボールの試合が始まってすぐ、日本の選手たちと、2mを超える選手のいるアメリカチームとの体格差が大人と子供のように違いすぎていたので、50対100くらいの点差で負けても仕方がないと思ったが、75対90と、そんなに差が開かなかった。

  また、陸上の女子長距離で、日本人選手がゴールした順位は7番とか8番だったけれど、先着したのはアフリカの選手ばかりで、腰の高さやストライドの大きさが日本人とはまったく違う体格。にもかかわらず、小さな日本選手が集団の先頭を走り続けてペースを作っているということに驚いた。

 昔、日本選手がマラソンなどで活躍していた時があったが、当時は、アフリカ選手が、まだ本格的なトレーニングを積めていない時で、現在、トレーニングの環境を整えたアフリカ選手は、陸上の長距離種目では圧倒的に強い。

 彼らの身体を見ていても、足が長く全身がバネのようで、体格的に劣る日本人が勝てそうな気がまったくしないけれど、対等に渡り合えていることじたいがすごい。

 勝負に勝つか負けるか、というのは選手にとって大事なことだろうが、それを見させてもらう方は、体格差のハンデがあったり、不利な条件があったり、過酷すぎる試練があるなかで、それを乗り越えるための必死の姿と、それが結果的にうまくいかなかった時の潔い態度が、心に響いてくる。

 そういう選手たちの素晴らしい活躍を観た後、閉会式で、バラバラのダンスとかパフォーマンスを長いあいだ観せられて、なんだか気の抜けたビールを飲むような気分になった。

 とくに、新体操のチーム競技における、ものすごく困難な、究極ともいえる調和の演技を見た後は、特にそれを感じさせられる。

 公園での遊びがコンセプトのようだが、コンセプトから入る広告代理店的発想が、ああいう演出になるのだろうなあと改めて思った。

 個人が邪念を持たずに全力を尽くすことで、結果的に、人々の心を打つ世界が生まれる。

 それに対して、人々に受けそうなコンセプトを作って、そのコンセプトに合いそうな人を寄せ集めるという商業主義世界のなかの物作りの方法しか頭にない人々がいる。

 今回のオリンピックは、大会前の様々な不祥事の下劣さや低俗さと、選手一人ひとりの真摯さ、潔さ、清々しさの違いが、鮮明なまでに浮かび上がった舞台だった。

 そして、オリンピックに便乗して、組織委員会に莫大なお金を支払ってスポンサーとなり、ゲームの合間にコマーシャルを打ち続けた企業。

 今までも同じだったのだろうが、今回は、なんだか妙に違和感を感じた。ワンパターンの、「うまい!」しかやらないビールの宣伝などが顕著だが、安易な便乗態度が鼻につくからだろうか。コロナ禍での開催であっても、企業としての工夫も努力の跡も見られない。おそらく、広告代理店任せの宣伝なのだろう。

 さすがにトヨタは企業名や商品名を連呼する宣伝の必要のない大企業だからか、今すぐには商売に結びつかない水素自動車の認知拡大につとめていた。広告代理店の発想ではなく、おそらくトップを中心とした会社の方針が明確なのだろう。

 日本人は、ありのままの自分を潔く受け入れ、その限界のなかで、やるべきことをやろうと真摯に打ち込む時、世間の”受け”を基準にするのではなく、自分自身の中の誠実さを基準し、とても美しく、気高い存在になるのだけれど、組織や業界の論理に縛られ、様々な因習によって成り立つ村社会を保身の場にした瞬間、基準が周りの目となり、虚栄やメンツを肥大化させ、くだらないパフォーマンスで世間の受けを狙う下卑た存在になってしまう。

 名古屋の河村市長の金メダル噛みつきという醜悪な絵が、今回のオリンピックを典型的に象徴している。

 選手の努力の結晶を、自分の宣伝、虚栄、利益などに結びつけようとする醜悪な面々が、これまでは比較的陰に隠れることができていたが、今回は、とても目立ったオリンピックとなった。

 

 

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