第1168回 目の焦点と、心の焦点。

 

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富士ヶ嶺から望む富士山

 

 

富士山と、富士山周辺の聖域をピンホールカメラで撮ると、確かに、その霊気が針穴の中に忍び込んでくるような気がしないでもない。

 最近、私のピンホール写真を見た写真家の水越武さんから写真の焦点について問いを投げかけられたが、たとえば霊気というものがあるとして、それは、どこか具体的な場所にピントを合わせて確認できるものではない。

 霊気は、気配と言い換えてもいいのだけれど、現実世界においては、「気配」は実態のないものとして無視される。 ゆえに、カメラメーカーは、実態のあるものを鮮明に映し出すことに全力を尽くして新製品を作り出している。

 しかし、気配というものは、生きていくうえで無視できるものではない。

 人と接するうえでも、学歴とか地位とか、明確に形に現れているものを重視する人もいるが、その人が醸し出している雰囲気(気配)に惹かれたり、場合によっては騙されないように警戒したり、ということがある。

 なんとなくわかる、なんとなく感じる、というのは、人間に限らず野生動物にとっても生きていくうえでとても大切な力のはず。 姿形のはっきりとしたものにばかりに意識を傾けてしまうと、気配とか雰囲気を読み取る力を劣化させてしまうかもしれず、それは、生命力を低下させることと同一かもしれない。

  ピンホールカメラで撮ると、高性能デジタルカメラの鮮明な画像と違い、朧な画像となる。

 しかし、画像がくっきり鮮明であるということと、”焦点”が合っているというのは、同じこととは言えない。

 焦点には、目の焦点と、心の焦点がある。

 カメラやレンズの技術が発展して、スマホで撮ろうが、コンパクトデジカメであろうが、目の焦点を合わせた、くっきりと鮮やかな写真というのが当たり前になっている。

 昔であれば、写真を撮るにあたって瞬時に目の焦点を合わせることじたいが高い技術を要求されたが、現在では、そんなことは機械任せで誰でも撮れる。

 しかし、写真にかぎらず、絵画でもそうだが、重要なことは、目の焦点よりも心の焦点を合わせることだ。

 西欧人は、人と話す時は、目と目を合わせることが必要だと考える。

 古代ギリシャの芸術から、西欧文化においては、視覚的な明晰さを重要視する傾向が強い。

 しかし、日本においては、相手の心情を察して、あえて目を合わせずに対応するという心遣いがある。

 平安時代の男女は、顔を合わさずに対話を行なっていたが、目に見えないぶん、心の焦点を合わせることに、意識を集中していたことだろう。

 心の焦点を合わせるためには、被写体と自分の心の距離が、適切でなければならない。

 自我が強過ぎて、被写体を自分の表現のために利用するだけだと、心の焦点は近くなりすぎ、そのアウトプットは私的なものにすぎなくなる。

 被写体に対して関心が弱いまま、シャッターを何枚も切っているだけの写真は、心の焦点が遠過ぎて、テーマがぼやける。(何を伝えたいのか、さっぱり伝わってこない)。 

 絵画を観る時に心が動かされるかどうか決定するのは、画家の心の焦点であり、画家の心の焦点が、どこまで深く世界の真実を捉えているかによって、感動が違ってくる。

 最新のカメラを使えば誰でも簡単に決定的瞬間を撮れるようになった今、写真は、撮影者の心の焦点が問われる段階に来ている。

 心の焦点とは、世界(他者や被写体)のどの部分に、どのくらいの深さに、焦点を当てているか、ということになるだろう。

 

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白糸の滝

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青木ヶ原樹海

 

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青木ヶ原樹海


 

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