埼玉県日高市の高麗神社と、神奈川県大磯の高来神社(高麗神社)は、東経139.32という南北ライン上に鎮座している。どちらも、かつて高麗人(高句麗人)が拠点としていたところだ。
埼玉の高麗神社は、若槻礼次郎、浜口雄幸、斎藤実、平沼騏一郎、小磯国昭、鳩山一郎の6人が参拝した後、首相に上り詰めたため、「出世明神」と呼ばれており、都心から離れているが、今でも参拝者がとても多い。
神奈川県大磯の方も、明治期に総理大臣として活躍した伊藤博文、山縣有朋、大隈重信など8人の総理経験者が大磯に別荘や邸宅を所有するなど明治政界の要人たちが集まり、「明治政界の奥座敷」と呼ばれていた。戦後は、吉田茂も、ここに館を設け、亡くなる直前まで過ごした。
歴史家の説では、668年、高句麗が新羅・唐連合軍に滅ばされた時に、その王族・若光を中心に高麗人が相模国の大磯に渡来し、その後、716年、若光一族を含めた各地の高麗人が、埼玉県日高に集められたことになっている。
埼玉の日高周辺には、石器時代から縄文時代の史跡が発見されているが、弥生時代や古墳時代の史跡がなく、つまり耕作不適地であり弥生時代以降は無人の荒野であったため、高麗人が集団移住させられたと説明されており、南北のライン上ということは、たぶん気づいていないか、特に意味があると考えられていない。
しかし、日本の国土は70%が山岳地であり、干拓や開墾の進んでいなかった古代においては平地の耕作可能地はさらに少なかった。そういう状況で、弥生時代以降、全ての日本人が稲作民になっていた筈がなく、山周辺を拠点に縄文時代と大きく変わらない営みを続けていた人たちがたくさんいた可能性はあり、埼玉の日高周辺が無人だったから集団移住させられたという説は、あまりにも単純すぎる。
日高の地は、高麗川が流れており、この一級河川は、入間川から荒川へとつながっており、この両川には、縄文時代、弥生時代、古墳時代の史跡も多く、それらの地につながる日高は、古代から要衝の地だったはず。
高麗人が大磯に移住したとされる668年は天智天皇が即位した年で、716年というのは、女帝の元明天皇の娘、日高(氷高)皇女が、唯一、母親から娘へ行われた譲位によって第44代元正天皇として即位した翌年である。彼女の治政において日本書紀が完成された。
この二つの年は、古代史における一つの節目であるが、日本と高句麗人の関わりは、もっと古く、しかも、日本史全体を通じて、何度も歴史を変えた重要な出来事につながっている。
それは、騎馬技術に関することだ。
日本に戦闘その他、馬の活用が輸入されたのは、4世紀終わりから5世紀に掛けて、朝鮮半島で行われた倭と高句麗の間で行われた戦争での敗戦がきっかけとされる。 この史実は、日本書紀、三国史記などに記録されている。
それまで日本(倭)の主たる戦いは、歩兵によって行われていた。
古代、朝鮮半島は、三つの勢力に分かれていた。南の百済、真ん中の新羅、そして北が高句麗。高句麗は中国北部と接しており、中国北部は、古代から騎馬民族が活動する舞台だった。
中国の歴代王朝のほとんどが、北方の騎馬民族が南下して、その実力によって実権を奪ったものだった。
よく知られたモンゴル民族の元だけでなく、日清戦争の頃の清は、満州人であり、南北朝時代の北魏は鮮卑族。秦の始皇帝も、西方の民族であり、隋や唐も、北方の民族であり、中国を制圧した後に皇帝になった時、由緒の正しい王朝にするため、中国王朝の系統の中に自分の存在を加えている。
そして、古代、日本の情勢が大きく変わるのは、その高句麗戦争の敗戦の後の5世紀初頭であり、その時、応神天皇陵など巨大古墳が河内の地に築かれるようになり、副葬品に馬具などが加わった。
この歴史的変化に注目して、江上波夫氏が、1948年に「日本民族=文化の源流と日本国家の形成」と題するシンポジウムで騎馬民族征服王朝説などを発表して注目された。(今ではこの説は否定されている)。
日本全土が、大陸からやってきた騎馬民族に制服されてしまったという極端な見立てに関しては、辻褄の合わないことが多くて否定されて当然だが、5世紀に、騎馬の技術が日本に入ってきて、戦争の方法をはじめ、社会に大きな変化が生じたことは事実だろう。
その変化に、高句麗が関わっているのだ。
そして、大磯の高来神社と、日高の高麗神社から43kmのところに、東京の等々力渓谷があり、この周辺に古墳が数多く築かれている。
この等々力から冬至のラインにそって府中まで、多摩川沿いに古墳がずらりと並び、府中に武蔵国の国府が置かれたこと。さらに、このラインは、奥多摩の奥氷川神社まで伸びているが、このライン上に、アラハバキの聖域が幾つか見られること。
さらに、等々力渓谷の真北に、東京のヘソとされ弥生時代の祭祀場の上に築かれた大宮八幡宮が鎮座し(周辺は、石器時代、縄文時代の史跡の宝庫)、さらにその真北が、武蔵国一宮でアラハバキ神の聖域でもある氷川神社(さいたま市)であること。
さらに、大磯の高来神社と日高の高麗神社を結ぶライン上の厚木の小野神社も、あきるの市の二宮神社も、アラハバキ神の聖域であること。
こうして見ていくと、高麗人の拠点が、縄文時代と関係があるとされるアラハバキ神の聖域や、古代武蔵国の要の地と深く関わっていることがわかる。
アラハバキは、縄文人が祀っていた神というより、縄文人と後からやってきた人々のあいだに接点があった場所で、後からやってきた人々が、先住の人々の信仰をアラハバキとして残したのではないかと思う。ゆえに、アラハバキの聖域は、客人、まろうどと名付けられていることが多い。マレビトに関係する場所ということだろう。
東北や関東は、縄文時代の痕跡が数多く残っている。彼らは、狩猟採集を営みの中心にしており、弥生時代が始まって水田耕作が始まってからも、古代から続けてきた営みを続けていた人は多かっただろう。なにせ日本は国土全体の70%を山岳地帯が占め、干拓の進んでいなかった昔は、さらに農耕可能な平地は少なかったはずだ。
縄文時代からの営みを続けている狩猟採集民の方が、農耕民よりも、馬の扱いが上手だったと言えるかもしれない。
岐阜県の木曽や、長野の伊那、甲斐など、かつて縄文王国とされた地域に名馬の産地が多い。また、東北地方において、5世紀後半というかなり古い時代に馬飼いの資料が残っているのだが、蝦夷が、優れた乗馬や騎乗での高度な騎射技術を持ち、それが、後の時代の武士の技術として磨かれていったことは歴史的事実だ。
また、平安時代、京都から離れた関東において、勇猛で知られた坂東武士は、馬を駆けさせながらの騎射の術など、馬での戦いが得意だった。平治の乱の敗戦の後、伊豆国へ配流されていた源頼朝は、北条時政などの坂東武士らと組んで、平家打倒の兵を挙げて勝利した。 その勝利の立役者であった源義経は、馬の機動力を最大限に発揮し、短期間の長距離移動と奇襲攻撃による騎兵の力で、敵を翻弄した。
高麗人との関わりの中で、日本の中に浸透していった騎馬の技術が、日本史を大きく変えていったのだ。
高麗人が、日本にやってきたのは、歴史書では、高句麗が唐と新羅に負けた668年ということになるが、それよりも250年前、高句麗との戦争に破れたことがきっかけで、当時の日本人は、馬の活用の必要性を痛感したわけだが、馬の飼育や騎馬の技術などの獲得のため、高麗人の力が必要だったはずだ。
江上波夫氏の騎馬民族征服王朝は極端な説であるが、騎馬の知識と技術をもった勢力が優勢だったと考えることは自然なことで、どういった勢力が、どのように高麗人と関わりを持っていたのかを探ることは、日本の古代史において、重要な鍵になるのではないかと思う。