第1170回 東京周辺の古代を考えるうえで(2) 平将門の乱の背景

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八王子市 多賀神社

 東京の国立市にある谷保天満宮が、なぜ菅原道眞の死を弔うための聖域として日本最古なのか、前から気になっていたのだけれど、少し線がつながってきた。そして、平将門の乱も、そこにつながっていた。

 私が住んでいる高幡不動の近くに多摩川と浅川の合流点があり、浅川を遡っていくと八王子に多賀神社が鎮座している。

 多摩川と浅川の合流点の東岸は、古代、国府が置かれていた府中である。

 八王子の多賀神社は、その府中の国府の真西(北緯35.66)で、真北は、埼玉県日高の高句麗人の移住地域で、真南もまた大磯の高句麗人の移住地域である。

 この高句麗人の居住地域のことについては、前回の記事で書いた。

 この南北の同じライン上に、多摩川と秋川の合流点の近く、あきるの市の二宮神社や、厚木市の小野神社が鎮座している。どちらも、アラハバキ神の聖域が境内にあり、かつ周辺が、縄文や石器時代に遡る遺跡の宝庫である。

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黒が、高句麗人の居住地域。紫が、氷川神社およびアラハバキ神の聖域。赤は、古代、武蔵国の政治的中心、軍事的中心、祭祀の中心。
 西の端が富士山で、東の端が筑波山。この二つの霊山のあいだに、古代の武蔵国がある。 
 関東平野のど真ん中、古代、このあたりで利根川と荒川が合流していたが、その合流点の近くに埼玉古墳群という大古墳群が築かれている。この真南が、川越の氷川神社で、さらにその真南が、府中の国府筑波山と富士山を結ぶライン上に、平将門が政庁を築いた坂東の地があり、その西が、武蔵国一宮の氷川神社さいたま市)、所沢の中氷川神社あきる野市二宮神社となる。二宮神社と府中の国府を結ぶラインは、多摩川にそった冬至のラインで、奥多摩の奥氷川神社、世田谷の等々力渓谷を結ぶ。等々力渓谷のまわりには野毛大塚古墳など古墳群が集中し、ここは、さいたま市氷川神社の真南である。  さいたま市氷川神社の真西、関東平野の西端の日高市高句麗人の居住地があり、その真南の大磯も、高句麗人の居住地で、その南北のライン上に、厚木の小野神社とあきるの市の二宮神社という境内にアラハバキ神の聖域が残る神社があり、八王子の多賀神社も鎮座している。多賀神社は、府中の国府の真西でもある。
そして、府中の国府のすぐ西にあるのが谷保天満宮(903年創建)で、菅原道眞の死後、その魂を祀る場所としては、日本最古である。

 

 大磯と日高という南北ライン上の高句麗人居住地域は、縄文時代の史跡の残るところだが、同じライン上の八王子の多賀神社の真南3kmのところが神谷原遺跡で、弥生時代の方形周溝墓が33基も見つかり、さらに関東では珍しい円形周溝墓も1基見つかっている。また、神社の東北3.5kmに、縄文時代弥生時代の遺跡である宇津木向原遺跡がある。

 八王子地域は、弥生時代の東海方面の土器の出土が多く、東海地方との交流や、その方面からの移住が多く見られる。3世紀の倭国大乱の頃からは、畿内からの移住も確認できるようだ。

 前置きが長くなったが、古代の聖域は、必ずといっていいほど、何かしらの意味がある場所に作られている。

 さらに古い聖域の上に重ねられていたり、他の聖域と、何かしらの意味を持って、方位など法則性に満ちた所に築かれている。

 上の地図で、各地にある氷川神社が規則的に配置されていることがわかるが、氷川神社は、古墳時代からの出雲系の武蔵国造の一族が祀っていた神社であり、埼玉古墳群も武蔵国造の豪族との関係が指摘されているので、富士山や筑波山を含むこれらのラインの規則性は、武蔵国造の意思が反映されたものということになる。

 府中の国府の真西で、関東平野の西の端のラインともいえる神奈川県大磯を通るラインに鎮座している八王子の多賀神社は、明治元年(1868年)、甲州勝沼の戦いで敗走した新撰組において、それまでの指導的立場だった近藤勇土方歳三と、彼らに見切りをつけたグループが分裂解散に至った地と知られる。

 この神社は、938年、武蔵国に赴任した源経基によって創建された。

 源経基という人物は、大した人物ではないが、日本史においては大きな転換点となる事件の種を蒔いた。(時代背景からして、彼でなくても、他の誰かによってそうなっただろうが)。彼こそが、平将門の乱のきっかけを作った人物なのだ。

 源経基は、第56代清和天皇の孫だったが、当時、京都の朝廷は財政が苦しくて天皇の親族を養いきれなくなっていたので、世継ぎ以外は次々と臣籍降下が行われ、彼らは、自分で糧を得る必要があり、何かしらの役職を得たり、パトロンを見つけたりしていた。

 そして、聖和天皇の孫の源経基臣籍降下し、彼が、源頼朝足利尊氏などに連なる、武家としては最も栄えた清和源氏の祖ということになる。

 しかし、武家としての繁栄を築いたのは、源経基の息子の源満仲で、満仲と、その息子の源頼光や源頼長が、藤原兼家とその息子の藤原道長と協力関係を築き上げて、清和源氏の基礎を作った。

 938年、皇族の身分から臣籍降下した源経基は、お役人として武蔵国に赴任することになり、国土豊穣、万世安穏を祈願して八王子に多賀神社を作った。

 多賀神社からは、浅川を下れば国府のあった府中に至るし、上に述べたように府中の真西に位置していること、関東平野の西端のライン上にあること、縄文時代からの史跡があることなど、土地的にも何かしらの意味があったのだろう。

 源経基が、武蔵国に赴任した当時、京都では、菅原道眞の祟りで騒々しいことになっていた。

 菅原道眞を左遷してまで藤原時平醍醐天皇がやろうとした延喜の改革は、道眞の祟り騒ぎで、あっという間に頓挫した。

 道眞の祟りを恐れていた朱雀天皇が、醍醐天皇の後を引き継ぐが、醍醐天皇の時に復活させた班田収授は、一切行われなくなった。歴史的にも二度と行われなかった。

 班田収授は、律令制の基礎であり、人頭税の徴収のための戸籍作りだ。しかし、当時、逃亡農民も増え、その仕組みは、ほとんど機能しなくなっており、おそらく菅原道眞を登用した宇多天皇醍醐天皇の父で、臣籍降下して源氏の身分になっていて天皇などになる予定ではなかった。母親は渡来系である。)は、背後の力の後押しで、税制改革を行おうとしていた。

 その税制改革は、人頭税から地頭税への完全移行で、農民の数ではなく土地の広さに対して税金を課す制度だ。

 しかし、班田収授の数に含まれない逃亡農民を使って荘園開発と運営を行って財を築いていた藤原氏にとっては、この改革はデメリットだった。菅原道眞が藤原時平たちによって潰された背景は、たぶんここにある。

 菅原道眞の改革を推す勢力は、主に地方の豪族であり、なぜなら地頭税のためには土地の計測やその収穫高の管理が必要で、そうした細かな作業を中央の役人にはできず、その役割を任せられる地方の豪族の権限が大きくなる。(土地の広さを偽って、私腹を肥やすこともできる)。 

 平将門の乱というのは、そういう過渡期に起きた事件である。実際に起きた出来事としては大したことがないが、歴史的には、菅原道眞の怨霊騒ぎとともに大きな意味を持つことになった。

 そのきっかけが、八王子に多賀神社をつくった源経基だった。

 938年、源経基は、朝廷からの監督者として武蔵国に赴任した。地方豪族を牽制し、監視するお役人として。

 朱雀天皇(930年即位)以降、班田収授は行われなくなっているので、源経基は、武蔵国で、検地をやろうとしたことになっている。

 しかし、こうした地方における役人主導の検地は、税収を朝廷に還元するためではなく、地方豪族から賄賂をとって私腹を肥やすためだった。

 それに対して、武蔵國の古くからの豪族である武蔵氏の武蔵武芝が、武蔵國においてはその前例はないと拒んだ。

 つまり、彼は賄賂の要求をはねつけ、そのため、源経基兵を使って武蔵武芝の家を襲い、略奪を行った。

 その時に、調停に立ったのが平将門平将門は、調停のための行動をとったのだが、トラブルもあって、恐れた源経基は京都に逃げ帰って朝廷に平将門の謀反を告げる。

 歴史の教科書では、源経基の賄賂の要求をはねつけた武蔵氏の武蔵武芝が、朝廷に反発し、平将門藤原純友の乱のきっかけになった人物として名が刻まれているが、実際の彼は善政を行っており、武蔵国の民衆の家は豊かで、その統治の名声は武蔵国中に知れ渡り、謀反をするような人物ではないと伝えられている。

 しかし、それらを語り伝えたのは、菅原道眞の玄孫で、上総国常陸国受領を務めた菅原孝標の娘であり、『更級日記』の作者だ。

 また、府中の国府大國魂神社の鎮座するところ)から冬至のラインにそって西北に3kmほど行ったところに谷保天満宮が鎮座し、ここは、903年、菅原道眞が亡くなってすぐ、三男の菅原道武が、父を祀る廟を建てたことに始まるのだが、京都の北野天満宮や九州の太宰府天満宮などより遥かに古い菅原道眞の聖域である。

 

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谷保天満宮。今でも豊かな湧き水が出ている古代からの聖域。

 武蔵竹芝の善政を後世に伝えたのが菅原孝標の娘であり、菅原道眞の血を受け継ぐ者が、武蔵国に深い縁があるのは、道眞の改革の支援者が、この地にいたからだと想像できる。

 つまり武蔵国は、京都の朝廷を中心とする律令制が崩壊しているなか、独自の方法で国を治め、中央から派遣される役人と、軋轢が生じていた。

 武蔵氏というのは、奈良時代藤原仲麻呂の乱の時の貢献以降、賜った名だが、もともとは、古墳時代から続く武蔵国の国造(くにのみやっこ)の血統だ。

 この武蔵国の国造は、出雲系とされ、関東地方に多く鎮座する氷川神社を祀っていた。そして、府中の大國魂神社氏神で、天穂日命(あめのほひ)の後裔が武蔵国造に任ぜられ社の奉仕を行ってから、代々の国造が奉仕してその祭務を行ったと伝承されている。

 天穂日命という神は、神話の中ではアマテラスの子供で葦原の国の偵察に行ったのに大国主命に仕えて戻ってこなかった神で、島根の出雲大社の歴代の神官の祖でもある。そして、菅原道眞の菅原氏が改姓する前の名である土師氏の祖でもある。つまり、菅原道眞と武蔵国造の祖は、系譜としては同じ天穂日命という天孫系の神様の裏切り者である。

 武蔵国には、氷川神社を要として、古代からの聖域が、法則的なラインで結ばれているのだが、これは武蔵国造と関係している。

 そして、この法則的なラインの上に、平将門が拠点とし、最期を迎えた茨城の坂東も重なっている。

 平将門を祀る國王神社は、平将門終焉の地で、新皇を名乗って政庁を置いた岩井の地だが、武蔵国一宮の氷川神社さいたま市)と筑波山を結ぶライン上にある。

 この筑波山氷川神社を結ぶラインは富士山につながり、そのあいだに、所沢市の中氷川神社や、多摩川と秋川の合流点であるあきるの市に鎮座する武蔵国二宮の二宮神社が鎮座する。

 武蔵国造につながる豪族、武蔵武芝が源経基の賄賂の要求をはねつけ、そのため、両者のあいだでいざこざが起き、その調停に立った平将門が謀反を起こしていると、京都に逃げ帰った源経基が朝廷に報告した。しかし、そのすぐ後、常陸・下総・下野武蔵上野5カ国の国府の「平将門の謀反は事実無根」との証明書が、当時の権力者で、平将門とも関係の深かった藤原忠平へと送られことで、将門の申し開きが認められ、逆に源経基は、讒言の罪となった。

 藤原忠平は、平将門が少年期、京都にいた時に、平将門と主従関係を結んでいた貴族だった。

 藤原忠平は、菅原道眞が太宰府に左遷された時、道眞の友人であり、道眞を擁護していた。そして、道眞の死後、その祟りで次々と藤原氏の有力貴族が亡くなった後、道眞と親しかった藤原忠平が朝廷内で実権を握ることになった。生前の道眞を擁護していた ため、道眞の怨霊によって彼の子孫だけは守られるとされたのだ。

 この藤原忠平と、平将門は、主従関係にあった。

 そして藤原忠平の孫が、藤原兼家で、兼家の息子が藤原道長。教科書でも藤原氏絶頂の象徴として教えられる11世紀の藤原道長の繁栄は、実は、菅原道眞の祟りと関わっている。

 いったんは平将門の謀反の疑いが晴れ、告げ口をした源経基が裁かれたにも関わらず、その半年後、平将門が次々と関東の国府を襲撃し、「新皇」を宣言し、東国の各地域の諸官を任命したので、源経基の言っていた将門の謀反は本当だった、ということになり、源経基は、平将門討伐のため、東国に派遣される。

 平将門のこの行動は、武蔵国だけでなく、関東の各地域で、朝廷から派遣された役人と地方豪族との間で軋轢が高まり、時代の流れに逆らえなくなっていったのだろう。

 だとすると、その平将門を討伐した藤原秀郷は、何ものなのかという疑問が残る。

 藤原秀郷は、歴史的には平将門の乱のことだけ伝えられるが、その前後は、ほとんど何も残されていない。そして、奥州藤原氏や、そこにつながる皆川氏など多くの武家の祖となったことだけが歴史的には伝えられている。

 藤原秀郷のことについては別の機会に触れるとして 平将門の討伐のため、源経基の軍勢が武蔵国に到着した時にはすでに乱が平定されていたように、地方の秩序回復においても朝廷は無力になっていた。

 歴史の教科書で、藤原道長の時代が、平安時代に権力を握った藤原氏の絶頂だと教えられるが、それは正確でない。

 藤原道長の時代は、平将門の乱の後であり、朝廷の力は失墜し、菅原道眞の怨霊騒ぎによって、有力な藤原氏は次々と亡くなっていった。

 上に述べたように、藤原道長が繁栄できたのは、藤原忠平の子孫で、道眞の怨霊から守られる存在とされたことが、一因としてある。

 しかし、実際に道眞の怨霊が現れて忠平の子孫を守ると伝えたとは思えないから、当然、その仕掛け人がいる。

 藤原道長が繁栄できたのは、源満仲源頼光多田源氏)、源頼信河内源氏)が、菅原道眞の怨霊に守られるとされた藤原忠平の子孫、藤原兼家藤原道長を、他の藤原氏が没落していくなか、強力に支援していたからだ。

 結果として、藤原氏のなかで分けあっていた権益を、藤原兼家藤原道長の一族が独占していくことになるが、当然ながらその見返りも必要で、多田源氏河内源氏は、権益と権限を獲得し、実力を高めていく。

 藤原道長は、そうした歴史の流れに逆らえないことを悟っていただろう。

 道長の生涯の2度の妻は二人とも源氏の女性であり、彼は、晩年、出家した。そして、道長の死後、藤原氏は急速に衰えていく。

 自らの存続のために利用せざるを得なかった新興勢力が、その見返りを得ることで、より実力を身につけていくことは目に見えている。

 藤原道長が詠んだ「この世をばわが世とぞ思ふ望月(もちづき)の欠けたることもなしと思へば」の歌に関して、自分の栄華と満月を重ねた道長の驕りと解釈するのが通説になっているが、満月は明日から欠けていくものであり、平安時代の貴族に、その認識がない筈がない。

 空に輝く満月を見てどこにも欠けたところがないと思うことができるのであれば、我が世もずっと続いていくと思えるかもしれないが、そんなわけにはいくまい、というのが、この歌の素直な心情だろう。

 10世紀から11世紀、日本の歴史的転換期の裏側で、どのようなことが起きていたのかを知ることが、その後の歴史や、その前の歴史を考えるうえでも重要なことになる。

                                (つづく)

 

 

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