第1171回 『水俣 天地への祈り』 田口ランディ著 を読み終えて 

水俣 天地への祈り』 田口ランディ著 河出書房新社発行

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 久しぶりに、深い言葉に心を打たれた。

 この本は、タイトルにあるように”水俣病”をもとに書かれたものだが、水俣に限らず、今日の私たちの世界に生じている様々な歪み、軋み、断絶、衝突、破壊の現場に共通する本質的な問題と、それらを乗り超えて未来をつくっていくための鍵となる普遍的な思想が宿った書物だ。

 現在、私たちの生きる世界で生じている様々な問題は、現代人がはじめて直面する事態ではなく、状況の違いは多少あったとしても、人類のこれまでの歴史を通じて何度も起きてきたことなのだと思う。

 人間は、多くの生物と同じように自然に根ざしたところも備えているが、人間の脳は、自ら新しくシステムを作り出して、そのシステムのなかで生きていくという特徴を、人間は備えている。

 一人ではできないことを集団の力で成し遂げることが他の生き物に比べて上手な人間の、その能力によって生み出されたシステムが社会の隅々まで行き渡った状態を、とりあえず”文明”と呼ぶことにしよう。そうした文明社会の痕跡は、古代ローマや古代中国など、かなり遡った時代でも明確な形で残されている。

 そして、人間が作り出すシステムというのは、いつの時代においても、人間の意思を超えて肥大化し増殖し暴走する性質を持っている。その結果、人間は、人間が作り出すシステムに隷属させられ、犯され、蝕まれてしまう。

 人類の歴史は、そうした悲劇を繰り返しており、水俣病の問題も例外ではない。誰か特定の人間や組織を悪人と決めつけて処理できるような問題ではない。

 『水俣 天地への祈り』は、杉本栄子さんや、緒方正人さんという水俣病語り部の言葉を中心に創られた本だが、お二人の言葉は、現代の聖書というものがあるとすれば、その中の預言者の言葉のように心に響いてくる。

 この本の発行と同時に、ジョニー・デップが製作主演の映画「MINAMATA-ミナマタ」が、9月23日から日本でも公開されるのだが、ジョニー・デップが演じる写真家のユージン・スミスについて、(映画の中ではどのように取り上げられているのか、今のところ私は知らないが)、田口ランディさんと私が語り合う内容が、この本の中に収められており、杉本さんや緒方さんの言葉に触れた後に、その部分を読むと、どうしても自分の言葉が薄っぺらく感じて仕方がない。

 何が違うか端的に言うと、私のポジションが、客観的立場にすぎないということだ。

 7年ほど前、奇跡的に石牟礼道子さんをインタビューさせていただいた時も、まるで呪文のように揺らめいて立ち上ってくる霊性を帯びた言葉を前に、自分の言葉の浅さ、自分の存在の小ささが際立って何をどう応えればいいのかわからず、とてもきつかった。

 田口ランディさんも、この本の中に登場する杉本栄子さんと初めて会った時、その神々しさ、その圧倒的な存在感に畏怖を覚え、身がすくんで逃げ帰ったと書いているが、その気持ちはよくわかる。

 本当に神々しい人間というのは、実在するのだ。聖書の書かれた古代だけでなく現代も。

 2000年以上前に、人間は自らが作り出したシステムによって世界の歪みを作り出していたが、同時に、そのシステムによって世界に起きている事態を、どのように捉え、どのように対応すべきなのか、真摯に悩み、苦しみ、もがき、誠実に対応しようとつとめた人間もいた。

 しかし、世界は、一人の人間がどのように表現しても、表現しきれるようなものではない。それでも、誠実な個人が、自分が関わった世界のことを、完全ではないかもしれないけれど、できるだけ偽りなく伝えようとし、その背景に何があるのかを思索し、どうあるべきかを真摯に説いた。それが、預言者たちの果たした役割であり、彼らの表現を統合したのが聖書であり、場合によっては、神話という形をとることもあった。

 そういう意味で、今回の田口ランディさんの『水俣 天地への祈り』の中で重要な役割をになう杉本さんや緒方さん、そしてユージン・スミスといった水俣病に深く関与し、闘い、葛藤し、悩み抜き、その果てに自分ならではの思想を獲得した人たちの表現は、”現代の聖書”の預言者といって差し支えないと思う。そして田口ランディという作家は、この時代の預言者の在り方と、その表現を、この書物を通して世の人々に伝える役割を果たしている。

 さらに、20世紀に創られた表現の中で、数百年後に伝えるものとして欠かすことのできない石牟礼道子さんの『苦海浄土』や、新作能の『不知火』なども統合されて、水俣病という現代文明が作り出した、あまりにも深刻な事態を通して、”現代の聖書”のすがたが、浮かび上がる。

 現代社会には、自らをアーティスト、表現者と名乗る人は数えきれないほど存在しているのだが、その多くが、人間が作り出したシステムに魂を隷属させたままアウトプットしており、そのことに対して疑問を持つどころか、そのシステムの中で成功することが自分の有能さを証明し、自分が生きていることの価値につながると信じてしまっている。

 そうした野心の集まりが、個々の人間の魂を損なうシステムを肥大化させ増殖させる原動力になってしまっていることに無自覚のまま。

 表現者とは、いったい何なのか? 表現するということは、いったいどういうことなのか? 

 これは何もアーティストを自称する者だけの命題とは限らない。

 この本に登場する杉本さんや緒方さんなど、水俣病語り部もまた、自分の体験を通じて、自分の言葉で表現を行っている。しかし、それは、ただの過去の体験談ではなく、未来への祈りなのだ。

 未来への祈りが秘められた表現に、人間の魂は突き動かされる。

 杉本さんが講演のために呼ばれた学校で、教頭先生が自らの学校を”荒れた学校”だと言い、生徒たちが最後まで杉本さんの話に耳を傾けるか心配していたにもかかわらず、全ての生徒が最後まで真摯に耳を傾けたという話が象徴しているように、荒れているのは、生徒たちにレッテルをはる教頭に代表されるシステムと生徒たちとの関係であり、生徒たちそのものではないのだ。

 「荒れた生徒たち」という言葉のアウトプットも、その人の表現だが、沈黙も含めて、どんな表現も、その人の隠れている何かを表す。

 杉本さんのお父さんは、杉本さんに、「その人の言葉を最後まで聞いて、隅々まで見抜く人になれ」と行ったそうな。 

 とくに、当人に自覚があろうがなかろうが、多くの人に”思想”や”価値観”を伝える役目を果たしている”表現者”(最近は、インフルエンサーと呼ばれる人も含まれるのか?)のアウトプットするものに触れる際、技術や方法や正確さ、発想の新しさや目の付け所などで誤魔化されてしまうことが多いが、見抜かなければならないのは、その人の祈りの深さだ。

 祈りは、決して個人的な願望などではなく、哀しみの受容だ。そしてそれは、他者や、この世に起きている出来事に深く心を寄せ、受け止めていくことでしか生じない心の動きだと思う。

 水俣という大きな歴史的事実を、真に自分ごととして受け止めることは、とてつもなく難しい。

 この時代、そんな困難を避けて通ることは簡単なので、大半の人はそうするが、それでも、向き合わざるを得ない少数の人がいる。それはもう、意味などを超えた宿業だ。

 しかし宿業は、ただ苦しいだけのものではない。自己保身、自己利益、自己都合、自己承認、自己執着、自己欺瞞といった際限のない自我への囚われほど苦しいものはなく、宿業は、そうした手強い自我を沈黙させることがある。華麗に見える人生よりも、魂の深いところで生きることを選ばざるを得ない人には、そうした心の鎮魂こそが救いであるとわかる。

  田口ランディという作家は、この書物の中で、人間の宿業だけでなく、表現することの宿業に、深く迫ろうとしている。

 そして、水俣病という極限の修羅を通して、人間の救いについて深く考えさせるとともに、人間が作りあげた刹那のシステムを現実の世界だと信じ込んでしまっている多くの人に、そのシステムを超越した世界や人間の生き様がリアルにあることを伝えている。

 

 

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