銅鐸というのは、境界に埋められていることが多いが、京都盆地では、嵯峨野の北、日本海に抜ける周山街道の出入り口に近いの梅ヶ畑と、木津川、宇治川、桂川の合流点、石清水八幡が鎮座する男山の南麓の式部谷に埋められていた。
この二箇所は、桓武天皇によって長岡京が築かれた向日山の地から発見された弥生時代の銅鐸製造工房と、南北ラインで結ばれている。
そして、京都盆地の北端の梅ヶ畑は、平安時代の祭祀場の跡も発見されており、南端の式部谷の方は、すぐ近くが、第26代継体天皇が即位して最初に宮を築いた樟葉宮で、さらに桓武天皇が、郊祀という特殊な即位儀礼を行なったところだ。(通常、即位儀礼は宮中の秘儀として行われるが、桓武天皇は、わざわざ継体天皇が築いた樟葉宮のところで、天下に向けて、自分が世継ぎであることを示した)。
そして、銅鐸製造の鋳型が出土した向日山は、縄文時代の祭祀道具である石棒の製造工房も出土し、さらに、最古級の前方後円墳と、前方後方墳がほとんど隣り合わせで築かれ(3世紀末)、さらに、継体天皇が3番目の宮である弟国宮を築き、桓武天皇が長岡宮を築いたところだ。
つまり、弥生時代に銅鐸が埋められたり、銅鐸が製造されていたところは、平安時代まで何かしらの祭祀が行われる場所だったということになる。
しかも、その三箇所が、南北の一本のライン上にある。
北の梅ヶ畑は、古来から観月の池として知られ数々の歌に詠まれている広沢池の東横の坂を登りきったところで、日本海に抜ける周山街道の出入り口にあたる。(今はゴルフ場になっている)。
そして、南の男山がそびえる場所は、木津川、宇治川、桂川が合流するところで、かつては、巨鯨池があった。
つまり、どちらも交通の要所であり、京都盆地の内外の境界地である。
男山の南麓にも、平安時代、観月の名所だった鏡伝池が、樟葉の宮跡のすぐそばにある。
また、この地の高台に和気神社が鎮座しているが、ここは、かつて寺が建ち、飛鳥時代~平安時代にかけて朝廷の土器・瓦の生産地でもあった。
嵯峨野の北の梅ヶ畑の少し北の高雄に神護寺があるが、ここも和気氏ゆかりの寺で、開基は、和気清麻呂だ。
和気清麻呂は、奈良時代後半、僧侶の道鏡が天皇になろうとした時、大分の宇佐八幡の神託によってそれを防いだことで知られるが、平安京遷都の時の建都の責任者でもあり、京田辺市の甘南備山を軸にして、その真北に、羅生門、朱雀通り、大極殿などがくるように都市計画を立てた。
そして、和気氏の出身の岡山の和気も銅鐸の出土地であり、その場所の真東が、京田辺の甘南備山で、さらに東に行くと、伊賀一宮の敢国神社の近くの佐那具とか、豊川の伊奈銅鐸出土地や、浜松の銅鐸の谷や、近畿式銅鐸の東限である掛川の長谷など、同緯度の東西ライン上にズラリと銅鐸出土地が並んでいる。
そもそも、九州の宇佐八幡の神託で道鏡の天皇即位を阻止できたというのが、どういうことなのか、よくわからない。 平安時代の中頃、その宇佐八幡の神様を勧請して作られた(859)のが、石清水八幡宮だが、ここは、伊勢神宮と並んで、皇室からは二所宗廟の1つとして崇敬された。
八幡神社は、日本にある神社でもっとも数が多い神社だが、鶴岡八幡宮も含めて、この石清水八幡から祭神が勧請されたものである。
この石清水八幡は、もともとは、和気氏の氏寺であった神願寺(和気清麻呂の墓があったと伝わる)であったとされ、ここにも和気氏が関係してくる。
この後、平安中期以降、源頼義などによって東北征伐が行われるが、その際の守護神が八幡神となり、源氏によって崇敬され、武士によって崇敬された八幡神は、勝利祈願や出世開運の神として全国に普及した。
しかし、道教の天皇即位を阻止した和気氏と、八幡神が、いったいどういう関係にあるのか、よくわからない。 和気氏は、かなり怪しい。
空海を支援したのも和気氏だし、空海から一番最初に密教の奥義を授けられたのも和気氏だ。政治と祭祀のあいだをつなぐ重要な役割を果たしていたのは間違いなく、しかもそれは、銅鐸祭祀の頃に遡るものがあるような気がする。