第1173回 時代の転換点に起きた、菅原道眞の怨霊騒ぎ

 歴史上の天皇で、身分や血筋からは決して天皇になる筈がなかったのに天皇に即位し、しかも、それが歴史的に重要な転機点となった人物が三人いる。

 一人は、6世紀初頭、福井の豪族だったとされる第26代継体天皇で、現在の天皇の血統を遡れるもっとも古い天皇とされている。

 二人目が、平安京を築いた第50代桓武天皇天武天皇の血統の称徳天皇(女帝)が子供を産まず、急遽、天智天皇の血統から父親の白壁王子が光仁天皇として即位することになったが、これは、その息子、桓武天皇への道をつけるためのものだった。

 奇しくも、この二人は、前回のエントリーでも言及したように、宇治川桂川、木津川の合流点に近い樟葉の地と関わりが深く、継体天皇はここに宮を築き、桓武天皇は、ここで即位儀礼を行なった。さらに、継体天皇の弟国宮と、桓武天皇長岡京は同じ場所となる。

 そして三人目が第59代宇多天皇。彼は、源氏の身分に臣籍降下して皇族の身分ではなくなっていたが、桓武天皇の時と同じく高齢の父親が急遽、第58代光孝天皇として即位させられてすぐに亡くなったために後を継いだ。光孝天皇の即位は、宇多天皇即位への道づくりである。そして、宇多天皇は菅原道眞を重用して改革を行おうとしたのだが、藤原時平たちの勢力によって阻まれ、道眞は太宰府に左遷させられた。

 しかし、その後に続く怨霊騒ぎによって、道眞を左遷してまで藤原時平たちが維持しようとした形式的な律令体制は完全に終焉を迎えることになる。

 天皇になるはずがなかったのに天皇になったというのは、個人の運や実力ではなく、背後に何かしらの勢力が存在していたと考えるのが自然なことだ。

 継体天皇の時は、物部氏や大伴氏が直接的に擁立に関わり、桓武天皇の時は、藤原氏の式家が擁立に関わっている。

 この二人の天皇即位の経緯については、色々な専門家が取り上げているが、宇多天皇の即位に関しては、歴史的には極めて重要であるにもかかわらず、その背後関係のことが、詳しく分析されていない。

 宇多天皇の即位をめぐる動きがなぜ重要かというと、律令制から封建制への移行に関わっているからだ。

 宇多天皇が重んじた菅原道眞の死後、道眞の怨霊騒ぎによって律令制の根幹であった班田収授が一切行われなくなったように、この時期は、律令時代の人頭税から地頭税へと切り替わる時期だった。

 人頭税というのは、班田収授で戸籍を作り、農民の数に対して税金がかけられる制度だが、税金逃れのために逃亡する農民が増え、その農民を藤原氏の有力貴族などが抱え込んで荘園開発とその経営を行なっていた。

 当然ながら、朝廷の税収は減る一方なので財源不足に陥り、皇族を養うことができなくなる。そのため、天皇の血縁者たちは世継ぎ以外は次々と臣籍降下して皇族の身分を離れ、食い扶持を自分で見つけるほかなかった。源氏や平氏といった後の武家は、そのように生まれていった。

 つまり、宇多天皇が即位した頃、律令制は、どうにもならないほど崩壊し、形骸化していた。律令制の基本である人頭税に代わって、土地そのものに税金をかける体制にしていくほかなかった。

 しかし、土地を測量し調査し、収穫量を管理するのは、中央の役人ではなく、地方の実力者である。

 地方の実力者は、武蔵国のように古墳時代の国造(くにのみやっこ)の子孫もいるし、中央から地方に赴任して行政責任を負っていた下級貴族や、中央にいても食べていけないので自ら地方に下る者もいた。

 そして中央政府は、彼らに、検地、租税収取、軍事などの権限を大幅に委譲せざるをえなくなる。

 菅原道眞の左遷によって、藤原時平を中心にして時間を逆戻しにするように班田収授が行われたが、たちまち道眞の怨霊騒ぎが起こり、藤原時平をはじめ道眞と対立した者たちや醍醐天皇は死んでしまった。そして、930年に8歳で即位した朱雀天皇の母は、道眞の祟りを非常に恐れていた。

 藤原氏の多くが死んでしまった後、政治は、藤原氏のなかで唯一、菅原道眞と親しく、道眞の左遷にも反対していた藤原忠平が行い、これ以降、班田収授は一切行われなくなった。

 中央から遠く離れたところで地方の実力者の裁量によって地方行政が行われるようになるから、当然ながら、各地で様々な新旧対立の問題が起きるようになった。 

 朱雀天皇の即位から5年後、935年に関東で平将門の乱が起きて、翌年、瀬戸内海で藤原純友の乱が起きた。その背景は、第1170回のブログで書いた。

 こうした流れを確認すると、菅原道眞の左遷や祟りの背景として、中央集権的な制度を維持したかった勢力と、その制度を壊していく勢力との攻防があったと想像することができる。

 宇多天皇は、もともとは源氏の身分であったし、母親が、班子女王(はんしなかこじょおう)という渡来系の血を引く女性だった。

 そして、班子女王の父親は、桓武天皇の12番目の皇子の仲野親王であるが、彼は、2人の妻が両方とも渡来系だった。一人の百済系で、もう一人が、班子女王を産んだ当宗氏で、当宗氏は、東漢坂上の一族の渡来氏族である。

 坂上というのは、平安時代の初期、蝦夷征伐の征夷大将軍だった坂上田村麻呂坂上氏のことであり、坂上氏は、渡来系の東漢氏と同族である。

 東漢氏というのは5世紀に渡来したとされているが、飛鳥時代大化の改新においても、この東漢氏が、蘇我氏から中臣鎌足中大兄皇子側についたことで勝負が決まり、壬申の乱においては、大海人皇子(後の天武天皇)側で活躍した坂上国麻呂の名が残っているように、軍事部門において力を発揮した氏族集団だった。

 そして東漢坂上氏は、坂上田村麻呂の死後、存在感が弱まっていたが、その軍事力に目をつけたのが、源頼朝足利尊氏などにつながる清和源氏の興隆の祖といえる源満仲だった。

 源満仲は、住吉神の神託により摂津の多田盆地を拠点とすることを決めた。多田は、多田銀銅山という日本でも有数の鉱物資源のあるところで、さらにここを流れる猪名川は大阪湾へとつながるが、その流域に、渡来系の職能集団が住み着いていた。

 源満仲は、この多田の地を所領として開拓すると共に、多くの郎党を養い武士団を形成したが、武士団の中心として坂上党の棟梁である坂上頼次を摂津介(介は、地方行政の最高責任者の下で働く国司の一人)に任命した。

 この源満仲が直接的に支えていたのが藤原兼家藤原道長の父)で、この兼家が、菅原道眞の祟り騒ぎの背後にいた人物の一人だった。

 藤原兼家は、菅原道眞の友人だった藤原忠平平将門とも主従関係を結んでいた)の子孫で、藤原氏のなかで唯一、道眞の怨霊に守られるとされたこの一族は、道眞の祟りによって他の藤原氏が没落していくなか、富を独占して栄えた。

 菅原道眞を祀る北野天満宮を壮大な社殿として作り上げたのが、兼家の父の藤原師輔であり、天皇の勅使(使者)が派遣されて祭祀を行うという国家の神社の位置付けにしたのが藤原兼家だった。

 その藤原兼家一族を、武力的に、そして、経済的にも支えたのが源満仲であり、その見返りとして、源満仲や息子の頼光や頼信(河内源氏の祖)は、地方行政における自立した権力を獲得していった。兼家の息子の藤原道長の栄華というのは、藤原氏の絶頂を象徴しているように思われているが、そうではなく、藤原氏の多くが没落していくなか、道眞の怨霊によって守られるとされ、その上で清和源氏よって支えられることで可能になった栄華だった。その栄華の見返りに、清和源氏の力はさらに強まり、道長の死後、武士の時代へと加速していく。

 藤原道長は、二人の妻が源氏の出身であり、さらに、紫式部に、光源氏を主人公とする『源氏物語』を書かせている。

 『源氏物語』は、なぜ主人公が藤原氏ではなく源氏なのかという議論があるが、道長と、道長を支えていた源氏一族の関係の深さが、この小説の背後にあるということだろう。

 ちなみに、紫式部のルーツも、山科(小野郷)の豪族、宮道氏であり、近くに、東漢氏である坂上田村麻呂の墓の候補が二箇所ある。

 そして、この宮道氏の娘、宮道列子藤原高藤のあいだに生まれた藤原胤子(ふじわらたねこ)が、源氏の身分だった宇多天皇と結ばれて、後の醍醐天皇を産む。

 醍醐天皇の陵は、山科の小野郷に築かれている。

 そして、藤原胤子の兄の藤原定方が、紫式部の先祖であり、定方の娘が、紫式部の父の祖母にあたる。

 ちなみに、山科の小野郷は、小野小町小野篁が生まれ育った地でもあるが、京都の堀川通にある紫式部の墓が、小野篁と隣り合わせに並んでいることが謎だとされているが、その背景に、山科の小野郷が関係しているのかもしれない。

 話は横にそれたが、菅原道眞の祟りの仕掛け人の一人、源満仲を武力的に支えていたのが坂上氏だった。

 菅原道眞を重用した宇多天皇の母の班子女王は、その東漢坂上氏の一族であり、宇多天皇を即位させた勢力や、菅原道眞の怨霊騒ぎを引き起こした勢力も、そこにつながっていたのではないか。

 宇多天皇が埋葬されている大内山陵は、宇多天皇が創建した仁和寺の真北で、山道を登りきった所にある。

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宇多天皇

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宇多天皇陵への道

 山からの見晴らしは素晴らしく、京都盆地を見下ろし、木津川、宇治川桂川の合流点のところの天王山まで見渡せる。

 しかし、宇多天皇の陵墓は、なぜか、山頂の南側ではなく北側に少し下ったところの薄暗い窪地に作られている。ここから南東500mほどのところ、もう少し山を下ったところに一条天皇堀河天皇の陵墓があるが、いずれも南に面し、京都盆地を見下ろす絶景の場所である。

 しかも、一般的に天皇の古墳は盛土で小山のようになっているのに、宇多天皇の陵墓はそうはなっておらず、息子の醍醐天皇の陵墓に比べても、かなり規模が小さい。

 そして、宇多天皇の大内山陵の真南に、仁和寺があり、900m南には秦氏のものとされる古墳が頂上付近に多数築かれている双ヶ丘があり、その300m真南に、これも秦氏と関わりの深い、三本鳥居で有名な蚕ノ社がある。

 なぜか、太秦秦氏関連の聖域と、宇多天皇が創建した仁和寺や、陵墓が南北のラインで結ばれているのだ。

 仁和寺のすぐ西には、宇多天皇の母親の班子女王を祀る福王子神社が鎮座し、ここは、日本海につながる周山街道の入り口にあたる。

 また、班子女王の父親である仲野親王の陵墓とされるものが、太秦の帷子の辻にある垂箕山古墳なのだが、これは、考古学的には平安時代のものではなく、6世紀初頭の継体天皇の時代のものとされている。しかも、前方後円墳なのだ。平安時代天皇の陵墓は円墳であるし、ましてや桓武天皇の12番目の皇子にすぎないのに、天皇に即位した嵯峨天皇など兄達の陵墓よりも大きく、京都盆地を見下ろすような高台に築かれている。

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京都の帷子ノ辻に築かれた垂箕山古墳。墳丘長63mの前方後円墳。12番目の皇子の墓としては、異例の規模。

 もしもこれが真に仲野親王の墓だとすると、過去に作られた古墳を利用して、仲野親王の墓が、その中に設置されたということになる。

 もしもそうだとするならば、6世紀の初頭にこの古墳を築いた勢力と、仲野親王が何かしらのつながりがあるということだろう。

 この垂箕山古墳は、蛇塚古墳の真北500mのところにある。蛇塚古墳は、6世紀末から7世紀初頭の建造と考えられており、現在は盛り土が失われているが、75mと巨大な前方後円墳で、横穴式の石室の規模は全長17.8メートルを誇る。これは、同時代の蘇我馬子の墓とも言われる奈良の石舞台古墳(19.1m)と同規模の石室の大きさを誇り、全国でも最大級である。

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蛇塚古墳

 蛇塚古墳は太秦の地に築かれており、太秦秦氏との関係が深い土地なので、これは秦氏の古墳でないかとされているが、秦氏と関わりの深い双ヶ丘と蚕ノ社を結ぶライン上には、双ヶ丘の上の古墳群や、天塚古墳、清水山古墳などが集中しており、これらが秦氏の古墳だとすると、蛇塚古墳や、垂箕山古墳は、そこから西にズレている。

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太秦蚕ノ社参道の鳥居、本殿、双ヶ丘、仁和寺宇多天皇陵は、南北ラインで結ばれており、その西1.2kmのところに蛇塚古墳と垂箕山古墳が南北に並んでいる。

 また、垂箕山古墳の被葬者とされる仲野親王が関係の深いのは、同じ渡来系でも秦氏ではなく坂上氏(東漢氏)なので、飛鳥時代に活躍した東漢氏の豪族の墓に、平安時代仲野親王が埋葬された可能性がある。

 竪穴式の石室の場合は、古墳上部にある石室に埋葬した後、上から大きな石で蓋をするので一人の権力者を埋葬することしかできないが、後期古墳時代の横穴式の石室は、古墳の側面から簡単に石室内に出入りできるので、石室内に複数の人物が埋葬されているケースがほとんどである。

 しかし、垂箕山古墳は、宮内庁宇多天皇の外祖父の仲野親王の墓だとしているため、発掘調査ができておらず、実際にどうなっているのかわからない。

 2008年に、奈良県明日香村にある真弓鑵子(まゆみかんす)塚古墳(6世紀中ごろ)の横穴式石室が、石舞台古墳をしのぐ国内最大級の規模であることがわかったのだが、ここが東漢氏の墓域であることなどを考え合わせて、被葬者は東漢氏ではないかと考えられている。

 日本の古代史に影響を与えた渡来人としては秦氏がよく知られているが、東漢氏の存在も忘れるわけにはいかない。

 東漢氏は軍事を担っていただけでなく、公文書の作成、徴税・出納などの記録で大和政権に仕えた文氏も同族であるとされる。

 彼らは、古事記日本書紀の文章化にも貢献しているし、日本語の訓読の発明にも関わっている。

 宇多天皇の母親の班子女王の父であり、謎の垂箕山古墳の被葬者とされる仲野親王には特技があり、彼は宣命を宣読することに優れていた。宣命というのは、天皇の命令を漢字だけの和文体で記した文書で、宣命体は、今日の日本語である漢字仮名交じり訓読文のルーツである。

 当時の皇族でその作法に通じていることは非常に珍しいことだった。

 宣命体は、現在の日本語を構成する漢字と平仮名において、平仮名の部分が、万葉仮名で書かれたものだから、万葉仮名の部分をひらがなに置き換えれば、現代人にも読みやすい日本語の文章になる。

 訓読文が、東漢氏と同族の文氏の発明であるならば、日本語を今あるような形に作っていくうえで、渡来人が大きな貢献を果たしていたということである。

 母親を通じて東漢氏の血を受け継ぐ宇多天皇が、菅原道眞を通して行おうとしていた改革もまた、後の武士の時代への流れを作ることになった。

 そして、宇多天皇と同じく、天皇になる身分ではなかったのに天皇になった桓武天皇は、1000年の都、平安京を築いたのだが、彼の母親の高野新笠もまた、渡来人の血を受け継いでいる。

 

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