(熱海 来宮神社の樹齢2000年を超えるとされる楠木)
熱海の来宮神社は、日本屈指のパワースポットなどと言われ、毎日、多くの参拝者が訪れている。本殿の左奥にあるご神木の大楠の巨樹は、樹齢2000年を超えると言われるが、樹齢1300年とされるもう一本の楠木は、約300年前の落雷を受けても強い生命力で、今でも葉を茂らせている。
来宮神社という名の神社は、伊豆半島の賀茂郡河津町と伊東市と伊豆市にもあり、伊豆のキノミヤ信仰があるところは、鹿島踊りの盛んな地域と重なっている。
鹿島踊りは、その名のとおり茨城の鹿島神宮と関わりがあるが、本質的に、海からやってきた神を迎える儀式の踊りだ。
古代、海人の安曇氏が拠点としていたところは、今でも長野県の安曇野や、滋賀県の安曇川など、地名として名が残っているが、熱海(アタミ)とか渥美(アツミ)半島などもそうで、熱海は、その地勢的および地理的な理由で、古代から海人と関わりの深いところだった。
(熱海 多賀神社 境内の蛙石=左側)
熱海の南部の海岸沿いに鎮座する多賀神社には、縄文、弥生、古墳時代の祭祀場の痕跡が発見されている。境内の石塊の下から計4面の青銅鏡が出土し、石塊の下には玉石が敷かれてあるのが確認され、祭祀を行なった遺構であることが判明した。
熱海の多賀神社に残された記録では、多賀神社の祭神は、多賀神社のすぐ南にある戸又海岸に漂着したと伝わる。
多賀神社は、1711年に近江の多賀神社からイザナギ神とイザナミ神を勧請したが、ここは、式内社の白浪之彌奈阿和命神社(しらなみのみなあわのみことじんじゃ)、通称、阿波神社の有力候補であり、創建は、はるか1000年よりも前のことである。
阿波神社というのは、古代、神々が集う島とされた神津島に鎮座する阿波命神社と同じであり、神津島は、品質の高い黒曜石の産地だった。
『続日本後紀』(840年)における記事で、神津島に坐す神である阿波神は「三嶋大社本后」とされ、江戸時代の平田篤胤は、この阿波神は、天津羽羽神と同じとしている。
(掛川の阿波々神社の磐座群)
掛川の粟ヶ岳山頂に巨大な磐座祭祀場があるが、ここに鎮座する阿波々神社や、高知の赤鬼山の麓に鎮座する朝倉神社の祭神と同じである。
静岡の掛川の粟ヶ岳は、海からも目立つ山で、古代から海人の信仰が厚かった。
また、高知の朝倉神社は、俗称「木の丸様」と呼ばれる。その由来は、斉明天皇が、百済支援のために難波宮を出て西征し朝倉宮を築いた場所がここで、朝倉神社背後の赤鬼山の木を切って山麓に宮を築き、その宮を「木の丸殿」と称したからだと地元では伝えられる。
朝倉宮が築かれた場所の候補地はいくつかあり、北九州の朝倉が有力視されているが、具体的にどこかはわかっていない。
高知は、現在も森林率が84%と日本一なのだが、高知が朝倉宮の候補の一つになっているのは、百済支援の遠征には莫大な船が必要で、その船材として高知の材木資源が使われたからかもしれない。
そして、伊豆もまた、応神天皇の時代に造船が行われたと記録されているように、古代、木材の供給地だった。高知と伊豆は、黒潮でつながっており、神津島と高知に、天津羽羽神=阿波神が祀られている理由も、そこにあるかもしれない。
しかし、神津島の黒曜石の流通は石器時代や縄文時代にまで遡る。だとすると、数千年、数万年前に、海人のネットワークがあったということなのだろうか。
(足摺岬の唐人駄場の巨石群)
高知県の足摺岬は、黒潮が直接ぶつかる場所であるが、ここに唐人駄場(とうじんだば)の巨石群がある。唐人とは異人、駄場とは平らな場所という意味を持ち、この周辺では、縄文時代早期(7000年前)の耳飾、縄文前期(6000年程前)の土器片、石斧、石錐、石鏃などが出土し、さらには弥生の土器片、古墳時代の須恵器片など、多数の石器や土器なども出土している。
そして伊豆半島の海人と関わりが深い来宮神社が鎮座する場所、熱海には縄文時代の祭祀場があるが、それ以外の場所も、縄文時代の痕跡が残っている。
伊東市の八幡宮来宮神社は、単成火山の大室山の真南3kmのところに鎮座しているが、特徴的な形の大室山は、海を航海する人々の目印だったとされる。
また、八幡宮来宮神社の社殿の周囲からは土器や石器の欠片や黒曜石の鏃などが多く出土している。
この神社の祭神は、伊波久良和気命(いわくらわけのみこと)で、磐座の神の意味だろうとされる。この神は、太古の昔、現在の神社の場所から南東に1kmのところの海岸に漂着し、「堂ノ穴」という海蝕洞窟に祀られていたからだと考えられている。
また神社の本殿の裏には洞窟があり、この洞窟は下田の伊古奈比咩命神社に繋がっている と伝えられてきた。
(伊豆下田の伊古奈比咩命神社)
八幡宮来宮神社の神事においても、かつては竹筒に神酒を入れて下田の伊古奈比咩命神社に送っていたようだが、伊古奈比咩命神社には、 縄文時代の祭祀場跡が存在する。
この伊古奈比咩命神社は、三宅島から上陸した三島明神が最初に宮を築いたところとされている。
さらに、伊豆半島の東岸の賀茂郡河津町には、川津来宮神社(別名 杉桙別命神社)が鎮座している。この神社の祭神は杉桙別命神だが、ここもまた漂着神の伝承があり、神社の場所から南東1kmほどの木の崎(現在は鬼ヶ 崎)に流れ着き、最初はその場所に祀られ、後に今の場所に移されたという。
社伝によると、この神社は、古代から鎮座していたが、和銅年間(708 - 15年)に再建されたとされる。境内にそびえる神木の大楠は、10世紀の「延喜式」にも記録されており、1100年も前の時点でも注目に値する樹木だった。この楠木は、一般的な楠木が地上から近いところで枝分かれしているのに対して、太い幹がかなりの高さまで伸びたところで枝分かれしており、非常に美しい姿をしている。
(河津来宮神社の樹齢1000年を超える楠木)
河津来宮神社は姫宮遺跡という縄文遺跡の中にあり、かつての祭祀場であった可能性が高い。河津来宮神社の1kmほど東の高台には見高神社が鎮座し、その社殿は真西の河津来宮神社を向いている。また見高神社の背後には段間遺跡があり、ここからは、重さ約19キロの黒曜石の原石や薄片など計254kgも出土しており、この場所で鏃や斧なのでに加工されて、各地に運ばれていたのではないかと考えられている。
古代、神々が集う島とされた神津島は、品質の高い黒曜石の産地だった。日本には、神津島以外に、八ヶ岳の和田峠や隠岐や瀬戸内海の姫島など代表的な黒曜石の産地があるが、とくに神津島の黒曜石は切れ味が鋭く、関東や中部地方の太平洋岸を中心に西は伊勢湾、能登半島まで分布している。
30,000年前よりも前の旧石器時代から、神津島の黒曜石は本州で使われており、当時の人々が、船を使って黒曜石を運んだことがわかっており、河津町の段間遺跡が、その流通の拠点だったと考えられている。
また河津来宮神社は、本殿が南東を向いており、その方向には新島、さらに三宅島がある。
三宅島は、三島明神の本貫の地とされ、三島明神は、ここから伊豆半島へと上陸し、その上陸の場所が下田の伊古奈比咩命神社とされるが、河津来宮神社が三宅島の方向を向いているのは、ここもまた、三島明神と関わりが深いことを意味している。
三島明神は、江戸時代の国学者の平田篤胤が事代主命のことだとしたが、それ以前は、オオヤマツミ神のことを指していた。そのため、現在、静岡の三嶋大社では、その両神を主祭神として祀っている。
河津来宮神社の参道は河津川に並行するが、河津川は、天城山塊が源流である。そして、天津山塊を源流として河津川の反対側、三嶋大社の方に向かって流れていくのが狩野川である。
狩野川の流域は、古代から船材に適した楠木の産地であり、日本書紀には、応神天皇が、この地で船を作らせたとの記録がある。その木材の集積地もしくは造船の地が、三嶋大社から真南20kmのところに鎮座する式内社の軽野神社だとされるが、偶然なのか、軽野神社は、神津島と河津来宮神社を結ぶラインの延長線上である。そして、この軽野神社から東に6.5kmのところ、狩野川の支流の大見川のほとりの高台に伊豆市の来宮神社がある。
伊豆市の来宮神社から西1.7kmのところ、大見川沿いに上白岩遺跡がある。ここは、縄文中期から後期にかけての遺跡で、埋甕(うめがめ)」と呼ばれる人の埋葬施設や住居跡が発見されているが、完全な形でストーンサークルが発見された。
縄文時代のストーンサークルは、北海道から東北地方に中部地方と、東日本に偏って存在している。
上白岩遺跡のストーンサークルは、直径12メートル。この南に長さ10mの帯状列席が構築され、長径約2mの円形の組石が接している。この配石遺構からは、石皿・石棒なども多く発見された。ストーンサークルの外側には、4基の竪穴住居跡と、約60基の土坑も発見された。
出土物のなかには、八ヶ岳周辺の縄文遺跡から多く発見されている人面把手付きの土器の破片が見られる。人面把手付土器は、土偶のように意図的に壊されたと思われるものが多く、土偶と同じく祭祀用だった可能性がある。
このように見ていくと、伊豆のキノミヤ信仰と関わりの深い来宮神社が鎮座する場所は、海人との関わりとともに、縄文時代とのつながりが濃厚である。
*ピンホールカメラで撮った日本の聖域と、日本の歴史の考察。