第1213回 現代もまた銀河鉄道の旅の途中

  

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(小池博史ブリッジプロジェクトのInstagramから)

 

 昨日、小池博史ブリッジプロジェクトの「Milky Way Train」を観てきた。

 宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」を基点にした小池さんのオリジナル世界。

 小池さんの舞台を観に行く人で、宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」を期待して観に行くような人はいないと思うが、小池さんは、宮沢賢治の世界を解体して再構築する。

 だから、頭の中に宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」しかない人は、わからないと言うだろう。

 そもそも、どんな表現でもそうだが、「わからない」という人は、自分の中にあるものを確認したいだけか、事実の答えしか求めない人。

 事実の答え合わせではなく宮沢賢治の神話的世界を、どう体験するかが大事であり、「ああ、あの銀河鉄道ね」と頭にあるものをなぞって安心させて喜ばせるようなものは、神話的体験にならない。

 小池さんの舞台では、銀河鉄道に乗って宇宙の果てをめざしながら、その旅の途中、タイムトリップして太古の地球の世界を通過する。6000万年以上前の恐竜の世界も、数万年前の人類誕生、もしかしたら数百年前のどこかの村が、ひとつながりになる。さらに、死後の世界も通り抜けていく。

 もちろんそれらの世界は事実ではなく、イリュージョンだ。しかし、夢が現実なのか現実が夢なのか、いったい誰が確定できるのか。

 それよりも大事なことは、宇宙の果てとか地球の歴史とかに関する科学的事実を知ることより、肉体の束縛が、消えていく感覚。

 けっきょく、頭で色々なことを知っても、限界ある肉体の呪縛から自由になれなければ、人間にとって救いはない。

 肉体の呪縛から自由になるということは、魂の世界に重点がいくということで、救いは、そこにあり、神話は、その回路へと導く舞台装置。

 小池さんの舞台は、神話の謎どきではなく、舞台それ自体が神話になる。

 具体的な事実を伝えるのではなく、現実を超えたもののリアリティの体験が小池さんの舞台にはあるのだが、この体験を、アニメーションで表現するのではなく、肉体という制限のある媒介を通じて表出するところに、小池さんならではのクリエイティビティががある。肉体は、アニメーションのように、想像のまま動かすことはできないから。 

 小池さんは、その人間の肉体を振り出しに戻すところから、物語を編んでいく。小池さんの舞台の特徴とも言える猿のような身体の動きとか、発声。小池さんは、人間という枠が定まってしまっていない状態から、人間世界を作り直そうとするのだ。

 人間は、自分の目で世界を見て、世界のことを考えて、わかったつもりになっている。

 しかし、その視点や思考は、人間世界の中で積み重ねられてきた慣習に大きな影響を受けて歪められている。

 それぞれの時代社会において特定のものの見方や捉え方に、私たちの目や思考は、支配されているのだけれど、そのことに自覚的な人は、あまりいない。

 実は、その支配が、人間を不自由に、不幸にする原因になっていることが多い。

 もっとも卑小なケースは、「お金持ちの人と結婚すれば幸福になれる」とか、肩書きで人を判断するようなことも、その一つだ。

 そもそも幸福の概念じたいが、特定のものの見方や捉え方に支配された結果。

 最近、少しずつ次の「Sacred world 日本の古層」を整え始めていて、その中でニライカナイのこと考えていたのだけれど、ニライカナイを定義づけても意味がない。

 事実を確定させるのではなく、魂がやってきて、魂が還っていくところを、昔の人は、ニライカナイという世界観で捉えていて、もちろんそれもまた、科学優先のこの時代からすれば迷信に支配された思考なのだけれど、逆の立場からすれば、科学という迷信に支配されたのが現代人でもある。

 どちらがどうだという議論ではなく、思考をいったん振り出しに戻すところから始めればいいのではないか。

 小池さんは、どの舞台でもそのスタンスは一貫していて、肉体の動きと音と色を混ぜ合わせて、混沌の中の統合的宇宙を、そして、無秩序に見えるもののなかに隠れた、秘密の秩序を示そうとしている。頭でわかるではなく、身体でそれを感じられるように。

 私が、今回、制作した「The Creation 生命の曼荼羅」にも通じるところがあると私は思う。

 現代もまた、銀河鉄道の旅の途中なのだ。

 

 

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