第1215回 歴史を再認識する必要性

私は、20歳の頃から世界の70カ国以上を訪れ、特に重要な古代遺跡とされるものは、そのほとんどを訪れてきました。子供の頃から、「謎の古代文明」に強く関心があったからです。

 古代文明の地を実際に訪れると、人類の歴史は、階段を登るようにステップアップしてきているわけではないと感じます。

 数千年前に、現代の技術でも簡単ではないことが成し遂げられています。

 そして、様々な地域を訪れることで実感したことは、文明や文化は一つの地域で完結しているわけではなく、古代からかなり広範囲の交流があり、互いに影響を受け合っていたということです。

 また、その交流ネットワークと宗教の関係も重要です。宗教は単に救いのためだけでなく、遠方の人々と情報を共有したり交易を行ううえで、互いの同胞意識を高める力があり、そのための改宗も行われました。

 紀元前以前、シルクロードの隊商都市は、ペルシャ系などアーリア人が担っていたであろうことは、楼蘭の美女の目鼻の整った顔立ちから想像できます。楼蘭の美女のミイラは、纏っていた衣服の炭素年代測定によって4000年ほど前のものと考えられています。

 その後、約2000年ほど前、ガンダーラ美術が盛んに作られた頃、仏教徒であることが東西交易において優位となりました。地方の豪族も、仏教徒の交易人が町に立ち寄ってお金を落としてくれるように仏教を奨励し、積極的にストゥーパや寺院を建立しました。

 約1000年前には、イスラーム教徒になれば戦争を避けられ、かつ商売を優遇されるという理由で、イスラーム教徒が、シルクロードの交易を担うようになりました。

 そのように、宗教と、各地域を結ぶネットワークは、切り離せないものです。

 日本の古代においても、こうしたことを考慮して探求する必要がありますが、実情はそうなっていません。

 歴史認識を改めるために、まず第一に、日本においても、古い時代の方が劣っていたわけではないことを再確認する必要があります。

 1400年前に作られた法隆寺は、現代の建築家が作るものより劣っているのでしょうか?

 よく知られた話では、刀を作る技術は平安末期から鎌倉時代が最高峰で、後の時代は劣化しています。

 また、川端康成は、こんなことを言っています。

「日本の物語文学は「源氏」に高まって、それで極まりです。

 軍記文学は「平家物語」に高まって、それで極まりです。

 浮世草紙は井原西鶴に高まって、それで極まりです。

 俳諧松尾芭蕉に高まって、それで極まりです。

 また、水墨画雪舟に高まって、それで極まりです。

 宗達光琳派の絵は俵屋宗達尾形光琳に、あるいは宗達一人に高まって、それで極まりです。

 それらの追随者、模倣者、亜流ではなくても、後継者、後来者は、生まれても生まれなくても、いてもいなてもよかったようなものではないでしょうか。」

 過去を知るうえで、これまで考古学による実証的研究が重視され、歴史学の権威的立場になっています。

 しかし、考古学的実証だけに重きを置く問題もあります。新たに重大な証拠が発見されると、すべてを書き換える必要が出てくるのです。

 たとえば、ほんの最近まで、日本で最も古い鉱山は、奈良時代に入ってからのものしか発見されていませんでした。

 したがって、飛鳥時代ヤマト王権の時代も卑弥呼の時代も、日本は鉄をはじめ自前の鉱物資源を得ることはできず、輸入に頼り、それを加工することだけにとどまっていたというのが通説でした(今もなお)。

 しかし、各地の遺跡や古墳から、膨大な金属製品が次々と出土しています。それらは全て輸入によるものなのか?という疑問が生じても、学会の掟では、証拠が発見されるまでは何も言えません。

 ところが2019年、辰砂の採掘跡とされる徳島県阿南市の若杉山遺跡で、弥生時代後期(1~3世紀)とみられる土器片がみつかりました。この時期にすでに採掘が始まっていたとみられ、国内最古の鉱山遺跡となる可能性が高まったのです。

 辰砂というのは硫化水銀のことで、朱色の原料となるほか、古代、船などの防腐剤としても使われていますが、金の精錬やメッキにおいても欠かせないものです。

 この辰砂の鉱山が、弥生時代に遡るということで、日本の鉱山の歴史が500年も遡ることとなりました。

 しかもこの500年は、日本史において空白の時代と呼ばれる謎の多い時代でありながら、現代の日本という国の制度や文化の基礎が整えられていった重要な時代なのです。

 この重要な時代において、日本が自前の鉱物資源を得ていたか、それとも輸入に頼っていたかというのは、非常に大きな問題になります。

 なぜなら、輸入だけに頼っていたとなれば、大陸との接点にあたる地域の重みが増しますし、自前の鉱山があったということになれば、鉱物資源がある地域の重みが増します。

 そのように考古学的実証は、新たな発見によって従来の説が絶えず更新されていく定めにありますが、それに対して、古代から現在まで変わらないものがあります。それは、地理上の痕跡です。

 日本という国は、湿潤な風土のため、古代の歴史建造物などは朽ちやすいし、森林に覆われているので発見しずらい。そのため、考古学的発見には限界があります。

 一方、古代から何かしら伝承のあるところには、今でも神社が鎮座しており、時代を超えて大切に祀られています。小さな祠にすぎないものもあり、見た目は貧弱で観光客は訪れませんが、”その場所でなんらかの神さまが祀られている”というのが、歴史を解く鍵です。上に述べたように、宗教と人々のネットワークは、切り離せない関係にあるからです。

 そして、古墳もまた、後からやってきた権力者が、それ以前の権力者の古墳を破壊するということを行っていないため、日本には、およそ16万基もの古墳が残っています。

 神社などにおいても、本殿の立派な建物は、後の時代の権力者の建てたものが大半ですが、裏にまわれば、ひっそりと摂社や末社があり、実は、それらの神様が、古来からの神様であることが多い。

 後からやってきた権力者が以前の権力者や神様に対して配慮するというマインドが古代の日本人にはあったようで、神社が統廃合されて消滅させられたり、住宅開発によって古墳が壊されることは、明治以降に著しいものとなりました。

 昔の日本人が、それ以前の聖域に配慮したのは、祟りを恐れてのことだと思われますが、そのおかげで、考古学的発見に頼るだけでは得られない古代の情報にアクセスする可能性が残されています。

 今では小さな祠にすぎないものが、地理的に他の重要な聖域と結ばれているという事実を発見する時、その関係性の糸によって、古代の新たな姿が浮かび上がるということがあります。

 そして、気になって少し調べると、その小さな祠は、数百年前までは巨大な聖域であったが戦乱や地震などで破壊されて再興されていないという事実に行き当たります。

 考古学分野と、古代文献分野のこれまでの功績は素晴らしく、論文として発表されているものは、今では、インターネットで簡単に確認することもできます。

 しかし、その分野の中だけで議論をしていても、歴史のほんの一部しかわかりません。

 それらを統合していく新たな視点が必要だと思います。

 ということを踏まえて、2月27日(日)午後3時から、IMPACT HUB京都において、映像&トークを行います。

 全体を貫くテーマは、「日本人とは何か? われわれは、どこから来て、どこへ行くのか?」ということになりますが、その第1回の内容は「京都に秘められた古代の記憶」となります。

 イベントの詳しい内容、お申し込みは、

 こちらのサイトをご覧いただければ幸いです。

kyoto.impacthub.net