飛鳥時代の女帝・斉明天皇と、娘の間人皇女の陵とされる牽牛子塚古墳。2018年1月からかつての姿を蘇らせるために工事が行われていたが、ついに完成し、3月6日から一般公開されたので、さっそく訪れてきた。
この古墳は全国に14基ほどしか発見されていない八角形の古墳。そのうち半分は、天武天皇の血縁関係者の古墳だ。
ただ、宮内庁は、これを斉明天皇の古墳と認めておらず、そのため発掘調査が可能になり、ほぼ斉明天皇の陵で間違いないということになっている。それでも、宮内庁は認めない。
その理由は、日本書紀では、斉明天皇の息子、天智天皇の言葉で、民に負担をかけないために大規模な工事を行わなかったと記録されているのだけれど、この古墳は膨大な石材が使われており、それらを運ぶだけでも1,400人もの人員が必要だったと推定できるから。
しかし、斉明天皇の古墳は699年に修造されたという記録が続日本記に残っており、この大規模で美しい八角形は、その時に整えられたのだと思う。
なぜなら八角形の古墳は、道教を重視した天武天皇の時代に作られたはずであり、儒教を重んじた中大兄皇子が、最初にこの古墳を作った時は、八角形でなかった可能性が高いからだ。
まあ、それはともかく、こちらが斉明天皇の本当の古墳だとなると、今、宮内庁が、斉明天皇の古墳だとしている車木ケンノウ古墳は、誰の古墳なんだ、という新たな謎が増える。
そして、この牽牛子塚古墳の近く、飛鳥駅の隣に岩屋山古墳があり、こちらも斉明天皇の古墳候補だった。この古墳の石室も立派で、硬く巨大な花崗岩が、大阪城の城壁のようにまっすぐに切りそろえられており、作るために相当な労力が必要だったと思われるが、ここも斉明天皇陵でないとすると、誰の古墳なんだということになる。
全国にある天皇や皇后の古墳は調査ができない。そこが一番残念なところで、もし調査ができれば、古代の謎のパズルは、もう少し解きやすくなると思う。
そして、宮内庁が天皇陵だと認めていないゆえに発掘調査が可能になって大発見があったケースもある。大阪府高槻市の今城塚古墳(第26代継体天皇陵)などがそうで、阿蘇のピンク石の石棺が出土して、なぜ、わざわざ九州から運んだのかと、また新たな謎が生まれた。
この牽牛子塚古墳も、宮内庁が天皇陵だと認めないからこそ調査できて、その結果、この近くの益田の岩舟という謎の石造建造物の謎が解けた。益田岩船は、牽牛子塚古墳の石棺と同じ構造だったので、石棺を作ろうとしたものの何らかの理由で途中で放棄されたものだとわかったのだ。
それまで益田の岩舟は、古代の謎であり、松本清張などは、ゾロアスターの祭壇だという説を主張していた。
Sacred world 日本の古層をめぐる旅 ピイホールカメラで撮った古代の聖