飛鳥の牽牛子塚古墳を訪れた後、天理にある第26代継体天皇の皇后、手白香皇后の西山塚古墳を訪れた。
しかし、宮内庁は、すぐ近くにある全長230mの巨大な西殿塚古墳を手白香皇后の古墳だとし、陵墓の静安と尊厳の保持のため管理の対象としている。
考古学的な調査で、この西殿塚古墳は、手白香皇后が生きた6世紀より200年ほど古いことがわかっており、すぐそばの西山塚古墳の方が手白香皇后の時代に合致していると研究者は判断している。
また、継体天皇の古墳とされる今城塚古墳の全長が190mなのに、その皇后の陵墓だと宮内庁が治定する西殿塚古墳の方は230mで、天皇墳より巨大であり、その不自然さについて、宮内庁は、なんとも思わないのだろうか。
これについて宮内庁は、考古学調査で継体天皇陵の可能性が高まった今城塚古墳の西にある太田茶臼山古墳(全長226m)を継体天皇陵だとしているのだが、この古墳は調査によれば5世紀中旬のものであり、継体天皇が生きた時代(6世紀以降)より古い。
いろいろと矛盾があっても、宮内庁は、一度決めたものは、なかなか変更しない
そして、さらにややこしいことに、全長230mの巨大な西殿塚古墳が、3世紀後半から4世紀前半の古墳だとわかってくると、近くに箸墓古墳があることもあって、箸墓古墳が以前に卑弥呼の古墳と騒がれたものだから、この西殿塚古墳は、卑弥呼の後継者のトヨの墓ではないかという新説も出てきた。
そもそも前提の説の段階から矛盾がいっぱいだから、その矛盾を取り繕うために出てくる説が、さらに輪をかけておかしいものになっていく。
箸墓古墳(全長278m)が卑弥呼の古墳だと騒がれたのは、三輪山の麓、纏向遺跡など初期ヤマト王権のものとされる遺跡の傍に建造された古墳の中で、古くて巨大だから、邪馬台国(畿内説)の女王にふさわしい古墳ということになってしまった。
しかし、卑弥呼の時代は弥生時代の後半で、大古墳時代にまだ完全に移行していない。
箸墓古墳も、当初は3世紀中旬から後半という説もあったが、今では4世紀中旬以降ではないかと考えられているので卑弥呼の時代より100年ほど新しい。
いずれにしろ、箸墓古墳が卑弥呼の古墳だという説が出てきたのは、戦前であり、考古学的な成果もろくになかった時代だ。
そして次に卑弥呼の古墳ではないかと騒がれたのが、木津川の椿井大塚山古墳。1953年、国鉄奈良線の拡幅工事の際に竪穴式石室が偶然発見され、当時最多の三角縁神獣鏡32面が出土した。
この古墳は、全長175mで箸墓古墳より小さいが、3世紀後半の建造で、卑弥呼の時代にも近い時期の前方後円墳。
魏志倭人伝に、卑弥呼が魏から100枚の鏡を賜ったという記録があるため、この椿井大塚山古墳の三角縁神獣鏡こそが卑弥呼の鏡だと騒がれることになった。そして、三角縁神獣鏡は日本各地の初期古墳から少しずつ出土しているので、卑弥呼が、魏から授かった鏡を各地域の豪族に配り、同盟関係を結んだという説になった。
しかし、三角縁神獣鏡は、その後も各地で次々と見つかり、合計100枚を軽く超えてしまった。さらに、このタイプの鏡は、中国本土から発見されなかった。つまり、日本のオリジナルではないかということになった。
その大半の三角縁神獣鏡には年号が入っていないのだが、239年とか240年の年号がわかる鏡も出土した。これは、卑弥呼が魏から鏡を賜った年代と同時期なので、この鏡がそれかもしれないなどと人々をミスリードして鏡を展示している博物館もある。
卑弥呼が鏡を賜ったのは238年であり、同時期かどうかが重要なのではなく、この年より前か後かが重要だ。238年より後の鏡だということになると、卑弥呼が賜ったものでないということは子供でもわかる。しかし、博物館の説明は、この238年を明記しておらず、矛盾をごまかし、人々を欺いている。どうせ、歴史のことは誰もよくわからんだろうという開き直った態度で。
そして、椿井大塚山古墳が卑弥呼の古墳という説が完全に崩れ去ったのは、1997年、天理の黒塚古墳から33枚もの三角縁神獣鏡が出土したからだ。
この黒塚古墳は、手白香皇后の古墳のそば、柳本古墳群のなかにある。
三輪山からこのあたりにかけて、山の辺の道という人気スポットで多くのハイカーが訪れるが、この地域に初期ヤマトの大古墳群が無数にある。
そのなかで、この黒塚古墳が一番最初に作られたのではないかと考えられている。
箸墓古墳、椿井大塚山古墳、黒塚古墳は、大きさは違うけれど、形は、ほぼ相似形。京都の向日山の五塚原古墳も同じ。
いずれにしろ、黒塚古墳からも大量の三角縁神獣鏡が出土したので、この鏡は卑弥呼の鏡ではないと、はっきりとした。
しかし、これだけ大量に出てきて、しかも同じ鋳型から作られた鏡が日本各地の古墳から発見されているので、この鏡を使った地域間の交流があったことは確かだろう。三角縁神獣鏡は、卑弥呼の鏡ではないが、ヤマト王権の拡大と関わっている可能性は否定できない。
日本国内で発見された鏡のうち、卑弥呼の鏡だと明確に主張できる権利のある鏡は、2、3枚しかない。
それは、238年よりも古い年号が銘記されている鏡で、そのうちの一つが、大阪府高槻市の安満宮山古墳から出土した青龍三年(235年)と銘記された鏡。
京丹後の峰山の大田南5号墳からも、青龍三年(235年)と銘記された鏡が出土した。
その次に古いのが、赤烏元年(238年)と銘記された鳥居原狐塚古墳(とりいばらきつねづかこふん)で、これは甲府盆地の南縁にある。
この三箇所を私は訪れたが、同じ青龍三年(235年)の高槻と京丹後の関係は想像できるものの、甲府との関係は読み取れない。
大阪府高槻市の安満宮山古墳周辺は、畿内で一番最初に稲作が始まった地域で、とてつもなく巨大な弥生集落の痕跡がある。
そして、京丹後の大田南5号墳の周辺の峰山地域には、弥生時代のハイテク都市とされる扇谷遺跡などがある。
高槻も京丹後の峰山も、弥生時代後半の最先端地域であり、その両方の地で、卑弥呼が生きた時代の鏡が出土しているのだ。
さて、ここまで回り道をして説明してきたけれど、本題はここからだ。
第26代継体天皇の即位については、第25代武烈天皇が子供を持たずに亡くなったので、急遽、福井から近江にかけての豪族が、天皇に担ぎ上げられたことはよく知られている。
つまり、今の天皇陛下の血を遡っていくと、もっとも古いのが継体天皇で、その前の天皇とは血統的には断絶しており、万世一系とは言えず、それは朝廷も認識している。
そして、福井から近江にかけて勢力を誇っていた継体天皇が、ヤマトの王権とつながるために娶ったのが、第24代仁賢天皇の娘の手白香皇后であり、二人のあいだには、欽明天皇が生まれた。
継体天皇が埋葬された陵は、上に述べた青龍三年(235年)の鏡が出土した大阪府高槻の地に建造された今城塚古墳だ。
今城塚古墳
そして、皇后の手白香皇后の陵は、天理の西山塚古墳で、上に述べた33枚の三角縁神獣鏡が出土した黒塚古墳のそばである。
宮内庁は、文章記録などによって、継体天皇と手白香皇后の古墳を治定しているので、地域的には間違っていないのだが、その地域で一番立派な古墳を二人の古墳としてしまったから、考古学的に矛盾したことになっている。
継体天皇の時代は、古墳時代の後期であり、それほど立派な古墳が作られていた時代ではない。宮内庁が治定した古墳の近くにある、外見的に少し劣った古墳の方が、考古学的に正しいのだ。
それはともかく、手白香皇后と継体天皇が夫婦なのに、なぜ高槻と天理という離れた場所に埋葬されているのかは学会でも謎だった。
これを解く鍵が、手白香皇后の父親の第24代仁賢天皇の古墳だ。この古墳は、藤井寺の古市古墳群のなかに築かれた埴生坂本陵、通称ボケ山古墳とされる。
この周辺は、応神天皇陵など、主に5世紀前半から中旬の超巨大古墳が集中する地域である。
仁賢天皇は、それよりも後の時代の人なので、このボケ山古墳は、古市古墳群で最も新しい。仁賢天皇は、この地で活動していたわけではないので、あえて、この超巨大古墳群の中に、彼の古墳が築かれたということになる。
そして、このボケ山古墳というのは、奈良盆地の西端だが、この真東のところ(北緯34.56度)に、天理の黒塚古墳(手白香皇后の古墳の近く)がある。そして、ボケ山古墳の真北(東経135.59度)が、継体天皇の今城塚古墳なのだ。
この三箇所は、ドンピシャで、東西、南北の関係である。
継体天皇に関係するこの三箇所の古墳は、規則的な線で結ばれて配置され、それは計画的なものであることは間違いない。
これらは、卑弥呼の時代の鏡が出土した高槻と、初期大和王権が築かれた場所で33枚の三角神獣鏡が出土した黒塚古墳の場所と、5世紀前半、超巨大な古墳群が築かれた場所(河内王朝と呼ばれる)であり、継体天皇、手白香皇后、仁賢天皇の古墳が、この三箇所を結んでいる。
継体天皇というのは、突然、天皇に即位することになった人であり、それは彼自身の野心とか望みによってではなく、当時の有力者たちの意思によるもので、背景には朝鮮半島の情勢変化があった。
朝鮮半島において、新羅は、5世紀初期の頃までは北の大国、高句麗の属国にすぎなかったが、5世紀後半から国力を増し、継体天皇が即位(507)した頃には、国号を正式に新羅とし、王という称号を用いるようになった。
日本も、この新羅に対抗するため、統一的な国になる必要があり、奈良盆地の中の世襲的な王の枠組みを超えた存在が必要になり、それが継体天皇だった。
継体天皇は、即位してから19年間、ヤマトの地に宮を築かず、山城国周辺に三箇所、宮を築いて活動した。
この理由について、継体天皇がヤマトの豪族を警戒していたからだと専門家は説明するが、たぶんその程度の理由ではなく、継体天皇は、新羅と対抗するための準備を行なっていたのだ。
というのは、日本書紀によると、継体天皇が、ようやくヤマトの地に宮を築いてすぐ、527年6月3日、近江の豪族の近江毛野が、6万人もの兵を率いて、新羅に奪われた南加羅・喙己呑を回復するため、(朝鮮半島の)任那へ向かって出発した。
この計画を知った新羅は、(九州北部の)筑紫の有力者であった磐井とつながり、大和朝廷軍の進軍を妨害しようとした。
磐井は挙兵し、火の国(肥前国・肥後国)と豊の国(豊前国・豊後国)を制圧するとともに、日本と朝鮮半島とを結ぶ海路を封鎖した。
これが古代最大の反乱とされる磐井の乱(528)だが、磐井という人物は、かつて、新羅討伐軍の将であった近江毛野と、ヤマトの官僚時代に親交があったと記録されている。
ゆえに、磐井の乱は、一般的に認識されているような、ヤマト王権に対する九州北部の反乱というよりは、新羅の力を背後にした磐井と、ヤマト王権の戦いととらえ直した方が理解しやすい。
奈良時代、聖武天皇が、この乱を恐れて、平城京を離れ、あちこちを彷徨い、最終的に恭仁京に遷都したのも、遠く離れた九州で左遷された藤原広嗣が反乱を起こしたという小さな問題ではなく、その征伐のために16,000人もの兵士を投入せざるを得なかったように、背後には新羅の存在があった。
藤原広嗣の乱の時、新羅は唐と連合し、北方の渤海に対抗しており、渤海と関係を深めていた日本の橘諸兄政権を敵視するようになっていたのだ。
663年の白村江の戦いの前も同じで、新羅と唐は、高句麗という共通の敵のために同盟し、そのことが日本の脅威となり、日本はそれに備える統一国家を作ろうとして、大化改新が行われていた。このように外の脅威に備えて国をまとめようとする動きは、明治維新の場合も同じだ。
外に手強い敵が現れた時、内のまとまりが必要になる。継体天皇の時代においても同じだが、考察すべき大事なポイントは、そのまとまり方だ。
継体天皇について語る時、もう一つの大きな謎が、この王の棺が阿蘇のピンク石で作られていることだ。
阿蘇のピンク石は、熊本の有明海の宇土という石切場から運ばれてきたことがわかっており、なぜ、わざわざ九州の石材を畿内まで運んできたのかが謎とされている。
このピンク石の石棺について、継体天皇の古墳のことばかりが話題になるが、実は、他の古墳でも発見されている。しかし、不思議なことに、なぜか継体天皇の時代に集中している。
しかも、奈良盆地を囲むように、橿原市、桜井市、天理市、奈良市、藤井寺市、そして、近江の三上山の麓に築かれた古墳の石棺に使われており、他の地域では吉備の一箇所を除いて存在しない。
これらの地は、当時の有力豪族の拠点であり、桜井市は阿部氏、天理市は物部氏、奈良市は中臣氏、藤井寺は大伴氏、近江の三上山は和邇氏である。(しかも、三上山のピンク石の石棺のあるところは、日本最大の銅鐸が出土した銅鐸集中地帯でもある。)
唯一、橿原市の植山古墳が、この時代より100年後の推古天皇とその息子の竹田皇子の合葬墓であったとされる。
黒いポイント:高槻が第26代継体天皇陵の今城塚古墳。藤井寺が、継体天皇の皇后の手白香皇后の父、第24代仁賢天皇のボケ山古墳。この二箇所は、東経135.59度。そして、黒いマークの天理のところが、三角縁神獣鏡が33面出土した黒塚古墳(北緯34.56で藤井寺のボケ山古墳と同じ)で、この近くに、手白香皇后の西山塚古墳がある。赤いマークは、阿蘇のピンク石を使った石棺の古墳。黒いマークの高崎の今城塚古墳もそう。あと、地図には入っていないが、近江の三上山の麓に二つ(ここは日本最大の銅鐸の出土地)。高槻の青いマークは、青龍三年(235年)の鏡が出土した安満宮山古墳。238年に卑弥呼が魏から賜った100枚の鏡だと主張できる三つほどしか発見されていない238年以前の年号が入った鏡の一つ。
いずれにしろ、阿蘇のピンク石の石棺は、継体天皇の時代から飛鳥時代にかけて、日本が一まとまりになっていく時代に作られている。
それにくわえて、上に述べたように、継体天皇と手白皇后と、その父の仁賢天皇の古墳が、邪馬台国の時代(3世紀前半)、初期ヤマト王権の時代(4世紀前半)、河内朝といわれる盛期ヤマト王権(5世紀前半)の時代の拠点を、規則的に結んでいることを考え合わせると、後期ヤマト王権の時代(6世紀前半)に該当する継体朝は、日本の王統の古代からの足跡をつなぐことで、王としての正当性を獲得しようとしたのではないかと思われる。血統よりも大事なことは、この国の王としての役割なのだと歴史に刻むように。
だとすると、これは想像でしかないが、阿蘇のピンク石をわざわざ運んできた理由は、阿蘇が、中国の文献に残る邪馬台国と関係があったからではないかと思う。
もちろん、その時代、発達していたのは九州だけでない。奈良も山城も近江も丹後も四国も、そして東国も、すべての地域において、その痕跡がある。
しかし、重要なことは、中国本土と直接の交流を行なっていたのはどこかという問題だ。中国の使者は九州までやってきて、それ以上、東に向かう理由がなければ、その記録は、九州のものとなるだろう。
そして、邪馬台国にかぎらず、たとえば新潟のヒスイが北九州から出てきているように、縄文の時代から、日本全土にわたるネットワークがあり、邪馬台国というのは、そのネットワークじたいを指す可能性もある。
ただ、いずれにしろ、継体天皇の時代は、卑弥呼の時代から300年ほどしか経っていないわけであり、当時の人間は、中国の書に記録された邪馬台国がどこかは知っていただろう。
自らを過去とつなぐために、文章として記録があるところを重視するのは自然なことだ。
継体天皇一人の意思というより、当時の日本を運営する豪族たちの意思として、それを行なった。だから、彼らの古墳もまた、阿蘇のピンク石の石棺なのだと思う。
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