第1229回 思考停止の正義よりも大事な自らの眼差し

 河瀬直美氏の東大入学式での祝辞に噛み付いている人々の意見って、テレビの芸能人コメンテーターの意見とさほど大きな違いがあるわけでなく、東大生にとって、とくに頭を使って考えさせられるような内容ではない。

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 河瀬直美氏の言葉の真意は、そうした思考停止状態の危険性を遠回しに説いているのであって、東大生という社会で最も優秀であるかのように位置付けられている人たちに向けての祝辞としては、彼女なりに考えたうえでのことだったのだと思う。

令和4年度東京大学学部入学式 祝辞(映画作家 河瀨 直美 様) | 東京大学

 河瀬氏が語った「小さくても自らのまなざしを獲得すること」は、自分に向けられた課題でもあるし、小さくても自らのまなざしで生きている人への敬意を育むことでもある。学者の中には、自らの眼差しの大切さよりも、正しいとされやすい側についておけば保身が保たれると計算しがちな人が多い。

 自らの眼差しの大切さよりも、正しいとされやすい側についておけば保身が保たれると計算しがちな人は、河瀬直美氏の言葉の一部を恣意的に切り取って、真意を曲げて噛み付くという論法で、自分の正当性を強化する。こういう人たちの方が、いざという時に信用できないし、束になった時に怖い。

 ただSNSで河瀬氏が述べているようなことを発信するだけでも、その一部を切り取って文脈無視の思考停止の正義を振りかざして噛み付いてくる人も大勢いる社会において、それを承知で、こうした言うに言われぬ領域のことを、なんらかの形でアウトプットしていくのが、表現者であり、本来は学者もまたそうあるべきなのだ。

 しかし、河瀬直美発言に噛み付いている学者たちのように、学者が、正しいことと間違っていることを見極める専門家のように勘違いしている人たちが多い。

 日本の学校教育における査定がそうなっており、大学教師は、教育界の一員にすぎないからだ。

 だから、この種の学者の発信する言葉を聞いても、脳が刺激されたり触発されたり、考えさせられたりすることが、ほとんどない。

 そして、学者も、自分の発信するものが、いいね! そうだね!と多くの人に同意されるかどうかを競うだけの存在になる。

 脳が動いていないから、いいね!とか、そうだね!と簡単に反応しているだけなのに。

 河瀬直美氏の祝辞を聞いた東大生は、そのメッセージに対して、いいね!とか そうだね!と、簡単に反応できないだろう。

 自分の想像の範囲の言葉であれば、そう反応できるのだが、メディアを含め、想像の範囲を狭めてしまう言論が溢れかえっている状況のなかで、河瀬直美氏の言葉を耳にして、「ああ、私の思っていたとおり」と感じた若者は少なかったはず。

 脳を刺激し、動かす言葉というものは、そのように、簡単に、いいね! そうだね!と同意できないものだ。自分の脳で動いていなかったところが刺激されて、もごもごと何か考えさせられるようなものとなる。そうした脳の深いところの刺激と触発が、学問や表現活動の本質であるはずだ。

 こうした思考の発動がなければ、脳のなかで動いている領域は知らず知らず狭まっていく。そうなると、河瀬直美氏の言葉の文脈など伝わらず、「何を言いたいのかよくわからない」とか、「どっちもどっちの相対論にすぎない」とか、文学的な機微の失われた判断しかできなくなる。

 そういう人は、話を聞いてもツイッターの発信内容を見ても、味も深みもない。

 もしも、河瀬直美氏が、これらの学者レベルのことを東大入学式の祝辞で述べていたら、彼女の映画を見たいなどと思わない。だって、映画を見る前から、彼女がどんな映画を作るか内容が透けてみえてしまう。

 その人が信用できるかどうかの判断は、言っていることの正誤よりも、その内容の深さによる。

 

 

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