第1231回 一元化の思考を知の巨人と持ち上げる知の衰退

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 ユヴァル・ノア・ハラリ氏のことを、現代における「知の巨人」と持ち上げる論調が多いのだけれど、ベストセラーになっている彼の「サピエンス全史」にしても、とくに新しい視点はなくて、他の誰かが書いているようなことを(膨大なウィキペディアの情報も含めて)、整理して装飾的に語っているだけのようにしか思えず、目が開かれるようなことが書かれているわけではない。

 現在進行形のウクライナの問題に対する「緊急特別全文公開」においても、ウクライナのゼレンスキー大統領の全世界に向けたアピール声明としてなら、よく書けた原稿だと思うけれど、「知の巨人」と持ち上げるほどの特に深みのある言葉ではない。テレビのコメンテーターが口にする内容と、それほど大きな違いがあるわけではないし、社会の中で日々消費されている思考の一つでしかない。

 もちろん、現在進行形の戦争を止めるためのメッセージは切実に必要であるから、全員一丸となってロシアのプーチン大統領を糾弾し閉じ込めて押さえ込んでしまうという戦術として、使われているメッセージであるかもしれない。

「ドイツ政府は思い切って彼ら(ウクライナ)に対戦車ミサイルを供給し」という彼の言葉は、その象徴的なものだが、この種の言葉に、「知の巨人」という看板を添える事に対して、メディアは、もう少し慎重でなければいけないのではないか。

 メディアがそれほど期待できる存在でないことは誰もが認識していることなので、せめて読者は、ユヴァル・ノア・ハラリ氏の単純化されたメッセージの危険については用心深くあらねばならない。

 彼は、「ウクライナ人が正真正銘の民族」でありと書き、ウクライナ人を一つの民族として英雄物語の主人公に祭り上げているが、広大なウクライナの国土に住む多種多様な人々を、そんなに単純化してしまって大丈夫なのか?

 地理的にも、非常にデリケートな場所に位置しているウクライナは、単一民族国家ではない。 

 少し前にも書いたのだけれど、ユーゴスラビアは、チトー大統領が亡くなったとたん、あっという間に分裂してしまった。

 もちろん原因は色々あっただろうが、その後の内戦の状況から判断すると、国内の複雑な民族構成、宗教の違いなどの対立要因があった。

「チトーイズム」は、このユーゴスラビア国内の複雑な状況をどのようにまとめあげるかという深刻な課題に対応するもので、「緩やかな連邦制」と「非同盟主義」が重要な柱だった。

 多民族国家ユーゴの国家統合を維持するためには、東西両陣営のいずれにも属さず、いずれにも加担しない「積極的平和共存」を掲げて進んでいくしかなかったのだ。

 なぜなら、ユーゴ国内では、対外関係における選好順位は民族ごとに異なり、東方キリスト教の信者の多いセルビアなどは親ソ感情が強いし、カトリック教徒の多いクロアチアなどは西欧、ボスニアなどムスリム人は、イスラム圏の国々に親近感を持っていた。

 なので、海外のどこかの陣営に近寄ることは、国内の不平不満と分断につながりやすい。

 非同盟という戦略は、ユーゴスラビアの国内の秩序維持において重要で、少なくともチトー政権下では有効的に機能していた。

 そのうえで、社会主義国家でありながら、国家全体を一つのイデオロギーで染め上げるのではなく、穏やかな連邦制で、それぞれの主体性と自立を促し、締め付けを行わないようにしていた。

 企業の意思決定も、国家や党ではなく、その企業の労働者集団、あるいは労働者総体からの代表者集団が行なうというユニークな社会主義化によって、当時の共産圏の国々が陥っていた労働意欲の減退はなく、経済成長も果たしていた。

 こうした、当時の世界において他に類がなく前例もないオリジナルの政策は、知的ではない経済や政治の専門家などから、「欠点を見つけ出して批判する」という方法での批判を受けやすいが、チトー大統領の強大な求心力が、それら批判のための批判を圧倒した。

 もちろん、ユーゴスラビア国内の分断と対立は、チトーの死だけが原因ではなく、1980年代、ソ連イスラム圏などを中心に各地で高まっていった民族主義の波を受けたこともあるだろう。

 時代環境も変わっており、また国内情勢も様々であり、いつでもどこでも同じ方法が通用するとは言えない。

 しかし、明確に言えることは、時代が進むにつれて状況はより複雑になっている。にもかかわらず、かなり古いとしか思えない国家論を前面に押し出したユヴァル・ノア・ハラリ氏の論説に「知の巨人」の冠を与えるというのは、むしろ知の衰退現象としか思えない。

 ユヴァル・ノア・ハラリ氏がウクライナ問題において展開している言説は、西欧諸国による植民地から独立を目指して戦った民族の物語と、さほど大きな違いはない。

 彼の言葉の「ウクライナが新しいロシア帝国の下で暮らすのを断じて望んでいない」「一国を征服するのは簡単でも、支配し続けるのははるかに難しいのだ。」という言葉は、植民地からの独立を目指して戦ってきたアフリカなどの国々の歴史と重なる。

 植民地からの独立において、他国の力を借りた国が、その後、どういう状況に陥ったか、私たちは知っている。そして民族主義が、独立後にどのような対立を生み出したかも知っている。

 大国の汚さや、民族主義運動の危険な純粋さを知り尽くしていたチトーは、ナチスドイツに対するパルチザン活動においても、ソ連陣営や、イギリスやアメリカを安易に頼らなかったし、民族の垣根をなくすことを、思想的にも政策的にも重要視としていた。

 なので、本当の知の巨人ならば、そのチトーイズムから、時代の変化に応じたさらなる教訓を引き出して、新しく深い知恵を創造できるはずだ。

 ユヴァル・ノア・ハラリ氏のように、他人から得た情報をうまく整理する人は、テレビ界でも知的タレントとして重宝されているが、そうした情報整理は、ものごとをわかったつもりにさせることに役立つだけで、それは、情報を消化することにしかならない。

 本当に必要な知恵というのは、たぶんそういうことではない。

 時代は繰り返すと言うが、まったく同じ形で繰り返すわけではなく、常に新しい様相を孕んでいる。

 その新しい様相に応じた新しい思考の方法を提示する力こそが、本当の知恵だろう。

  ユヴァル・ノア・ハラリの文章と、これを知の巨人として持ち上げることへの一番の懸念が、その一元化の思考だ。

 国同士の対立に限らないが、すべての対立の根本に、この一元化の思考があるような気がしてならない。その一元化の思考は、硬直して偏狭になればイデオロギーになる。

 多様性尊重とか、ボーダレスといわれる新しい局面に入っている時代において、一元化に変わる新しい思考方法こそが求められるように思う。

 ウクライナのことに関しては、インターネットやSNSの普及によって、まさにボーダレスな状況で情報や考えを共有できるようになっているし、戦いの最中にある人々は、短時間のうちに、世界を味方にしたり敵にしたりすることになる。

 こういう新しい状況のなか、「ドイツ政府は思い切って彼ら(ウクライナ)に対戦車ミサイルを供給し」などという、問題解決の手段として強引に一元化された価値思考の普及は、その価値思考に違和感を持つ多様なものたちへの迫害の可能性を秘めている。

 多様性を尊重する世界ならば、緩やかな統合が求められるはずであり、一元化ではなく多面的で重層的な思考が必要だろう。

 ドイツをはじめ欧州各国がエネルギー資源の問題で、全面的にロシアを敵に出来ないという事情などは、現在の国際関係の複雑で新たな様相を示しており、それゆえに、一元化された性急な問題解決の方法がとれないわけだが、だからこそ、重層的な方法での問題解決の道を探るしかなく、前例のない思考は、そこからしか生まれない。

 ウクライナ対戦車ミサイルを供給することよりも有効的な方法はないのか?

 本当の知の巨人ならば、今、そのことを真剣に考えているのではないだろうか。

 

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