第1232回 折鶴を非難する人の偏狭 

 京都の家でテレビは見られないのだけれど、ネットニュースで流れてくる情報では、ウクライナの戦争に心を痛めている人が折鶴をウクライナ大使館に送ろうという活動に対して、現地の人が望んでいるものではないとか、自己満足だとか、だったらお金を送った方がよほど有難がられるなどと、テレビその他で非難する人がいるようだ。そういう非難は、実にくだらないことで、知的を装うその人たちの内面の浅さだけをさらけ出している。

 そもそも、ウクライナの戦争にかぎらず、ちっぽけな自分の力ではどうにもならないという事態は、人生において無数にある。そういう時、どういう手が役に立つかどうかという分別思考で対応できない場合、人は祈るしかない。祈りは、たとえ人のためであっても自分の心を鎮めるものでしかない場合が多いが、それでも祈らざるを得ない状況がある。

 もちろん、通りを歩いている時に呼び止められて、額に手をあてられ、あなたのためにお祈りしますとやられても迷惑なだけだけで、折鶴を非難する人は、それと同じものだという認識があるのだろう。

 しかし、今回話題になっている折り鶴は、直接、ウクライナの人に手渡わすというものではなく、ウクライナ大使館の人がどうするか判断するだけのこと。写真に撮って、日本人にとっての折鶴が何を意味するのか文章を添えてオンラインで伝えるだけでもいいこと。日本固有の文化の押し付けだなどと主張するレベルの低い批判もあるが、私は、苦しい状況に置かれている時、自分の価値観では計れないアフリカの伝統的文化にそった品物を届けられた場合、その意味を伝えられれば、少しは心が救われると思う。ウクライナの人のなかでも、そういう人が、ゼロとは言えないだろう。

 テレビニュースの影響なのかもしれないが、ウクライナの状況を画一的に捉えすぎている。全ての国土が戦火に覆われているわけではなく、ウクライナの人々の苦しみや悲しみも、様々であり、食物や着るものに困っていなくても、危険な状況にある肉親や友人のことを思って胸が塞がれるような思いで、日々を過ごしている人たちもいるだろう。

 また、紛争地で外に一歩も出られないような状況で暗澹たる気持ちで過ごすなかで、たとえば詩集を読んだり、画集や写真集を鑑賞することに何の意味があるのだ、それよりも食い物が必要だろ、と言い切るような人間は、あまりにも想像力が欠けている。人はパンのみに生きるにあらずだ。

 その種の非難をする人間は、文学や芸術作品に救われたという経験がないだけのことであり、その人たちのライフスタイルや人間関係が透けて見える。彼らにとって芸術も投資商品にすぎないのだろう。そうした狭い自分の感覚を、世の中のスタンダードであるべきだと勘違いしている人間が、テレビ世界の中で大きな顔ができるということなのだろうか。

 人がやっていることを、あれこれ分析したり非難することは誰でも簡単にできる。その種の非難は、同じようなタイプの大勢の人間に、いいね!と同意されるだけのことにすぎないし、その大勢の人間を、自分と同じだと安心させているだけのこと。

 安心できたところで、何もならない。それこそ、ウクライナの救いにも自分の本当の救いにもならず、ただ空虚さが膨れるのみ。

 お金や物質だけではどうにもならない現実に対して、人は、人それぞれの方法で、祈るしかない。どちらがいいとか悪いという分別ほど、祈りから遠ざかるものはない。

 

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