第1236回 将来の歴史の作用に耐える文化、社会、政治、国。

 白川静さんが95歳で亡くなって早くも16年になるが、その実感がまったく湧かない。

 白川さんは、数千年の時代を超えたところで生きておられた。その精神は、風の旅人を作り続けていた時も、 Sacred worldを作り続ける現在も、私にとって常に立ち返るべき重要なメルクマールになっている。

  Sacred world Vol.1の巻頭は、遊ぶものは神である。神のみが、遊ぶことができた。遊は絶対の自由と、ゆたかな創造の世界である。それは神の世界に外ならない。この神の世界にかかわるとき、人もともに遊ぶことができた。神とともにというよりも、神によりてというべきかも知れない。」という白川さんの言葉である。

 Sacred world Vol.2では、わが国の神話は多元的であり、複合的であるといわれている。それはさらに遡っていえば、わが国の民族と文化とが、多元的であり、複合的な成立をもつものであることを、意味していよう。」であり、本の中身も、これらの言葉が軸になっている。

  白川静さんのことを漢字学者とか、古代文字研究者だと思っている人が多い。「白川さんがいなかったら、その分野の研究は200年遅れていた」と、中国本土でさえ考えられているので、その肩書きは間違いではないが、当然ながら、その範疇に収まる人ではない。

 白川さんは、若い頃、万葉集の研究に打ち込むつもりだったが、万葉集は、万葉仮名で漢字が使われている、その漢字の本質を理解しなければ万葉集を創造した当時の日本人の精神も理解できない、そう判断して漢字の研究に打ち込んだ。しかし、漢字は、3500年前の甲骨文字まで遡らなければ、その真相を掴めない。

 結果として、白川さんは、古代人の精神世界に深く向き合わざるを得なくなった。

 そういう意味で、白川さんは、漢字学者というより、プラトンアリストテレスヘーゲルハイデッガーまで合わさったような人類的スケールの哲学者であり思想家である。そのことをわかっている人は数限られているが、小説家の保坂和志氏は、風の旅人の執筆依頼をした際、人類でもっとも尊敬する3人として、プラトンハイデッガー白川静さんの名前を挙げ、同時代に生きているだけでも光栄なのに、同じ誌面に自分の言葉を紡げるのは奇跡的なことだというようなことを言っていた。

 そして、このたび制作したSacred world Vol.3においては、 「われわれの責任というものは、ただ現在に生きるというだけではない。現在に生きることによって、将来の歴史の作用に耐える、歴史の美化に耐える、そういう文化、そういう社会、そういう政治、そういう国でなければならないと、私は思う。」

 という白川静さんの言葉を軸にさせていただいた。

 政治はともかく、学問であれ芸術表現であれ、ここまでの腹を決めて取り組んでいる人が、現代社会に、どれほどいるだろうか。

 今回のSacred world 日本の古層Vol.3   は、聖徳太子の時代に焦点を当てているのだが、西暦500年から西暦700年くらいのあいだに、その後の日本の精神文化の方向性を決定するメルクマールが整えられたと、私は思わざるを得ない。

 当時、中国においては隋から唐の時代なのだが、唐の時代は、中国歴史上、文化も政治も、最高レベルだったとされる。

 実際に博物館の展示物などを見ても、唐の時代のものは圧倒的だ。

 同時代の欧州は、395年にローマ帝国が東西に分裂し、ゲルマン人の南下によって西ローマ帝国が滅んだのが476年で、西暦1000年頃のロマネスク巡礼が始まるまでは、暗黒時代とされる状況だった。

 現在の欧州のルーツは、その暗黒時代にあるかもしれないが、ヨーロッパ文化は、西暦1000年以降、ロマネスク、ゴシック、ルネッサンスバロックと変遷してきたものの上に築かれていると考えていいだろう。(2000年以上前に遡るローマやギリシャがあるにしても)。

 日本においては、1500年前が、大きな分岐点になっている。当時、隣国の中国文化が頂点に達していたということもある。

 ただ興味深いのは、中国の場合、その後、北方の民族の度重なる侵攻が続いた。モンゴル人による元もそうだし、満州人による清王朝もそうだ。

 なので、現在の中国に、唐の時代の精神が脈々と伝わっていると明確に言えるかどうかはわからない。

 (欧州の場合も、西暦1000年以降、北方からノルマン人やバイキングが南下し、徹底的な破壊を何度も繰り返している)。

 日本の場合、島国で海に囲まれているということもあり、ユーラシア大陸の隅々まで侵攻して破壊を行なったモンゴル人の攻撃さえ防ぐことができて、この1500年間、そうした他国からの侵攻がなく、列島じたいがタイムカプセルのようになっていた。悲しいことに、それらが激しく損なわれていったのは、明治維新以降で、自国民によってである。

 この150年で見失われてしまったものは、とても多いし、精神的にも影響が大きい。

 その結果、社会にも様々な歪みは生じている。しかし、それらへの対応の多くは、明治維新以降に植えつけられた対症療法にすぎず、つまり付け焼き刃的だ。さらに、対症療法の価値観が浸透しているから、いわゆるハウツー、付け焼き刃的な言葉ばかり、追いかけるようになる。

 そうやって、同じところをグルグルと回り続けているので、視界はどんどん狭くなり、近視眼的になる。長い目で物事を考えるという感覚がわからなくなる。ただ現在に生きるだけで、「将来の歴史の作用に耐える、歴史の美化に耐える」など、自分とは関係のない世界のこと、ということになる。

 しかし、それでも、聖徳太子空海への信仰が、この国には根強く残っている。

 おそらく、意識の表面では、現在に生きるだけで精一杯だが、意識の深いところで、自分でも自覚できない何かの力によって、生かされているからだ。

 日本人は、生きているのではなく、何ものかの力によって生かされているという感覚を持つところがある。それが単に受身的になってしまうと、精神的に怠惰になるだけだが、自分のエゴに執着して結果的に身動き取れない生き方からの解放につながることもある。 

 太古の昔から日本列島に生きることとなった人間が、長い時間をかけて育んでいった心は、人間の理解を超えた世界を素直に受け入れ、身の程を知ることであり、この国の文化や宗教は、その死生観の上に築かれてきた。

 対立を調和に転換させる力が日本文化の中には秘められており、その復活は、日本だけでなく人類史的にも、鍵になっていると思う。

 

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