第1247回 諏訪に秘められた古代の謎

諏訪湖の朝日)

 諏訪のことは、まだよくわからない。諏訪のことがわかれば、日本古代の謎が、もう少し解けるかもしれない。

 謎の一つは、国譲りの神話のなかで、タケミカヅチに敗れたタケミナカタが諏訪の地を出ないことを条件に許されるのだが、そのことは、いったい何を意味しているのかがわからない?

 国譲りの神話は、日本の古代においてもたらされた新しい秩序のことであり、タケミカヅチの言葉でいえば、「力の強いものが全てを牛耳るウシハクの国から、情報知識を皆で共有するシラスの国への移行」ということ。

 だとすると、諏訪地方だけが、ウシハクのままでよいということだろうか? なぜだろうか? 一つ考えられるのは、農業地としての適正であり、諏訪を中心としたエリアは、農業以外の、つまり縄文時代から続く営みを、続けてもよいということだろうか?

 タケミナカタの母親は、ヒスイの女神、奴奈川姫だが、縄文時代、諏訪の北を流れる姫川流域のヒスイは、朝鮮半島、北海道、沖縄まで流通していた。

 だとすると、タケミナカタは縄文の何かを象徴しているとも考えられるが、諏訪に残る伝承では、タケミナカタは、この地に先住していた洩矢神を祀る人々にとって侵略者として位置付けられている。

諏訪湖から外に流れ出す川が、天竜川だが、そのほとりに、洩矢神社が鎮座する。諏訪地域に入ってきた勢力と先住の洩矢の勢力が衝突した場所とされる。)

 しかし、その後、諏訪の地は、タケミナカタの後衛が政治と祭祀の支配者となって世襲するが、その世継ぎは、ミシャクジ神の神おろしによって正当なものとなり、その神おろしは、洩矢の神職者によって行われる。

 つまり、タケミナカタの後裔は、古代から諏訪の地に伝えられてきたスピリットを引き継いでいくということになる。

 諏訪は、中央構造線という日本列島を南北に分断する大断層と、日本列島を東西に分断するフォッサマグナの西端の糸魚川・静岡構造線が交差する場所に位置し、大地の下にエネルギーが充満している。そして、この地に近い八ヶ岳で産出する黒曜石は、縄文時代、石器に加工されて日本各地に流通していた。

 諏訪大社は4つの社で構成されるが、諏訪湖の北の下社の春宮と秋宮の祭神は、八坂刀売神(やさかとめのかみ)で、この女神は、諏訪の北の安曇野の地と関わりが深い。

 本宮とされる上社の祭神がタケミナカタで、ここの本殿は、パビリオンのように諏訪4社の中で最も立派だ。

 しかし、肝心なのは、前宮である。ここが最も古く、かつては祭事の中心地でもあった。本来は洩矢氏の本拠地であったともされ、この場所で、上に述べた神おろしの即位儀礼が行われた。

諏訪大社 前宮。諏訪大社4社のなかで、もっとも古く、祭祀の中心だった。)

 前宮の現在の祭神は八坂刀売神だが、もともとはミシャクジ神だったという説もある。

 前宮の神域を流れる水眼川は、湧き水の源流から近く、昔からご神水として大切にされた。中世の頃まで、ここに精進屋を設けて心身を清め、前宮の重要神事をつとめるのに用いたと記録されている。

諏訪大社 前宮の神域を流れる水眼川。背後に見えるのが御柱。)

 前宮の鳥居から本殿までの中間点くらいのところ、水眼川の近くにケヤキの大木があるが、ここに御室社の小さな祠がある。中世までは、ここに半地下式の土室(つちむろ)が造られ、成人儀礼を行った現人神の大祝や、神長官以下の神官が参篭し、ミシャグジ神とともに「穴巣始」といって、冬ごもりをしていた場所だ。

 そして、この前宮でもっとも重要な聖域、それは諏訪の地でもっとも重要であるということになるが、それが鶏冠社(けいかんしゃ)で、御室社から西に100mほど歩いた民家の入り口にある。

左:前宮の神域にある御室社。ここに半地下式の土室(つちむろ)が造られ、成人儀礼を行った現人神の大祝や、神長官以下の神官が参篭し、ミシャグジ神とともに「穴巣始」といって、冬ごもりをしていた。

右:前宮の神域にある鶏冠社。諏訪の聖域でもっとも重要。タケミナカタの後裔とされるものが、大祝という現人神になる成人儀礼が、ここで行われていた。世継ぎとなる童が、この鶏冠社で、神が降りるという大きな石(要石)の上に立たされ、神長官による秘法が行われ、童にミシャクジ神がおろされた。それが、大祝の即位式だった。

 

 鶏冠は、楓の葉に似ているので、古くは、「かえでのやしろ」と呼ばれた。

 タケミナカタの後裔とされるものが、大祝という現人神になる成人儀礼が、ここで行われていた。世継ぎとなる童が、この鶏冠社で、神が降りるという大きな石(要石)の上に立たされ、神長官による秘法が行われ、童にミシャクジ神がおろされた。それが、大祝の即位式だった。

 ミシャクジが何かというのは、いろいろな議論があるが、諏訪は御柱で知られている。そして、御柱は、縄文時代の石棒に通じるものが感じられる。

 縄文時代は、石棒に神をおろしていたのかもしれない。

 実は、京都の向日山は、桓武天皇長岡京を築き、継体天皇が弟国宮を築いたところで、向日山の上には、弥生時代の遺跡と、3世紀後半という古い時代の前方後方墳である元稲荷古墳が築かれている。

 そして、ここに鎮座する向日神社の本殿を1.5倍の大きさにしたのが東京の明治神宮である。つまり、京都の向日山は、日本の古代から現在まで、秘められた歴史の謎を連綿とつないでいる場所なのだが、ここにも「鶏冠町」(現在は、かいでちょう)という地名があり、発掘調査で銅鐸の製造場所であったことがわかった。さらに、この向日山は、西日本では珍しい縄文時代の石棒の製造地であった痕跡も発見された。つまり、縄文と弥生の祭祀道具の製造場所だった。

 諏訪と京都の向日山は、ともに日本の古代が重層的に重なっているところであり、そこに鶏冠という名が残っている。鶏冠は、古墳の埴輪にもある。

 天の岩戸の神話では、アマテラス大神を外に引き出すために、常世の長鳴鶏(とこよのながなきどり)を岩戸の前で鳴かせた。

 夜明けを告げる鶏は、時代の曙とも通じる意味が重ねられていたのかもしれない。

 

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