第1249回 浦嶋太郎の物語の背景について

寝覚めの床(長野県木曽郡上松町)。浦嶋太郎が玉手箱を開けた場所という伝承がある。

 現在の古代研究においては考古学が柱になっているが、考古学は、新しい発見のたびに、それまで正しいとされていた答えが変更になるので、これ一つでは、心もとない。地域に伝えられている伝承も踏まえる必要があるが、伝承も改変されている可能性が高く、そのことを考慮していなければならない。

 これ以外に、地理や地勢から想像を広げていくというアプローチの仕方は、学会ではあまり行われていないのだが、地理や地勢は古代と現在で大きく変わっておらず、現在でもその地を訪ねることで、古代のことを偲ぶことができる。

 この方法は、実証主義者が行うように証拠によって正しい答えを確定させていくという方法ではなく、これが絶対に正しいとは言えないものの、連想によって、そうではないだろうかという想像の幅を広げ、考察を深めていくためのものだ。

 こうした連想の展開は、何か一つの正しい答えに収斂していく方法ではないから、近代社会の価値観からすると、とりとめがない、などと批判されるかもしれないが、その連想は未来への橋渡しにはなりうる。正しい答えというものは、時とともに置き換えられてしまうが、連想の輪は広がっていく。多くの神話は、そのように連想が積み重なることで形成されており、神話に書かれたことは、一つの史実の記録ではないだろう。

 たとえば、聖書の中の世紀末の描写として、人間の堕落と戦争と飢餓と洪水と疫病などが記載されていたとしても、それが必ずしも同一地域に集中していたとは限らない。

 たとえば、現在のように、ロシアとウクライナの戦争、パキスタンの大洪水、エチオピア北部の深刻な飢餓、世界に広がる新型コロナウィルスといった異なる地域の出来事について、世界が共有すべき現状として人々に記憶され、後の時代に神話的に伝えられていくということがありうる。

 日本の伝承においても、誰もが知っている浦島太郎の物語は、明治以降、近代の価値観(近代社会における教訓など含め)を反映し、大幅な改変が加えられている。

 しかし、その原型となる物語はある。そうすると、歴史研究家は、その原型の物語が、どこで起きたことなのか突き止めようとし、その証拠を探して答えを確定させようとする。

 たとえば、万葉集などには、浦嶋太郎の物語の舞台が「すみのえ」であると伝えられるが、その「すみのえ」が、丹後の網野町であるとか、いや大阪のことだという議論になる。

 果たしてそうだろうか?

 浦島太郎の物語も、いろいろな要素が象徴的なモチーフとなって組み合わさった物語かもしれない。そして、そのように物語を組み合わせた人たちがいたとしたら、それは、同じバックグラウンドを持つ人たちだろう。

 現在の世紀末的現象にしても、上に述べたような各地で起きている戦争、飢餓、洪水、疫病などを、自分ごととして受け止めている人ならば、一つの物語に束ねて、この時代の出来事として後世に伝えようとするかもしれない。エチオピア北部の饑餓やパキスタンの大洪水のことが別世界の出来事で自分には関係ないと思っている人は、そういう意識にはならないので、この時代を後世に伝える要素は、ファッションの流行とか、世間で評判のイベントとか、目の前にある現実に限定されるだろう。 

 海辺を舞台にした浦島太郎の物語は、当然ながら、背後に海人の存在があると思われる。海人の活動領域は、石器時代および縄文時代から、かなり広範囲に広がっていた。それは、産地を特定できるヒスイや黒曜石が、日本各地だけでなく、大陸にまで伝わっていたことから実証されている。

 それゆえ、海人のことを考えるうえで、特定地域ではなく、その活動の全体像に想像の翼を広げていかなければ、真相には近づけない。

 この地図は、浦島太郎の伝承と関わる地を示している。

 この地図において近畿を中心にして描かれる菱形の頂点のうち、丹後半島の浦嶋神社、木曽の寝覚めの床、香川の荘内半島紫雲出山には、浦島太郎の伝承が残る。そして、吉野の丹生川上神社の近くには浦島太郎の物語と似た伝承が残っており、京都の保津川渓谷を挟んだ地域は、浦島太郎の祖先に位置付けられる月読神の聖域が日本でもっとも集中する場所である。

 菱形から少しずれた位置にある愛知の知多半島の真楽寺には、浦島太郎を案内した亀の墓とされるものがあり、九州の壱岐島にある嫦娥島は、現地の伝承では竜宮城とされている。

 一般的に、8世紀に成立した『丹後国風土記』が、浦島太郎の物語の原型とされている。丹後の浦嶋神社から真東に220kmの所が木曽の寝覚めの床であり、ここは、日本五大名峡の一つとされ、​​木曽川の水流によって花崗岩が侵食されてできた奇勝である。ここに浦島堂があり、この場所で浦島太郎が玉手箱を開けたとする伝承が残る。

寝覚めの床の浦嶋堂

 また、丹後の浦嶋神社から南西に220kmのところ、香川県荘内半島紫雲出山周辺も浦島太郎伝説の残る土地で、紫雲という名は、玉手箱を開けた時に立ち上った煙からきているとされる。木曽の寝覚めの床は、花崗岩の渓谷だが、紫雲出山は、山全体が花崗岩でできている。

 不思議なことに、丹後の浦嶋神社から香川の紫雲出山までと、丹後の浦嶋神社から木曽の寝覚めの床までの距離は、等しく220kmだ。

 さらに、香川の紫雲出山から真東に220kmほど行ったところは吉野川の源流付近で、ここに丹生川上神社の上社がある。

 この丹生川上神社の上社の東14kmのところ、吉野川の支流の丹生川流域に丹生川上神社の下社が鎮座するが、この丹生川流域にも、浦島太郎の物語と似た伝承が残っている。

 それは、黒淵の乙姫の物語で、飛び込んだ淵の底には竜宮があり、乙姫がいたという物語。丹生川は蛇行しているため、淵が多く、しかも流れの底が深く黒々としているから黒淵という名がつけられたという。

 吉野の丹生川上神社の上社から木曽の寝覚めの床までも約220kmで、浦島太郎と関わりがありそうな四つの地点を結ぶと、一辺が220kmの菱形になる。

 ちなみに、丹生川上神社は、社伝によれば、神武天皇の東征の時、天神地祇を祀り戦勝を占った地とされる。

 こうした伝承が残っているのには何か理由がある。神武天皇が史実であれ神話上の人物であれ、日本の将来を決定する一大決戦において、丹生川上神社で戦勝を占ったというのは、丹生川上神社と深い関係のある勢力の後ろ盾を得たことを示している可能性が想像できる。それはおそらく、海人勢力のことだろう。

丹生川上神社(上社)の夢渊

 そして、この四つのポイントを結んだラインの交点は、京都と亀岡をつなぐ保津川渓谷だが、この渓谷の西の亀岡は、日本でもっとも月読神(浦島太郎の祖先とされる)を祀る聖域が集中するところで、渓谷の東の京都の桂川沿いには、歴史上重要な月読神社が鎮座している。

 なぜ、京都の月読神社が歴史上重要なのかというと、487年、壱岐島からこの地に月読神が勧請され、その時、亀卜という卜占がもたらされ、この亀卜が、後の朝廷内の「まつりごと」において重要な役割を果たすようになるからだ。

 亀卜というのは、亀の甲羅で占いをすることであり、重要な会議や祭りなどの日取りや時間を決める場合なども、これによって行われた。

 ここに、浦島太郎と関係する「亀」が出てくる。

 そして、丹後の浦嶋神社では、浦嶋子は、月読神の子孫であるとされ、浦嶋神社では、浦嶋子と月読神が祀られている。

 また、京都の月読神社は、現在、松尾大社の摂社となっているが、松尾大社は、もともとは本殿背後の磐座が聖域であった。そして、現在の本殿の裏に、松尾山から湧く水が流れ落ちる滝があり、ここに、ミズハノメという神が祀られている。この聖域は、本殿の主祭神である大山咋命おおやまくいのみこと)を祀り始めた時期(701年)より古いと思われるが、このミズハノメ神は、上に述べた吉野の丹生川上神社の祭神である。

 ミズハノメ神は、一般的に水の神とされるが、そうではなく、おそらく丹生(辰砂)と関わりの深い神、丹生都比売の別名ではないかと思われる。

 

京都の月読神社の旧鎮座地。左背後に見える愛宕山のあたりから保津川渓谷となり、亀岡に抜ける。

 丹後の浦嶋神社の周辺、舞鶴や、間人の竹野川流域にも丹生という土地があり、木曽の寝覚めの床の北には、大丹生岳がそびえる。

 丹生(辰砂=硫化水銀)の鉱床は、日本列島を南北に分断する中央構造線の周縁にあることが知られている。

 中央構造線は、日本列島の下にある四つのプレートが押し合い引き合うことで生じた大断層だが、中央構造線の北側は、太平洋側のプレートから押し込まれて隆起した土地であり、地下深くで時間をかけて冷えて固まって花崗岩の大地となる。そして急激に隆起すると、その熱によって変成する。こうした地質帯が東西に伸びる中央構造線の北側は、領家変成帯と名付けられている。

 

長野県大鹿村中央構造線博物館より

 そして、地図を見ればわかるように、浦島太郎の物語と関わりの深い木曽の寝覚めの床、吉野川流域、香川の荘内半島は、ともに花崗岩が特徴的な土地だが、この領家変成帯のなかにある。

 浦島太郎の物語は、話の内容からして海辺の物語であるが、実は、海人と関わりの深い物語であり、海人は、船の防腐作用のある丹生(辰砂=硫化水銀)を求めて、中央構造線上を移動していた。

 神功皇后新羅遠征の物語でも、丹生都比売が、戦いに勝利するために、船を朱で塗るべしと神託を下すが、朱というのは、硫化水銀=丹生のことである。

 木曽の寝覚めの床は、木曽川流域であるが、木曽川の流れは、伊勢湾まで通じており、木曽川下流域は、古代、尾張氏の拠点であった。そして、尾張知多半島の​​真楽寺には、浦島太郎が助けた亀の墓がある。

 また、尾張氏は、系図のうえで、丹後の海部氏と同族である。

 木曽川は、源流まで遡っていけば、奈良井川とアクセスし、松本盆地へと抜けるが、盆地への入り口に平出遺跡がある。ここは、縄文時代から古墳時代平安時代に至るまでの複合遺跡だ。

 

平出遺跡(長野県塩尻市

 この平出遺跡の場所は、中央構造線フォッサマグナ糸魚川・静岡構造線が交わる地域で、すぐ南が諏訪で、すぐ北が、海人の拠点だった安曇野である。

 松本盆地は、古代、広大な湖だったとされる。

 そして、安曇野の北は、ヒスイの産地である姫川が、日本海糸魚川まで流れており、糸魚川から京丹後まで海路でつながっている。

 愛知を拠点にしていた尾張氏と、京丹後を拠点にしていた海部氏が系図の上で同族というのは、伊勢湾から木曽川奈良井川を経て松本盆地安曇野、姫川とつながり、糸魚川から京丹後に至る海人ルートを共有していた勢力がいたということである。

 姫川のヒスイが朝鮮半島や沖縄、北海道まで伝えられていることからして、尾張氏や海部氏という氏族名がつく前から、この海人ルートが存在していたのだろう。

姫川源流

 また、上に述べたように、九州の壱岐島から月読神と亀卜が京都へと勧請されたのだが、壱岐島の華光寺の古い記録では、壱岐島にある嫦娥島が竜宮城とされている。

 壱岐島は、当時、海人の拠点であるとともに、大陸という異郷への玄関口だった。浦島太郎が亀の案内で訪れた常世のイメージとも重なってくる。

 そして、浦島太郎の物語の舞台は、万葉集などで「すみのえ」とされているのだが、「すみのえ」というのは「すみのえ神」=「住吉神」とつながる。

 Sacred world 3でも紹介したが、住吉神というのは、丹生都比売と同じである。

 丹生都比売神社の言い伝えによれば、吉野の藤代の峯に鎮座していた丹生都比売が、神功皇后新羅遠征の出発前に神託を下した。そして、住吉神社神代記によれば、神功皇后の勝利に貢献した住吉神は、もともとは吉野の藤代の峯にいたが、場所を移りたいと言い、藤の筏で大阪湾を渡って明石の藤江に流れ着いたと記録されている。

 つまり、神功皇后新羅遠征の前、吉野の藤代の峯にいた丹生都比売は、戦いの後、住吉神となって吉野川沿いから瀬戸内海へと拠点を移したということになる。

 ゆえに、壱岐から京都に、亀卜とともに伝えられた月読神を祖先に持つ浦島太郎は、上に述べたように、船の防腐剤となる丹生(硫化水銀)を求めて中央構造線にそって移動していた海人との関係があるように思われるが、その物語の舞台が「すみのえ」だというのは、大阪とかどこかの「住吉」の地名に限定された物語ということではなく、すみのえ=丹生との関連を暗示している。

 実際に、丹後の浦嶋神社の近く、竹野川流域や、舞鶴に、丹生という土地があり、木曽の寝覚めの床の北には、大丹生岳がそびえる。 

 古代、丹生と関わりの深い海人は、辰砂(硫化水銀)=朱を求めて、瀬戸内海から畿内吉野川流域、そして、木曽川から諏訪方向へと伸びる中央構造線周縁に足跡を残した。そして、この海人が、瀬戸内海を通って、壱岐島から月読神と亀卜を畿内へと伝えた。

 なぜ瀬戸内海と月読神が関わってくるのかというと、瀬戸内海というのは、満潮時と干潮時では潮の流れがまったく異なり、エンジンのない船で航海するためには、月を読む=潮を読むことが、必要不可欠だからだ。

 浦島太郎の伝承は、この海人の活動と深く結びついているのではないかと思われる。

 それにしても不思議なのは、浦島太郎に関わる場所が、地理的に精度の高い配置になっていることだ。

 一辺が220kmの菱形の形は偶然にそうなったと言えるだろうか?

 4本の斜線によって囲まれた菱形は、池沼に自生する水草を文様化したという説もあるが、縄文時代の土器にも刻まれている。

 日本に限らず、海外においても、菱形は聖なる形として用いられており、仏教壁画では無数の菱形の中に仏が描きこまれている。

 さらに、丹後の浦嶋神社と木曽の寝覚めの床は東西ライン上にあり、木曽の寝覚めの床と、京都の保津川渓谷を通って香川の荘内半島に至るラインは、冬至のラインである。

 冬至もまた、日本に限らず、古代世界において生命の再生の日として重要なる転換点であり、古代の聖域は、この冬至のラインにそって配置されていることが多いのだが、木曽と京都と香川の距離は、かなり離れている。広範囲に活動していた海人は、独自の天体観測技術や測量技術を備えていたのだろうか?

 そして、浦島太郎の物語の関連地4地点で形成される菱形のど真ん中の保津川渓谷の東西が、浦島太郎の先祖にあたる月読神の聖域の集中地帯であることも、偶然なのか、計画的なことなのか。もしかしたら、月読神が最初に勧請されたこの場所を拠点に、浦島太郎の物語に関係する4つの場所の選定が行われたのかもしれない。

 最後に、竜宮城の3年が実際は数百年だったという浦島太郎の中のエピソードは、いったい何を象徴しているのか?

 これは想像でしかないが、瀬戸内海流域で活躍した海人、紀氏や越智氏は、朝鮮半島の経営に携わったり、新羅との戦いの際は、最前線に立っていた。

 当然ながら、大陸に渡って新しい文化や知識、暮らしぶりを経験している。そして、その異郷世界は、見るもの全てが新鮮で、時を忘れる。

 それに対して、海人の地元の暮らしは、何百年と変わらない。人々は世代交代を繰り返していくが、暮らしぶりや風景はずっと同じである。

 紀氏、越智氏、尾張氏などの海人は、古代、戦いや交易などで重要な役割を果たし、娘を天皇に嫁がせていたものの、中央において政争に巻き込まれないポジションにいた。どちらかといえば、中央の権力者が、海人の力を必要として。海に囲まれた日本において、大陸と交流し、物資を運んだり人を運んだりするうえで、船がなければどうしようもなかったからだ。

 しかし海人にとっては、海の恵みが豊かな日本においては、中央のまつりごとの中心にいるよりも、海人の地元で、時の流れに身をまかせて、自由に生きた方が幸福だったのではないかと思う。

 なかには中央に残って権力争いに巻き込まれた者もいただろうが、苦い教訓しか残さなかったのではないか。

 浦島太郎は、目新しい世界で時を忘れて有頂天になっていたが、ふと、かつての営みを思い出し、竜宮城を去って地元に戻ってきた。

 その時、自分が時の流れからかけ離れた存在であることを思い知らされた。

 そんな自分を不幸と感じ、竜宮城の世界と縁が切れることを承知で、玉手箱を開けて、時の流れの中、つまり自然の中に戻っていった。それが海人にとって本来のあり方だった。

 竜宮城の世界の出来事を、現代文明の営みに置き換えることもできるだろう。

 人類の歴史を振り返っても、自然に即した営みが長く続いた後、短期間のうちに文明が築かれるが、そうした文明は長くは続かず、また人類は自然に即した営みの中に戻っていき、その状態が長く続いていく。

 「かぐや姫」の最後は、帝が、かぐや姫が残した不死の薬を敢えて飲まず、それを燃やした煙が、富士山の山頂から煙のように立ち上っていく。

 「浦島太郎」においても、乙姫からあずかった玉手箱を開けなければ竜宮城(常世)に戻れたのに、開けてしまったため、煙とともに浦島太郎は現実の中へと引き戻され、老いて消えていく定めを受け入れる現世の人間となった。

 かぐや姫や浦島太郎の物語の終わり方には、「もののあはれ」のスピリットが流れており、それが日本人の心に働きかけ、長く残り続けるものとなっている。

 日本史の中の「もののあはれ」文学の代表は、紫式部源氏物語であるが、源氏物語のなかにおいても、浦島太郎の物語の舞台である「すみのえ」=住吉神が重要な役割を果たしている。

 落ちぶれた光源氏は、海人の営みが描かれている明石と須磨の地に流れていくが、この地の住吉神の加護を受けることが、人生の転換となる。

 そして光源氏は、第41帖の「幻」の話のなかで、静かに表舞台から消えていく。光源氏が消えた後も源氏物語は続いていき、第54帖で終わるまで、住吉神を崇敬する明石一族を中心に話が展開していく。

 光源氏は、源氏物語の主役ではあるが、その光は、明石一族という影を浮かび上がらせる存在なのだ。紫式部が、源氏物語を書き始めたのは、第12帖の須磨と、第13帖の明石からとされており、紫式部の頭には、最初からその構想があったのだろう。

 日本の「もののあはれ」文化の底流には、どうやら、「すみのえ」と関わる海人が深く関わっているように思われる。

 

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