今日、10月19日は、鬼海弘雄さんが亡くなって2回目の命日。
1週間前、鬼海さんが元気な頃、一緒に飲んでいた池袋の硯屋に、映画監督の小栗康平さんと、思想家の前田英樹さんと集まった。
硯屋というのは、うどん屋だが、酒の肴が充実していて、もう15年以上、私が京都に移住する前は一ヶ月に一度、移住後は、東京に来る時に集合場所になってきた。
先週、その硯屋からの帰り道、小栗さんから、私が作った鬼海さんの写真集「 Tokyo View」の話が出た。 あの作品集こそが、まさに鬼海さんの真骨頂だと。
https://www.kazetabi.jp/%E9%AC%BC%E6%B5%B7%E5%BC%98%E9%9B%84-%E5%86%99%E7%9C%9F%E9%9B%86-tokyo-view/
もちろん、鬼海さんの代表作には、「Persona」とか「India」があって、よく知られている。
ただ、それらの写真は、被写体の魅力も大きい。鬼海さんは、その魅力的な被写体を探すことと、その魅力を引き出すために膨大な時間をかけていた。鬼海さんは、カメラを構えていない時間のほうが圧倒的に長い写真家だった。
それに対して「Tokyo view」は、被写体の魅力に一切頼ることなく、鬼海さんの「眼力」だけで構成された世界だ。それがゆえに、純粋に写真(映像)そのものを観る目が養われていない人には、その良さや面白さがわからない可能性もある。共感というのは、自分がすでに抱いているイメージに沿っているから生じる感覚であり、鬼海さんの Tokyo viewは、その眼力によって、既成のイメージを裏切ったり、再構築させる力がある。


今から100年前、ウジェーヌ・アジェが撮った、当時のパリの街中の写真が、写真史の中に燦然と刻まれているが、鬼海さんの「 Tokyo view」は、それを超えると小栗さんは言う。二人の街中の写真は、同じように人が写っていないけれど、鬼海さんの写真は、人の気配がアジェの写真よりも濃厚であり、そこに住む人の会話までが聞こえてきそうだ。
その一枚の写真と同じことを体験してみようと思えば、鬼海さんが撮った現場に足を運ぶだけではダメで、その場所に、しばらくの間、じっと佇んでいなければならないだろう。鬼海さんは、一枚の静止した写真の中に、そのように流れ行く時間を写し込んでいる。
被写体の魅力に頼っていない写真は、プリントも完璧でなければ、その良さが伝わらない。そして、印刷もそうだった。鬼海さんのプリントと同じレベルの印刷が必要であり、だから、この「 Tokyo view」は、試し刷りで紙との相性を判断するために数種類の紙でテストを行い、本番でも印刷のやり直しが必要だった。写真集として作られたもののなかで最高品質の印刷を目指したのだ。
なので、編集とデザインで1年くらいかけたが、印刷だけでも1年くらいかかってしまった。
大変ではあったものの、鬼海さんと真剣な時間を共有していたことは、楽しいことでもあった。
人生における恩人は、私の場合は、苦労や苦難から救ってくれた人というより、自分の人生の領域を、自分が意識していた範疇を超えたところに導いてくれた人と定義できるが、日野啓三さん、白川静さん、小栗康平さん、野町和嘉さん、そして鬼海弘雄さんということになる。
2019年の年末、リンパ腫の癌で鬼海さんは広尾の赤十字病院に入院しており、写真家の小池英文さんと一緒に面会に行った時、2016年の秋から取り組んでいたピンホール写真のプリントを見てもらった。初めてから3年だったが、風の旅人を休刊してからは、これだけに打ち込んでいたので、その量はかなりのものにはなっていた。私は編集人として写真を見て判断することを専門職としているが、自分が撮った写真は、写真の現場の記憶も濃密に脳裏に残っているから、客観視しずらい。
それで、鬼海さんの目を通して、まだ全然ダメか、それなりか、判断できると思ったのだ。
しかし、鬼海さんは、プリントを見るなり、突然、「本にしろ!」と言う。びっくりして、「まだ早いでしょ、10年くらい取り組んでからじゃないと」と答えると、真剣な顔で、「もう十分にその時期だ、今からやっていかないと、後で整理できなくなるよ」と言われた。
私は、本にするというイメージをまったく持っていなかったので途方に暮れた。私は、編集人だから、ただ作品を寄せ集めても意味がないと思っており、本にするとしたら、どういう本にすべきかを、まず第一に考える癖がある。
だから、鬼海さんに背中を押されて、どういう本にすべきかを考え始めた。
考えているだけでは意味がないので、年があけてすぐ、自分で編集とデザインをしながら手探りで形を作っていった。やる前は、自分でも本になるかどうか疑心暗鬼だったが、朝から晩まで一心に打ち込んでいるうちに、私なりの本のスタイルが浮かび上がってきた。そして、あっという間に、「Sacred world 日本の古層」の全体像が構築できて、文章も書けて、3月末に印刷も終了したので、すぐに鬼海さんに送った。
自分では意識できていなかったけれど、確かに、自分の中で準備は整っていたのだ。鬼海さんは、それを見抜いてくれた。
私の本が完成した時、鬼海さんの症状は悪化していたけれど、意識ははっきりしていて、本の隅々まで写真も文章も目を通してくれ、何度も電話をかけてくれ、いろいろと感想とか、励ましの言葉をくれた。
しかし、その三ヶ月後くらいから急激に容態が悪くなり、本も読めなくなっていった。その最後のタイミングで、「Sacred world 日本の古層」という一つの完成形を鬼海さんに見てもらえたのは、奇跡であり、宿命でもあるという気がした。
そして、鬼海さんに「本にしろ」と言われた時、「今やっておかないと後で整理できなくなる」とも言われていたわけだから、本にするのもプロセスにすぎないということは自覚していた。だから、編集段階で、この本をVol.1とした。鬼海さんにこれを送る時も、これから毎年、一冊ずつ作ると伝えた。
鬼海さんに背中を押されたことは、奇跡であり、宿命であるという意識を持っているので、他のことには気持ちは流れず、これだけに打ち込むことができる。
20年前の風の旅人の創刊の時は、野町和嘉さんが、3年前の鬼海さんのように、突然、私に対して、「今すぐグラフィック雑誌を作れ!」と、神の声のように言い、強引に背中を押されて作った企画書を、まず最初に白川静さんに送ったら。「あんた、こんな大それたこと、実現するのか? 実現するのだったら、引き受けるわ」というやりとりがあり、わけがわからないまま走り出したのだが、人生には、そういう自分の意識を超えた力が、突然、降りて来ることがある。
もちろん、そういう時、怖気付く自分もいるが、自分の意識や意思の力では自分の想定内のことしかできないので、わけもわからないまま大きな力に乗ってしまうことの面白さはある。どうせ、ダメ元だし。
鬼海さんは、大学の哲学科を卒業後、トラック運転手、造船所工員、遠洋マグロ漁船乗組員をしながら写真家を目指した。
身体感覚を重視していた鬼海さんだが、癌に蝕まれて抗がん剤治療をして意識が朦朧としている状態でも、病院の枕元には文学書が積まれていたように、鬼海さんは、ずっと文学の人であり、それは鬼海さんが書いた文章に明確に現れている。
しかし鬼海さんは、哲学とか文学を、机の上だけで閉じて行うのではなく、身体を通して、実践し、形にしてきたのだ。
身体というのは、想念に比べて限界が明確なものであり、だからこそ、その限界を超える何かに対するトキメキも強くなる。
鬼海さんの写真というのは、その何かに出会った時の鬼海さんのトキメキが、じんわりと滲み出てくるものになっている。
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鬼海弘雄 写真集 『TOKYO VIEW』
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