第1272回 文字が変えた日本人の思考特性!?

 

ヴァルカモニカ渓谷の岩絵。約1万年前からローマ時代までの8000年間に描かれた14万点にもおよぶ精巧な線刻画が残っている。


 ジュリアン・ジェインズは、『神々の沈黙』という著書のなかで、人間がアルファベットを使い始めた時から言語野が左脳になり、それ以前は右脳に言語野があって思考や理解の仕方が全く違っていた可能性があると指摘している。

 日本の場合も、現在の私たちが使っている訓読み日本語の発明の前と後で断絶がある。

 具体的には、5世紀後半に、その境界がある。

 それ以前は、いわゆるヤマト王権の時代とされるが、8世紀に入って完成した古事記や日本書記に5世紀以前のことが説明されていても、その実態はよくわからない。天皇陵とされている巨大な前方後円墳も、宮内庁が管理しているため考古学的調査は行われていない。

 そもそも、墳丘長が525mもあって世界最大の墓ともされる大仙陵古墳が、仁徳天皇とされる天皇の権力を表すものだとする従来の認識は、本当に正しいものなのだろうか。

 5世紀後半、訓読み日本語が創造されたのと同じ頃、大王級の古墳の石室が、縦穴式から横穴式になった。前方後円墳の円墳部分の頂上に設けられた一つの石室に一人を埋葬するスタイルから、墳丘の横に穴をうがって通路を作り、その奥に石室を設けるスタイルで、これは中国の漢の時代に発達したものである。

 その頃から、埋葬場所である石室は大きくなり、しかも同じ石室に複数の人物が埋葬されるようになったが、古墳そのものは小さくなった。

 この変化は、単なる構造変化ではなく、明らかに死生観が変化したことを示している。

 また横穴式石室を持つ古墳に埋葬された最初の天皇は、第26代継体天皇だが、この天皇は、記紀のなかで、第25代武烈天皇と血統が断絶されている。

 天皇家は、万世一系とは言えず、6世紀初頭に即位したとされる第26代継体天皇が現在の天皇家の祖である。

 こうしたことを踏まえると、5世紀後半、文字が導入されてからの歴史は、現在の我々でも何とか理解可能な状況になっているのだが、それ以前は、謎だらけだ。 

 文字による記録が残っていないために、その時代は、歴史の空白地帯とされているが、記録の問題以前に、文字の使用前と使用後で、人間の発想や価値観などが変化していて、そのため、現在の我々の理解の仕方では紐解けない謎になっている可能性もある。

 3世紀から作られ始めて、4世紀後半から5世紀前半にかけて、あまりにも巨大化している前方後円墳は、本当にヤマト王権の権力を示しているのだろうか?

観音山古墳(群馬県高崎市)。6世紀後半の前方後円墳

観音山古墳(群馬県高崎市)の横穴式石室の玄室は日本でも有数の大きさを誇り、欽明天皇陵とされる丸山古墳(奈良県橿原市)の玄室と同じ平面規模がある(高さは1/2)。また、豪華な副葬品は中国や朝鮮半島とのかかわりがあるものが多い。埴輪は円筒埴輪をはじめ、人物・馬・家・盾など多くの形象埴輪が確認された。横穴式石室の入口近くからみつかった、三人の巫女が並んで座っているものは、非常に珍しい。


 東国のなかでも、群馬や山梨には、なぜか巨大な前方後円墳前方後方墳が多く作られているのだが、ここは縄文王国でもあり、優れた造形の巨大な縄文土器が数多く出土している場所でもあり、大規模な縄文遺跡も多い。

 また、群馬と山梨のあいだにある長野も縄文王国だが、松本市に、弘法山古墳という東日本最古級の3世紀末から4世紀中葉頃築造の前方後方墳がある。この古墳じたいの大きさは、全長66mにすぎないが、標高約650mの弘法山の上に築かれており、アルプスの山並みを望み、松本盆地を見下ろし、その全体を見渡せ、弘法山全体が、古墳のようでもある。

 鏡や鉄剣や勾玉などの出土品以外に、石棺のまわりに葬送儀礼と関わりがあると考えられる土器があったが、それは濃尾平野のものである可能性が高い。つまり、東海地方とのつながりが考えられる。

弘法山古墳(長野県松本市

 現代は、海岸部に人が多く住む都市が集中しているが、山梨や群馬や長野は、内陸部である。

 古代においては、なぜ内陸部に、文化の痕跡が多く残っているのだろう?

 群馬の高崎や前橋、甲府盆地、松本などは、山間部ではなく、山に近い盆地や平野の端であり、そういう場所は、山から流れてきた河川が扇状地を作っている。また、周辺の山々の積雪が多いので、その雪解け水の水量は豊かで、飲料水に不自由することがない。

 川からは主要なタンパク源である鮭などの魚類が獲れるし、山からも様々な食物が得られ、平地は集落を作りやすく、耕作地を広げることもできただろう。

 そういう意味で、生きていくには理にかなっており、縄文時代から長く人々が住み続けてきたのも当然のことだと思われる。

 しかし、土器のデザインが装飾的になったり実用性の範疇を超えて大きくなったり、古墳が巨大化するなどの”文明化”は、他の地方との関係や交流が影響を与えていると思われる。

 暗黒時代などとされるヨーロッパ中世にルネッサンスが起きたのは、10世紀頃からのロマネスク巡礼での各地との交流や、十字軍などを通じてイスラム文明と接したことが契機となった。日本においても、それが良かったかどうかはともかく、黒船がやってこなければ、150年前に、文明開化?は起きなかっただろう。

 列島の内陸部の山梨や群馬や長野であるが、河川などを通じて、日本海側にも太平洋側にもつながることができる。

 群馬は、日本海に注ぐ千曲川の支流が軽井沢あたりまできて、群馬を流れる利根川は、かつては東京湾につながっていた。つまり群馬は、日本海と太平洋の接点である。

 山梨は、富士川が太平洋に注ぎ、北部は、盆地続きで、松本から安曇野、そして、日本海へと注ぐ姫川につながる。濃尾平野から木曽川を遡っていけば、割と簡単に松本に行ける。姫川のヒスイや八ヶ岳の黒曜石は、縄文時代、日本各地に運ばれていた。

 山梨や群馬や長野は縄文時代から日本各地の交流の要であり、だとしたら、これらの地に築かれている巨大な古墳もまた、交流の結果だとみなすことができる。もちろん、それほど重要な拠点だったから近畿のヤマト王権が奪い取って支配したと説明することも可能ではある。

保渡田古墳群(群馬県高崎市)の八幡塚古墳。墳丘には葺き石が葺かれ、円筒列が墳丘裾部、中島裾部、中堤縁に見られる。

 前方後円墳に関しては、古墳の周縁部に設置されている円筒埴輪が吉備の弥生時代後期の祭祀器と似ていること、墳丘に葺石を敷き詰めているのは出雲地方の四隅突出型墳墓に見られることなど、ヤマト王権が、それらの地域の連合勢力であることを象徴しているという説がある。

 連合勢力だとしても、どこか一点に築かれた巨大な権力が全国を支配していったという考えにつながるのだが、私が不思議に思うのは、各地に残る巨大な前方後円墳のすぐそばに、様式の異なる前方後方墳が破壊されることなく残っていることだ。この二つの異なる古墳は、対立を表しているのだろうか? 

 それとも、単に流行が違っただけと考えることはできないのだろうか。

 東国に多くみられる前方後方墳であるが、その最大規模のものは近畿に集中しており、前方後方墳が、ヤマト王権以外の地域の王の墓とは言いきれない。

 5世紀後半以前、文字が無かった時代に起きていたことを、文字を獲得した後の人間が理解するのは、簡単ではない。

 文字が無かったというのは、現代の定義による「文字」が無かっただけで、古代には、別の様式の文字があった。

 たとえば、500年前に、スペインがインカを侵略した時、当時のインカ人は、キープと呼ばれる色とりどりの紐を束にしたものを使い、結び目の形、紐の色、結び目の位置などによって、様々なことを記録し、税金の管理なども行っていた。

 1994年、ペルーの首都リマの北方およそ200 km に位置するスーペ谷に残る大規模な都市遺跡であるカラル遺跡が発見された。これは、紀元前3000年頃から紀元前2000年頃のもので、神殿建造物群、円形劇場、住居群で構成されているが、ここからの出土品の中に結び目のある繊維の断片も含まれており、情報記録システムのキープ(紐文字)であると主張する専門家もいる。

 スペインがインカ帝国を滅ぼした時、当時のインカ人は、現地に残されていた石造建築に使われている巨石と同じ大きさのものを一つだけでも動かすことができなかったのだが、その当時のインカ人は、過去に作られていた巨石建造物を利用していただけでなく、4000年も前にカラル遺跡で使われていた紐文字という情報伝達方法を慣習的に継承していたのかもしれない。

 現代人が定義する「文字」ではない文字を使用していた時代に、現代人の理解を超えた文明が存在していた。その文明の中の価値観やコスモロジーを、現代人が読み解けないから、謎の古代文明とされる。

 そして、現代人が理解できないのは、ジュリアン・ジェインズが指摘しているように、思考特性が違うからだろう。

 数千年にわたる長期的な人間意識の変遷を探求することは簡単ではないが、実にシンプルな形で象徴的に俯瞰できる場所がある。

 イタリア北部のアルプス山麓のヴァルカモニカ渓谷だ。70kmに渡るこの渓谷で、氷河の浸食により滑らかになった岩の表面に、約1万年前からローマ時代までの8000年間に描かれた14万点にもおよぶ精巧な線刻画が残っている。

 テーマは、農耕、航海、戦争、集落の地図など多岐にわたるが、最後が、ローマ時代に刻まれたアルファベットで終わっている。

 紀元前8000年~5000年前後は、シカやヘラジカ、狩る人間の姿などが描かれている。紀元前5000~3000年頃になると、四角形や円といった抽象的な記号が増え、農地を思わせる図形も出てくる。紀元前2000年頃になると人間や動物の他に天体・幾何学図形など絵柄は多様化し、宗教的・科学的要素が強くなっていく。

 紀元前1000年頃は、武器や盛り上がった筋肉・男性器など男性の雄々しい姿が特徴で、決闘の様子なども刻まれている。

 ローマ時代に終焉したのは、詳しい理由はわかっていないが、記録がアルファベット文字に取って代わり、そのことによって記録の場所が、岩の表面ではなく他の場所へと移ったのかもしれないが、だとすると、8000年間に渡ってつながっていた人類の記録(記憶)装置はアルファベットによって無効とされ、それ以降は、アルファベット文字を使う人間が、過去を一方的に裁断し、自分たちの視点で解釈するようになったことを意味する。

 文字化によって形成された学問体系を抜きにした素朴な感慨だが、日本の縄文土器も、ヴァルカモニカ渓谷の岩絵と同じく、紀元前3000年頃から2000年頃のデザインが最もダイナミックで精密で実用性よりも宗教的な意味合いを強く感じるのだが、紀元前3000年頃から2000年頃というのは、地球規模で、人類の精神に変化が起きていたのだろうか。

 エジプトでクフ王をはじめ巨大なピラミッドが築かれたのも同じ頃であり、上に紹介したキープ(紐文字)の出土があったペルーのカラル遺跡も同じ時期である。

 謎とされる古代文明は、世界各地に残されており、なかには、現代の技術でも再現が難しいものも存在し、それらは、宇宙人が作ったとものだと主張する人たちのコミュニティがあって、ああだこうだと盛り上がっている。

 地球以外に、高度な文明を持っている生物が存在すると想定することは一つのロマンだろうが、私たち地球人は脳の全ての力を使い切っていないという専門家もいて、この脳の全てを使い切らないにしても、使っていない部分を使えるだけで、まったく異なることができる可能性があるかもしれない。

 昔から火事場のクソ力などと言われたりするが、変性意識といわれる集中状態によって、意識下に封じられていたものが表に出てくることがあり、それまでに思いもしなかったアイデアが閃いて、魂が震えることだってある。

 宇宙人のことを想定しなくても、現生人類のなかに、一度は失われた力が秘められていて、それを復活させることが可能かもしれないと想定することもロマンであり、こちらのロマンの方が、世の中を変える力としては、宇宙人に期待するよりも、可能性が高いような気がする。

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