第1274回 学校教育の問題と、教育に携わる教師の問題 

北海道の中学校が実施した修学旅行で、全ての生徒に配る必要がある「全国旅行支援」のクーポンを、生活保護受給世帯の生徒らに配っていなかったことが判明した。修学旅行を担当した旅行会社が「公的支援を二重に受けることはできない」と制度を誤解していたためで、学校と旅行会社は近く生徒らに謝罪するとともに、同額の商品券の配布を検討している。と伝えられている事件。

 これについて、ニュースでは、旅行会社が制度を誤解していたからと説明されているが、私は、真っ先に教師に対して怒りを感じる。

 学校側は、生活保護家庭の生徒7人が別室に呼び出し、配布の対象外と説明し、その後、対象外とされた生徒らを自分の部屋で待機させ、教員は、その7人以外の生徒にクーポンを配っているのだ。

 つまり、旅行会社の落ち度はともかく、旅行会社から説明を受けた学校の教師が、「普通に考えてもそれはおかしい」と反応していないという問題を、もっと強調すべきなのではないだろうか。

 この問題は、先日、スタンフォードの学生に行った講義について書いたこととも重なるのだけれど、日本の教育界には、「決まったこと」だけ伝え、なぜそれがそうなのかを考えさせない傾向が非常に強い。だから、生徒もそうなるし、先生とされる人にも、自分の頭で考えない人が多い。

 私は、かつて多くのスタッフを抱えて仕事をした時、「なんで、言われたとおりにできないんだ」と叱ることはなかったと思うけれど、「なんで、そんなに頭が硬いんだ。いろいろやり方があるだろう」と叱らなければならないことは非常に多かった。学歴的にも優秀な若い人が多かったけれど、上司から言われたことや、業務指示に従って仕事をする時は、非常に速やかに仕事をするけれど、どこかで指示系統が間違ったのか、明らかにおかしいことをやっている時に、確認すると、「そういうものだと思っていました」と、自分は悪くないと平気顔で答えるスタッフも多かったから。

 そんな時に、温厚な上司を装い、「こうすればいいんだよ」と正しい答を優しく教えると、上司としての受けはよくなるだろうが、スタッフは、晴れ晴れとして表情で、「はい、わかりました」となるだけで、誰がどういう指示をしたかとか前例に関係なく、今起こっていること自体に対して自分がどう感じるのか、どう考えるのかが大事だということを、その人が強く実感しなければ、また同じことが起こる。

 そういうステレオタイプ化した脳味噌の集団組織の先行きは、非常に危いと、当時、強く思っていた。

 環境世界は、流動的であり、その都度、自分の目の前に起きていることに対して、自分の頭で考えて判断するスタンスは、非常に大事だ。

「前からそうしていました。そうなっていました。そういうものだと思っていました。そういう決まりになっています。」等、どういう根拠でそうなっているのかもわからないまま、形だけ継承しているようなことも非常に多い。

 私が非常に若かった時も、「おかしい」と思って上司に確認しても、「前からそうしている」と言われ、「なぜ、そうなっているのですか?」とさらに確認しても、「いいから、そう決まっているんだから、そのとおりにやれ」みたいな対応も非常に多く、そういう組織では働けないと思ったこともあった。

 このように自分の頭で考えず、言われたとおりにきちんとやるという日本人特性は、高度経済成長のような、ゴールが明確で、そのゴールにたどり着くためにどうすればいいかも明確な時には通用するだろうが、変化の激しい時代に通用するはずがない。

 しかし、その傾向を変えていかなければいけない教育現場の先生たちが、自分の頭で考えて判断できない人たちであるならば、日本の未来は、非常に危うい。

 太平洋戦争の時の教師たちのように、人を指導する権力を持った輩が、そういう頭の硬いステレオタイプ思考であることが、一番厄介で、おそろしい。