本から学ぶことも大切だろうけれど、現場から学ぶことで、本質にダイレクトに近づけることがある。
世の中に出ている本の大半には、その分野の専門家による、その分野の中での実績や経験が積み重なっている。そして、その専門分野の中で、少しずつ、論理の改良がなされていく。
その改良において大きな決定権を持つものが権威となる。それは個人の場合もあるし、組織の場合もある。
そうした仕組みによって物事をブラッシュアップしていくことも大事なことだが、一つの分野の中で時間を経ているうちに、その中での概念が固定化してしまう。
その既成概念に意識が縛られてしまうと、まったく異なる視点で物事を見るということが難しくなる。これは、産業でも、学問でも、表現活動でも、どんな分野においても同じだろう。
視点を変えることが必要のない安定した時期もあるし、従来の視点に束縛されているうちに本質から離れていき、本質が歪み、それが現実世界に悪影響を及ぼす時期もある。
もともと、”産業”は何のためにあったのか? 学問や表現活動もまた、何のためにあったのか?
そのことがいつのまにか忘れられて、それぞれの分野に携わる人たちが、それぞれの分野での”成功”ばかりを意識するようになってしまうと、人間の現実世界にも様々な矛盾が生まれてくる。
本来、産業は、自然環境のなかで人間が生きていくための知恵と技術を発展させることだった。
学問は、その様々な知恵と技術を深め、広げることだった。
表現活動は、人間にとっての具体的な時間である生の領域と、抽象的な時間である死の領域を合わせて、一つの総合的な人間ビジョンとして創造されたものだった。なぜそういうことが必要だったかというと、死を意識する人間は、自分という存在が、どういう世界のどういう時空にいるのか気になってしかたないからだった。つまり、人間の表現活動は、人間のコスモロジーを示すものだった。
日本各地の古代からの聖域、とくに縄文時代に遡るような場所には、共通点が幾つかある。
一つは、湧水のあるところ。川の流れは変化していくが、湧き水の場所は、石器時代から変わらないところが多い。地下で侵食の影響を受けない水路は、数千年を経ても変わらないのだろう。東京でも井之頭公園などがそうで、そういうところには、必ずといっていいほど石器時代や縄文時代の遺跡がある。
二つ目は、地質的に変成岩をはじめとする特徴的なところが多い。固い岩盤の変成岩は、地形的にも、この世のものならぬ姿を示しているが、石にも特徴がある。硬く、色合いや文様も美しく、石そのものが何かしら語りかけてくるものがあると感じられる。そういう石は、古代、環状列石で使われたし、古墳の石材などにも使われた。
また、そういう場所では、現在はほとんど見つからないが、かつては、宝石のような鉱石もたくさん拾えたのではないかと思う。
たとえば、場所は公にしたくないが、古くから聖なる湖とされていた信州の湖で、近年、冬場に揚水発電のためにポンプで水を汲み上げているのだが、その時、ふだんは見られない湖底の一部が現れ、そこには現在でも水晶がゴロゴロ転がっている。現在でも公になると持ち去られてしまうが、昔も、似たようなことがあっただろう。
丹生という地名が残るところは、かつて辰砂(硫化水銀)と関係が深かった場所だと思われるが、ほとんど取り尽くされてしまっているので、今ではそのことがわからなくなっている。
弥生時代になって稲作が始まってから、集落の位置が変わったが、石器時代から縄文時代にかけて、人々は、好んで火山帯に住んでいたようだ。
縄文王国とされる長野の八ヶ岳の麓、群馬、そして新潟も有名な火炎式土器は十日町という内陸にあたるが、これらの地は、火山性の特徴が、非常に明確なところだ。
北海道の積丹半島から真南に火山帯が伸びるが、東北の奥羽山脈も火山帯で、南北に伸びる。そして、このライン上に、ストーンサークルなど縄文時代の重要な聖域が多く残る。
奥羽山脈の西にある日本最深の湖である田沢湖もカルデラ湖だと考えられているが、湖畔に縄文時代の遺跡がある。そして、2012年、その近くから黒曜石が発見された。
縄文時代に石器として活用された黒曜石は、火山噴火の際に生じる流紋岩の一種である。
縄文人が、なぜ火山帯を好んで暮らしていたのか?
弥生時代、稲作を行っていると火山被害は深刻極まりないが、縄文時代は、めったに起こらない火山の被害よりも恩恵が大きかったのだろう。
今でも火山は観光地で、風光明媚だし、温泉もあるし、古代人にとっては鉱物資源が重要だったのかもしれない。
田沢湖には、辰子神話がある。
美しさと若さを永久に保ちたいと密かに大蔵観音に願いをかけ、「満願の夜に北に湧く泉の水を飲めば願いがかなうであろう」とお告げがあり、そのお告げのとおり泉の水を飲むと、何故かますます喉が渇き、ついに腹ばいになり泉が枯れるほど飲み続け、時が過ぎ、気がつくと辰子は大きな龍になって、田沢湖の主となって湖底深くに沈んでいったという話だ。
似たような話で、八郎太郎神話がある。
八郎太郎は、マタギをして生活していたが、ある日、釣ったイワナを、マタギの掟では仲間と分けなければいけないところ、あまりにも美味かったので一人で食べてしまった。すると急に喉が渇き始め、33夜も川の水を飲み続け、いつしか巨大な竜へと変化してしまい、自分の身に起こった報いを知った八郎太郎は、十和田山頂に湖を作り、そこの主として住むようになった。この湖が十和田湖である。
八郎太郎と辰子は、中世の説話では恋人同士になるが、この二つの神話の共通点は、自分のエゴが、喉の乾きになること。そして、水を飲み続けて龍になって湖の主になること。
西暦915年に十和田湖で起きた巨大な火山噴火によって吐き出された噴火物は、自然のダムを作り、最後には決壊し、大洪水を引き起こしたが、この被害を受けた地区に、八郎太郎の伝説が残っている。
火山噴火によって堰きとめられ、つまり水を飲み続けて龍となって、最後に、その龍が暴れたのだ。
日本には無数の河川があり、それらの河川は火山噴火によって堰きとめられて湖となり、それがそのまま現在まで続いている場合もあるし、決壊したものもあっただろう。
龍は水を司る存在で、龍と洪水を重ねて説明されることが多いが、辰子神話や八郎太郎神話のように、人間のエゴが、その上に重ねられているところが興味深い。
人間行為が自然に即しているかどうかが、古代において、意識されていたことを示していると思われるからだ。
龍の姿は、自然の恐るべき力に触れた人間が創造したものであるが、人間に対して、人間の欲や思惑の限界を、自然の力と重ねて思い知らせる存在になっている。
縄文時代というのは、非常に長く続いたのだが、それは、火山の近くに住んでいた縄文人が、人間の欲や思惑の限界を、常に悟らざるを得なかったからだろうか。
弥生時代から、人々は火山の遠くに集落を築くようになった。
そして政治の中心となった近畿は、東西の火山帯から最も離れた場所であり、奈良盆地は、さらにその真ん中である。
恐るべき自然から離れて暮らすようになった人間の社会は、人間のエゴを中心に回るようになり、その変遷は著しくなった。
さらに、近代、人間が管理する人工空間の中だけで人生の月日を費やすようになり、人間は、自分のエゴについて、古代人が感じていたように自然に即していないものとして捉えず、人生の正当な手段として捉えるようになった。
古代の聖域の配置を確認すると、古代人が、現代人が考えている以上に、自分たちの”今”を、宇宙の秩序の中に組み入れていたことが感じられる。
現代人にとっての自分の”今”が、単なる時の消化にすぎないのか、それとも、時空を超えたものとつながっていると感じられるのかは、今この時代に創造されるコスモロジーにかかっている。
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