第1298回 古代、東海と福井と近江の関係(1)。

 朝7時、うっすらと雪化粧の富士山麓を出発して、高速道路を使わず走り続け、13時間かけ、夜8時に京都に着いた。

 高速道路を使わない方が、それぞれの地域の地理上の関係や、地質的な特徴が掴みやすい。

 車の運転は、ずっと運転ばかりしていると疲れたり眠くなるのかもしれないが、途中で、気になる場所を探検する時、けっこうテンションが高くなり、その後はすっきりした気分で運転ができる。聖地の波長と心身の波長がシンクロすると、エネルギーが高まるのかもしれない。

 今回、気になって立ち寄ったのは、岐阜県の大垣周辺。古代、濃尾平野は海の下で大垣あたりが海岸線だったようで、だとすると、大垣は、太平洋と日本海を結ぶ最短距離の場所となる。

 大垣には、荒尾南遺跡という弥生時代の巨大集落遺跡がある。残念ながら今は、高速道路の大垣西インターチェンジがあり、ループ状の高架高速道路の光景に圧倒され古代をしのぶことは難しいが、この遺跡からは、方形周溝墓74基と、82本のオールを持つ大型船が描かれた弥生土器が見つかっている。

岐阜県庁より

 古代の面影が微塵もない荒尾南遺跡から北側に、異様な形に削り取られた山が見えるが、日本一の石灰石生産地と知られる金生山だ。

 そして、ここには、かつて露頭の赤鉄鉱の鉱脈が、東西200m、幅40m、高さ8m以上の台形状に存在していたが、太平洋戦争の時に日本軍によって採掘され、軍艦などの製造に使われた。

 古代、この地の鉄資源が、壬申の乱大海人皇子天武天皇)の勝利を導いたとも言われる。

 この金生山のすぐそばに岐阜県最大の古墳である昼飯大塚古墳がある。

 墳丘長150mの前方後円墳なのだが、後円墳の頂に、竪穴式石室と、粘土槨と、木棺直葬に被葬者が埋葬されている。大型前方後円墳に3人の被葬者が埋葬され、それぞれ異なる埋葬施設を採用するという例は非常に珍しい。

左:昼飯大塚古墳 右:粉糠山古墳

 この昼飯大塚古墳から西に500mほどのところに、東海地方で最大の前方後方墳の粉糠山古墳があり、この二つの異なるタイプの古墳は、ほぼ同じ時期の4世紀末から5世紀前半に築造されたと考えられている。

 そして、この二つの大型古墳から冬至のラインを東に7kmほど行ったところに、岐阜県揖斐郡大野町の上磯古墳群があり、この中の笹山古墳が、1昨年の調査で、2世紀末~3世紀初めに築造された日本最古の可能性が出てきた前方後方墳だ。

 上磯古墳群には、笹山古墳の後に築造された南山古墳と北山古墳があるが、この二つの前方後方墳は、それぞれ、冬至の日没と夏至の日没の方向に向けられて作られており、冬至夏至が意識されていたことがわかる。

 上磯古墳群のある場所は、濃尾平野の三大河川の一つ揖斐川濃尾平野に入ったところの三角州であり、揖斐川は遡ると冠山に到り、冠山の逆側から日本海に向けて、足羽川福井市日野川鯖江市を通り、この二つの川は九頭竜川に合流して日本海に注ぐ。

 九頭竜川の源流は白山で、油坂峠を越えると長良川に接続して濃尾平野から伊勢湾へと注ぐが、このルートは、織田信長が加賀の一向一揆を征伐するために通ったルートだ。

 福井と濃尾平野は、揖斐川長良川で、深く結ばれている。

 福井県鯖江市に北陸一の古社である舟津神社が鎮座しており、ここは古代において海人と関わりの深い「丹生郡」だったが、この神社の裏に王山古墳群がある。

 ここには49基もの古墳が集中している。この古墳群では、弥生時代の4基の方形周溝墓が調査されていて、3号墳から出土した土器が、東海や近江とのつながりを示している。

 この王山古墳群から真南(東経136.18)に85kmのところが東近江の神郷亀塚古墳であり、この古墳は、上記に書いた笹山古墳の2年前の調査までは日本最古の前方後方墳と考えられていた。この神郷亀塚古墳の近くに、弥生時代の最大規模の鉄工房跡が見つかった稲部遺跡がある。

 この神郷亀塚古墳は、岐阜の上磯古墳群から冬至のラインで西に50kmのところだが、神郷亀塚古墳から冬至のラインで西に50kmのところが京都の向日山で、ここには、弥生時代の高地性集落の隣に、3世紀中旬から後半に築かれた、当時の古墳の中でも最大規模の前方後方墳である元稲荷古墳がある。この向日山は、弥生時代の銅鐸の製造場所や、縄文時代の石棒の製造場所があったところで、後に、継体天皇によって弟国宮が築かれ、桓武天皇によって長岡京が築かれた。

 そして、この元稲荷古墳から冬至のラインで西に50kmのところが、神戸の灘区にある西求女塚古墳で、これは、向日山の元稲荷古墳と同じ時期、同じ大きさ、同じデザインの前方後方墳だ。この古墳の近くには、14個の銅鐸(どうたく)と7本の銅戈(どうか)がまとまって出土した弥生時代の桜ヶ丘遺跡がある。

 さらに、近くの篠原縄文遺跡からは、東北地方で多く出土する遮光器土偶の特徴的な目の部分と、東日本に多い石棒が出土している。

 西求女塚古墳から出土している祭祀用の土器は、山陰地方のもので、古墳の石材は、徳島や和歌山のものが使われている。

 不思議なことに、重要な前方後方墳が、冬至のラインにそって50km間隔で作られており、それぞれ、遠方地域との関わりを示すものがあったり、弥生時代の集落遺跡と隣接している。

 さらに、京都の元稲荷古墳から真東に125kmmほどのところ、愛知県安城市の18基からなる桜井古墳群があり、この中の二子古墳は墳丘長68mを誇る愛知県最大の前方後方墳だ。ここもまた弥生時代の巨大集落と隣接しているのだが、矢作川のほとりに位置している。

 古代、三河湾と信州を結ぶ塩の道は、矢作川にそって伸びていた。

 そして、この桜井古墳群の場所は、福井の王山古墳群と、日本最古の前方後方墳のある岐阜の上磯古墳群を結ぶライン上で、それぞれのあいだは、約68kmである。

 福井の王山古墳群の中の方形周溝墓である3号墳から出土した弥生式土器が、東海や近江とのつながりを示しているが、土器だけでなく、地理上の計画的な配置にも、これらの地域の密接なつながりが確認できる。

 弥生時代につながっていた場所が、前方後方墳でもつながっている。

 そして、神戸の西求女塚古墳の場所は、古代の重要な港で、京都の向日山の元稲荷古墳のところは、桂川宇治川、木津川の合流点に近く、愛知県安城市の桜井古墳群のところは、太平洋と信州を結ぶ塩の道。福井の鯖江の王山古墳のあるところは舟津神社が鎮座し、海人と関わりの深い「丹生」の地。東近江の神郷亀塚古墳のあるところは、なぜか「愛知」と名のつく愛知川のほとりで、愛知川の源流の鈴鹿山を抜けると伊勢湾、また東近江の琵琶湖の対岸は、近江高島で、若狭湾の小浜に通じるルートという交通の要所である。

 このように、弥生時代から初期の前方後方墳とつながるところは、どこも水上交通の要に位置している。

 

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