第1300回 古代のコスモロジーと、国譲りの神話との関係

伊豆下田の伊古奈比咩命神社)

 1月31日に東京から京都に移動する時、前から気になっていた岐阜の大垣あたりを探求し、東海と福井と近江から京都や神戸にかけて、古代、深いつながりがあり、そこに前方後方墳が関係しているらしい、ということを、前回と前々回のブログにまとめた。

 その中で、神戸の巨大前方後方墳の西求女塚古墳の近くから、縄文時代、東北地方から多く出土している宇宙人のような遮光器土偶の特徴的な目と石棒が出土していることを書いた。

 遮光器土偶は、アラハバキ神とも重ねられることが多いのだが、神戸の西求女塚古墳は、以前にも紹介したけれど、冬至のラインで、諏訪を通って、福島第二原発がある場所の天神原遺跡までつながっており、このライン上に、縄文時代の重要な遺跡が数多く存在する。

 そして、福島の天神原遺跡は、弥生時代における東日本最大の集団墓である。

 この天神原遺跡からまっすぐ北にラインを伸ばすと、奥羽山脈を通り、北海道の余市に達するが、このライン上にも、ストーンサークルが集中するほか、縄文時代の重要な遺跡が並んでいる。(国宝の中空土偶なども)。


 そして、この地図上の紫のマークが、遮光器土偶が出土した場所で、そのなかで宮城県大崎市の恵比須田遺跡は、日本最北端の前方後方墳である京銭塚古墳(水色マーク)のすぐそばで、その南の黒いマークが、多賀城の荒脛巾(アラハバキ)神社だ。

 地図上の水色のマークが前方後方墳だが、福島の海岸部でもライン上にそって幾つか存在し、天神原遺跡と、伊豆の伊古奈比咩命神社(白濱神社)をつなぐラインにおいては、筑波山のところに前方後方墳が集中している。

 筑波山は、古代、その麓まで海であり、現在の霞ヶ浦は広大な内海で、その出入り口が、現在の鹿島神宮香取神宮のあいだだった。つまり、筑波山も、古代は、海上ルートの重要拠点だった。

 そして、天神原遺跡から筑波山を通るラインの終点、伊豆の伊古奈比咩命神社には、縄文時代からの祭祀遺跡が残る。

 伝承によると、三嶋神は南方から海を渡って伊豆に至り、白浜に宮を築いて伊古奈比咩命を后として迎えた。その後、島焼きによって、神津島、大島、三宅島、八丈島など合計10の島々を造り、三宅島に宮を営んだ後、下田の白浜に還ったとされる。

 興味深いことに、この伊古奈比咩命神社は、神戸の西求女塚古墳の真東で、その距離は340km。そして、古代の海上交通の拠点だと思われる福島の天神原遺跡から、下田の伊古奈比咩命神社までも340km。さらに天神原遺跡の真西が、能登半島の有名な縄文遺跡である真脇遺跡となるが、その距離も340km。真脇遺跡から神戸の西求女塚古墳までも340kmで、この4点を結ぶと正確な菱形になる。そして、その対角線を結んだところが諏訪湖なのだ。

諏訪湖

 諏訪湖は、中央構造線フォッサマグナ糸魚川・静岡構造線という日本列島を東西南北に引き裂く大断層の交差する場所でもある。

 諏訪の御柱は、いったい何を象徴しているのか謎であり、様々な説があるが、能登半島真脇遺跡は環状木柱列が有名で、その形状から諏訪の御柱とつながっていると指摘する学者もある。この真脇遺跡からは、大量のイルカの骨が発掘されている。

 そして、真脇遺跡と神戸の西求女塚古墳を結ぶラインの福井の海岸線に、前方後方墳が、数多く建造されており、古墳群の場合は、もっとも古い古墳が、前方後方墳となっている。

 昨日、紹介したように、諏訪と西求女塚古墳を結ぶライン上で、岐阜から神戸にかけても、極めて古い前方後方墳が建造されており、前方後方墳は、この幾何学模様と深い関係がありそうな気がする。(前方後方墳は、水色のマーク)。

 こうした規則性が、偶然なのか、それとも計画的なのかはわからないが、地図を見るだけで明らかに一つのコスモロジーを表していることが、歴史の専門家でなくても感受できる。

 弓なりの日本列島の真ん中に、正確な菱形図形が描かれ、そこから一本のラインが真北に伸びて、奥羽山脈にそって東北を縦断し、北海道の余市に到る。もう一本のラインは、冬至の日没ラインで本州を二つに分断し、福島から九州まで伸びているが、なんとドンピシャで高千穂神社に到っている。

 高千穂は、日本神話ではニニギの天孫降臨の地とされる。

 おそらく、ニニギという存在が九州の高千穂の地に降臨した史実があったわけではないだろう。

 ニニギは、日本という国を秩序化していくにあたっての象徴であり、その起点として、高千穂が選ばれた。つまり、古代人は、ここに示している秩序的な地図が頭の中にあったのではないかと思われる。

 ニニギは、まず最初に、コノハナサクヤヒメと結ばれるが、コノハナサクヤヒメというのは、記紀のなかで、別名が神吾田津姫(かみあたつひめ)とあり、これは、鹿児島の海人勢力の女神ということである。

 そして、吾田片隅命(アタカタスミ)の末裔が、宗像氏や和邇氏(後の小野氏)だ。

 また、コノハナサクヤヒメは、オオヤマツミの娘だが、オオヤマツミは三島神と同じで、伊豆の伊古奈比咩命神社の伝承の通り、海と関わりが深い。

(山の名がついているが、それは山の森林資源との関わりであり、オオヤマツミを祀る聖域の代表として愛媛の大三島があるが、ここもまた海上交通の要である。)

 次に、ニニギの子、山幸彦は、綿津見の娘である豊玉姫と結ばれる。

 綿津見の聖域は、北九州の志賀島で、ここは古代海人族の安曇氏の拠点である。

 山幸彦と豊玉姫のあいだの子がウガヤフキアエズで、ウガヤフキアエズと、豊玉姫の妹の玉依比売のあいだに生まれた子が神武天皇という設定になっている。

 つまり、神武天皇が史実かどうかはともかく、記紀が作られた時、日本の秩序化は、海人の存在を抜きにはありえなかったということだ。

 イザナミが死んで、イザナギが黄泉の国から逃げ帰り禊をする時もそうで、禊によって生まれたのが、綿津見三神住吉三神という、ともに海人と関わりの深い神で、その後に、アマテラス、月読神、スサノオが生まれている。

 古代日本には、二種類の海人が存在した。そして、この島国の秩序化には、海人の存在が欠かせなかった。

 諏訪湖は、中央構造線と、フォッサマグナ糸魚川・静岡構造線という日本を東西南北に分断する大断層が交差する場所でもあるが、不思議なことに、上に述べたように、重要な縄文遺跡や、古い前方後方墳が並ぶ福島の天神原遺跡と神戸の西求女塚古墳を結ぶ冬至のライン(600km)のちょうど真ん中であるとともに、日本神話の「国譲り」の舞台と関係する各聖域のあいだの距離においても、偶然とは思えない不可思議な事実が地理上に刻まれている。

 古事記には、アマテラス大神の命令で、フツヌシとタケミカヅチが葦原中國に使わされて大国主に国譲りを促し、大国主命は承諾したもののタケミナカタが最後まで抵抗するという内容が描かれている。日本書紀には、この記述がないので、おそらく古事記の描写は、史実ではなく何かしらの歴史的象徴を示していると思われる。

 そして、フツヌシよりもタケミカヅチが有名だが、当初、任命されたのはフツヌシであり、それに不満を訴えたタケミカヅチが副将として派遣されたことになっている。

 さて、フツヌシの最大の聖域は、霞ヶ浦に近い千葉県の香取神宮だ。古代、霞ヶ浦は、今よりも巨大な内海であり、香取神宮と、茨城のタケミカヅチの聖域の鹿島神宮のあいだが、その内海と太平洋海を結ぶ出入り口だった。

 次に、国譲りに最後まで抵抗したことになっているタケミナカタの聖域が、諏訪だ。

 古事記のなかでは、タケミナカタがもともと諏訪にいたわけではなく、タケミカヅチとの戦いに敗れて逃亡し、諏訪に辿り着いて、諏訪の地から出ないことを条件に許されるという展開になっている。

 この「諏訪から出ないことを条件に」というのが、いったい何を示しているのか、以前から気になっていた。

 そして、アマテラス大神の聖域は、言わずと知れた伊勢神宮だが、伊勢神宮諏訪大社のあいだは215kmで、諏訪大社香取神宮のあいだも215kmで同じなのである。

 さらに、大国主命の聖域である出雲大社から伊勢神宮までの距離が380kmで、伊勢神宮から香取神宮までの距離も380kmで同じである。

 国譲りの物語の主役である大国主命、アマテラス大神、タケミナカタ、フツヌシの聖域が、偶然とも思えない距離関係で結ばれている。

 出雲大社は、実は奈良時代以降に建造されたというのが学会での認識となっている。

 出雲大社周辺には、古墳をはじめとする古代遺跡が発見されていない。「出雲」という地名は、たとえば本州最南端の潮岬や、京都の下鴨神社付近とか亀岡とか全国的に見られるが、多くの人が「出雲国」だと考えている島根県で古代から栄えていた地域は、出雲大社より東の鳥取との境界の大山のあたりから松江にかけてで、このあたりに弥生時代からの史跡が数多く集中している。

 神社も、島根県松江市八雲町熊野に鎮座している熊野大社が、出雲地域を治めた出雲国造にとっての奉斎社だった。

 だから、おそらく、有名な「出雲大社」というのは、古事記が作られた後、神話の内容に基づいて、象徴的な位置決めがなされて建造されたのだろう。

 出雲大社の位置は、伊勢神宮との関係だけでなく、よく知られているものとして、房総半島の玉前神社を起点として富士山を通って東西にのびる「太陽の道」の西の端でもある。

 また、伊勢神宮の位置も、7世紀後半、天武天皇の時代、アマテラス大神を国家神とする際、政策的に決められた可能性が高い。

 というのは、数十年前に、NHKが近畿を横断する太陽の道として紹介した太陽のラインで、二上山三輪山といった古代の聖域を横切るラインの東の端の「伊勢」が、伊勢神宮だと思っている人が多いのだが、伊勢神宮よりも北の伊勢の斎宮跡にあたるからだ。

 三輪山二上山というのは古代からの聖域で、二上山縄文時代に各地に流通したサヌカイトの産地、三輪山の山頂には古代の磐座跡が残る場所なので、これらと結ばれる伊勢の斎宮跡こそが、古代からの聖域なのだろう。

 伊勢斎宮跡というのは、律令時代以降は、伊勢神宮のアマテラス大神に仕えるために派遣された皇室の女性が暮らした場所だが、この場所の北の四日市には現在も「采女」という地名が残るように、祭祀において女性が重要な役割を負っていた古代に、伊勢斎宮跡あたりが聖域で、それが、律令時代になってから、アマテラス大神に仕えるための場所になった可能性がある。

 伊勢神宮の入り口にあたる宇治橋は、冬至の日に真ん中から太陽が昇る場所として知られ、多くのカメラマンや観光客がその一瞬をシャッターに収めようと集まるが、この宇治橋よりも京都の宇治市宇治橋の方が歴史が古いことがわかっている。

 おそらく、現在の伊勢の聖域は、天武天皇以降、律令時代の始まりにおいて、新しいコスモロジーを整えるために神話がつくられ、それに基づいて、出雲大社と同じく場所決めがなされ、整えられていったのだろう。

 それに対して、諏訪は、縄文時代からの重要な聖域であったことが考古学的にもわかっている。

 だとすると、国譲りに関わりのある神々の聖域である伊勢神宮出雲大社などの配置は、諏訪を意識して決められたのかもしれない。だから、それぞれの距離が等しくなっている。

 諏訪は、律令時代のはるか前、能登半島真脇遺跡、福島の天神原遺跡など縄文や弥生に遡る聖域を結ぶ菱形図形の対角線の交わる場所であるとともに、福島の天神原遺跡から神戸の西求女塚古墳までの冬至のライン(600km)の真ん中であり、このライン上には、縄文時代の重要遺跡が多く存在する。

 つまり、律令制の始まりにおいて、日本地図の上に、出雲大社伊勢神宮など、新しいコスモロジーに基づいた聖域が刻まれたわけだが、諏訪というのは、縄文に遡る時代から続くコスモロジーの要に存在しており、律令の時代においても、そのことは認識されていた。

 だから、国譲りに最後まで抵抗したタケミナカタは、諏訪の地から出ないことを条件に許された。

 これが意味するところは、新たな征服者がタケミナカタを諏訪の地に閉じ込めたということではなく、諏訪の地を、律令時代以前からのコスモロジーを連綿と伝えていく場所として、尊重していたということだろう。

 国譲りの神話というのは、新勢力による制服戦争を伝えているのではなく、コスモロジーの転換を伝えている。

 タケミカヅチ大国主に国譲りを迫る時の台詞は、「ウシハクという一人の強いものが全てを牛耳る世の中ではなく、シラスという、知恵を共有する世の中にすべきだ」であり、これは、はるか古代に起きた出来事ではなく、推古天皇の時代に施行された憲法17条の第1条と第17条で、念押しをするかのように強調されている独断の禁止や、党派を作らず、話し合いよって物事を決めていくべきだという精神と同じである。

 古事記には、推古天皇の時代までの出来事が書かれている。

 そして、初代神武天皇の即位は、「辛酉年1月1日」とされている。

 この1月1日は旧暦であり、現在にあてはめると2月11日で、だからこの日が建国記念日と決められた。

 辛酉というのは、古代中国にはじまる暦法上の用語で、60年単位となる。

 甲・乙・丙・丁・戊・己・庚・辛・壬・癸の十干と、干支の12支の組み合わせだが、辛と、酉の組み合わせの年は革命的な年とされ、推古天皇9年の西暦601年が、その辛酉の年である。

 そして、この60年サイクルの21回目の繰り返し(1260年)で大革命が起こるというコスモロジーにしたがって、推古天皇の時代の西暦601年から1260年遡った紀元前660年が、神武天皇即位の「辛酉年1月1日」ということになった。

 そう決めたのは明治政府だが、現実的には、紀元前660年は縄文時代末期であり、神武天皇より以前の大国主命やスクナヒコが行った国作りの描写が、縄文時代ではなく弥生時代以降の社会の変化を示しているように思われるので、紀元前660年に日本国が建国されたというのは、ありえない。

 そしてヤマトの時代とされる西暦3世紀後半以降も、文字もなく、法的整備もなされていない状態ゆえに、ヤマト王権という統一王朝が実現されたとする考えには賛同しずらく、各地域を治める実力者が、中世の戦国時代のように覇を競い合っていたのではないかと思われる。

 4世紀末から巨大化していった前方後円墳の副葬品に、馬具や莫大な数の鉄製の武器が見られるようになるのは、ヤマト王権の支配を示しているのではなく、地域を治め、守る上で、それらの武器を調達し用いる力が重要で、それができる人物がリーダーになったことを示しているのだろう。

 日本という国が一つのまとまりを示していくようなるのは、朝鮮半島の東側の場所にいた勢力が、高句麗を南側から牽制したい中国王朝の支援を受けて興隆し、503年に「新羅」という正式な国号を発表した頃からだろう。

 この「新羅」に対抗するために、突如、天皇に即位することになったのが第26代継体天皇であり、継体天皇は、現在の天皇が血統を遡れる最も古い天皇である。

 即位した継体天皇は、新羅を討伐するために6万という軍勢を送ろうとしたが、九州で磐井の乱が起きる。反乱者とされる磐井の古墳とされるのが、九州最大級の前方後円墳である岩戸山古墳だが、この古墳は全長135mもあり、継体天皇の古墳とされる高槻の今城塚古墳が190メートルだから、同じ時代に対立した二人の王の墓の規模は、そんなに違いはなく、しかも、どちらも前方後円墳だ。

 つまり、前方後円墳は、ヤマト王権を象徴する古墳ではなく、以前にも書いたが、一人の実力者が独裁的な力を持って地域を治めるというコスモロジーに基づく古墳なのだ。

 それに対して、弥生時代、複数の被葬者が埋葬されていた方形周溝墓の発展形と思われる前方後方墳は、独裁的ではないコスモロジーで治められていた地域の古墳なのではないだろうか。

 この違いは、地域の産業の形態の違いによって生じる。同じ農業でも、粗放農業や狩猟採取(日本の縄文時代は、獣を狩ることより魚や貝からタンパク質をとり、森の中から様々な植物を採取していた)を基本とするところは女性が果たす役割が大きく母系社会であるのに対して、放牧や集約農業になっていくと父権社会になっていくという研究報告もある。水の管理や、水をめぐる争いが発生すると、強力なリーダーシップが求められるからだろう。

 複数の古墳が集中する古墳群において、最も古い古墳が、前方後方墳であることが多く、その後、前方後円墳になっていく傾向があるのだが、そのことについて歴史学会は、ヤマト王権の支配地域が広がったからだとする。

 しかし、そうではなく、時代が進むにつれて、粗放農業や狩猟・採取といった営みから集約農業を基本とする社会へと移行していったことによって、地域のリーダー像が変わっていったとは考えられないだろうか。

 こうして全国的に広がっていった前方後円墳は、継体天皇が即位した6世紀になって少しずつ作られなくなり、継体天皇の息子の欽明天皇の時には、近畿の飛鳥に300mを超える巨大な前方後円墳(丸山古墳)が一つだけ作られ、あとは、関東と九州にだけ作られるようになる。

 おそらく、この時になって初めて、一人の王(欽明天皇)の力で治める地域が、関東以東と九州を除く全体に広がったのではないかと思われる。(この頃に、天皇の直轄地とされる屯倉などが増える)

 しかし、6世紀後半、絶対的王になろうとした穴穂部皇子を支援する物部氏と、それを阻止しようとした蘇我氏との対立を経て(教科書で習うような仏教をめぐる対立ではない)、憲法17条が制定された時代以降、前方後円墳は一切作られず、政治リーダーの墳墓は、方形になる。

 推古天皇用明天皇蘇我馬子などの墓は方形だ。このことについて歴史学者は、方形は、蘇我氏関係者の墓だと説明するが、そうではなく、墓制の変化は、コスモロジーの変化を反映している。

 つまり、弥生時代の方形周溝墓の時と同じく、そして憲法17条によって示されているように、「独裁ではない方法での統治」を、推古天皇の治世が志したということだ。

 つまり、これが、大国主に対して国譲りを促すタケミカヅチの言葉、ウシハクからシラスへ、ということになる。

 神話のなかの神武天皇即位の年は、「辛酉」とだけ記されているが、推古天皇の時代の601年も「辛酉」である。

 記紀の編者が、建国の年と考えたのは、奈良時代から1300年も前の出来事に対してではなく、推古天皇の時代を、歴史の転換ととらえたのだろう。

 だとすると、これまでの歴史認識だと、ヤマト王権の前に大国主命の時代があり、その後、国譲りがあって天孫降臨が行われたと思われているが、ヤマト王権の時代とされる紀元3世紀後半から6世紀にかけてが、神話上の大国主命の時代ということになる。 

 大国主命の時代は、強いものが全てを牛耳る社会=ウシハクであり、それゆえ、前方後円墳は、大国主命の時代を象徴する墳墓ということになる。

 前方後円墳が最も多い都道府県は、多くの人にとって意外なことに、大阪や奈良ではなく千葉県であり、群馬県茨城県といったところがそれに続く。

 しかし、関東の前方後円墳は、畿内ではほとんど前方後円墳が作られなくなった6世紀以降に増えている。

 この事実は、6世紀になってヤマト王権の支配が関東で強まったということではなく、前方後円墳に象徴される統治手法=コスモロジーが、その時代に関東に広がったということだろう。

 だからかどうか、関東に特徴的な神社で、東京都・埼玉県近辺に約280社ある氷川神社の祭神は、須佐之男命、大国主命櫛名田比売(くしなだひめ)の出雲系の神様である。

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