第1307回 古代、東国は、本当に後進地帯だったのか!?

 明日の3月4日に行う「現代の古代のコスモロジー」のワークショップセミナー。本日、風邪を引かれた方のキャンセルが出ましたので一名の空きがでました。
 今回は、武蔵国(東京とその周辺)を掘り下げます。
 一般的な歴史認識だと、日本の歴史は近畿を中心に進んできて、関東は遅れていたとされるが、この歴史観は、そろそろ見直す必要があるんじゃないかと思う。
 たとえば前方後方墳にしても、日本で一番多いのは千葉県(733)、その次が茨城県(455)、第3位が群馬県(391)で、4位の奈良(312)以下を引き離して関東が圧倒的に多い。
 しかも、大和政権発祥の地と教わってきた奈良盆地の纒向地方に現れた初期前方後円墳と、同じ頃、同じタイプの古墳が、千葉県の市原市に現れている(神門古墳群)。
 縄文時代は、北海道から東北、そして群馬、長野、関東といった東日本の方が圧倒的に栄えていたことはわかっているのだが、弥生時代、稲作が西から入ってきたというイメージに支配されているため、東国が後進国というイメージが定着した。
 しかし、普通に考えれば、日本は現代でも国土の70%が山岳地帯だが、古代の海面はもっと高く、大阪平野濃尾平野などは海に覆われていた状況であり、広大な関東平野がある東国が、未開拓に放置されていたはずがない。
 その関東に米を作らせ、近畿の権力者がそれを搾取したと考える人もいるかもしれないが、一権力による数百年に及ぶ支配が不可能なのは、その後の歴史を見ればわかる。
 日本の古代史に東国があまり登場しないのは、歴史を記録してきたのは近畿の朝廷だが、東国が、それとは異なる原理で動いていたからかもしれない。
 史実としても、壬申の乱の時、天武天皇は、東国の力を得て勝利することができたとある。
 古代中国においても、『史記』など歴史を記録していたのは漢など中国王朝で、北方の匈奴を討伐するというストーリーで歴史が書かれているが、実際には、匈奴に対して毎年のように貢物を届けていた。匈奴の方が、圧倒的に強かったのだけれど、匈奴が文字を持たなかったために、その史実が後世に伝わらなかった。
 日本においても、似たようなことがあった可能性がある。
 7世紀頃、日本における古代の歴史を文字化していたのは、主に近畿(河内や奈良)に移住していた文人(ふみひと)と呼ばれる渡来人である。
 文字に記録されていない歴史を掘り起こすためには、その土地に刻まれている記しを解いていくしかない。
 そして、日本という国の特殊性は、土地に刻まれた古代の記しを、ずっと残し続けていることなのだ。
 神社の場合、立派な本殿は、多くが後から入ってきた神様だが、土地の古い神様は、末社や摂社に残されている。
 古墳の場合、異なるコスモロジーを反映した形の違う古墳が、隣り合うようにして残っている。(後から古墳を築いた者が、前の古墳を破壊して石材などを再利用するといったことを行なっていない)。
 新旧の勢力の出会いが、アラハバキ神のように、抽象的な形で後の時代に引き継がれている。
 そして、地理や地勢を、キーワードのように活用している。特に、関東では富士山、筑波山男体山など遠くからでも望める目立つ山と、聖域の位置関係が、メッセージを共有するためのように意識的に行われている。
 それらは、一種のコスモロジーとして、現代でも確認できる。
 歴史の専門家でなくても、そのコスモロジーに触れて、そのコスモロジーを構成する一つひとつの事実を確認することができる。
 歴史研究の専門家たちが行なっているような、正しい答えを求めるための議論は不要である。
 なぜなら、土地に刻まれた記しは、事実としてそこにあるだけであり、その事実を確認するだけで、あまりにも不可思議な、しかし、動かしがたいものとして、歴史が浮かび上がってくるからだ。
 あとは、その事実を、どう受け止めるかだけの問題となる。

__________________________________________________________________

ピンホール写真とともに旅して探る日本古代のコスモロジー

Sacred world 日本の古層Vol.1からVol.3、ホームページで販売中。

http://www.kazetabi.jp/