第1316回 身体性が伴った写真について

前回、今年度の写真界において、新田樹さんが木村伊兵衛賞林忠彦賞のダブル受賞をしたことを書いたが、土門拳賞は、船尾修さんが受賞した。

 本人にも伝えたけれど、船尾さんの受賞は予想通りだった。そもそも私は、数年前の「フィリピン残留日本人」が土門拳賞を受賞するだろうと思っていたのに、巡り合わせが悪く受賞とはならなかったが、船尾さんの近年の仕事の積み重ねを考えれば、今回の受賞は自然の流れだった。

 写真家を志す人が、船尾さんを、いわゆる「写真家」という枠組みに入れて手本にしようとすると、間違ってしまう。

 船尾さんは、はっきり言って、「写真が上手い」人ではない。

 土門拳賞の審査員をつとめている大石芳野さんだって、恐れ多くて公言する人はあまりいないようだが、はっきり言って、「写真が上手い」人ではない。

 昔のマニュアルカメラならば、写真家は、被写体の動きを読み、シャッター速度や露出やピント合わせなどを瞬時に行うアスリートのような反射神経や運動能力に優れている必要があったかもしれないが、高性能カメラを使えば誰でもそれなりにうまく撮れる現代において、そうした能力は、もはや特別なものではなくなってしまった。

 技術的に誰もが同じ場所に立てるのであれば、あとは、その人の問題意識とか行動特性、継続性や一貫性、生き方そのものが反映された世界観が、写真の違いとなってくる。 

 アイデアや目の付け所といったものは、一時的に世間の人々に受けることがあっても、消費財と同じですぐに過去のものとなるが、継続的に人々の心に残り続けるものは、やはり、人間や世界の本質に対して、人間の意識を導く力がある。

 船尾さんと私は、1980年に茨城県の田舎の大学に入学した。今では学園都市としてショッピングモールなどもあって少しは華やいだ雰囲気も出ているようだが、当時は、日本で一番大きな村、桜村だった。

 大学に入学する前は、二人とも明石海峡を目の前にする海辺で育った。私も船尾さんも20歳までは、同じような風景を見て生きていたことになる。

 私は、大学の雰囲気に馴染めず、20歳で退学して世界放浪の旅に出てしまった。

 船尾さんも、大学の雰囲気に馴染めなかったようだが、我慢して、アルバイトをしてお金を貯めて、大学を卒業したら旅に出ると決めていた。そして、その計画どおり、とりあえず就職したものの、わりとすぐに辞めて、大学時代に考えていたように世界に出た。

 二人とも、ドロップアウトの人生となったわけだが、少年時代に育った海辺の広々とした空間と、大学時代の閉塞した空間のギャップが、その後の人生の舵取りに影響を与えた可能性がある。

 つまり、安定しているのかもしれないが狭く閉じた水槽のような世界では、苦しくて生きていられず、多少の危険があっても大海原や清流の中を泳ぎたいという感覚。

 船尾さんは、アフリカでピグミーの人たちと生活をともにしながら現代文明の問題について深く考え、考えるだけでなく、国東半島のど真ん中の100年前の家に移住して、米作りを行いながら、国東半島の歴史と文化を掘り下げていくというライフワークを実践していったところが本物である。

 少し前は、商標権付きビジネスの材料にすぎなかった「ロハス」とかなんとか、現代では、舌を噛みそうなSDGs云々。よくもまあ、消費文明の生活にどっぷりと浸りながら口先ばかりのタワゴトを繰り返せるものだと呆れてしまうが、船尾さんは、その種の環境問題の流行とは無関係に生きていた。

 18年くらい前になるのか、国東半島で船尾さんが住んでいた100年前の家に泊まった時、今も覚えている話が二つあって、一つは、指を指して、「そこに、昔の登山仲間が山で亡くなって知らせに来たよ」と言ったこと。

 国東半島に行くことになったのは、私が船尾さんが撮り続けていた国東半島の写真を風の旅人で掲載するためにセレクトして組んだところ、何の説明も受けずに写真だけを見て組んでいたのに、不思議にも、関連地や隣接地や祭祀の順番などが適切に組まれていると船尾さんが驚き、同じ頃、田口ランディさんが編集部に来た時に、それらの写真を見せたところ、ケベス祭りで仮面をつける写真を見た瞬間、「ゲゲッ」と異様に驚き、没入してしまったこと。

 それで、タイミングよく、ケベス祭りが開催される直前だったので、これは何かあるぞ、一緒に行こうということになって国東半島に飛んだ。

 そのケベス祭りの当日、祭りの前の禊の段階から祭り関係の人たちに同行していたのだけれど、禊場に向かった長い道のりを歩いている時、ランディさんが、妙に馴れ馴れしく一人の男性とくっついたまま昔からの知り合いのように歩いていて、祭りが始まったら、その人が仮面を付けて舞う人だったので驚いた。もちろん、我々は事前にそういうことを知らなかったのだが、ランディさんは、編集部で、「ゲゲッ」と驚いた時から、何かに出会ってしまっていたのだろう。

 そういえば、あの時、作家の田口ランディさんを連れていっていて、3人で国東の聖地を歩いている時、ランディさんが、突然、真っ青な顔をして、ここに戦いに敗れた隼人が埋められていると言い、弔って祓わなければいけないと、ものすごく大きな声で般若心境を読経したのだけれど、船尾さんと私は、その行為自体がとても怖くて震撼した。

 その後、宇佐神宮の奥宮にあたる御許山に三人で登り、頂上付近で、ランディさんが、きっと湧き水の出る場所があるはずだ、ボトルに入れて持って帰りたいと言う。船尾さんは、「何度か来ているけど、そんなのなかったなあ、頂上付近なので、ないんじゃない」と返し、「そうなのかあ、しかたないなあ」と、気持ちの良い天気だったので、三人で、神楽殿のようなところがあったので、その上で寝転んでいた。

 すると、親子連れ三人の姿がすぐそばにあり、何も聞かないのに、「あちらから登ってきたのですが、あそこに湧き水が出ていますね」と言う。

 ランディさんは、「ほら、やっぱりあるじゃない」とか言って、三人で湧き水を飲みに行って戻ってきたら、その親子連れの姿はない。

 山を登ってきてすぐに下山したのか、下山するにしても、他に道はあるの?、あれって一体なんだったの? とブツブツ言っていたけれど、気候がまったりとして、いい感じで、その心地よさに、不可思議な感覚も溶け込んで消えていった。

 御許山の登山じたいが白日夢の出来事のような、国東半島の中で過ごした時間そのものが、白日夢の出来事のような、当時は、そうした異界の扉が少し開いていたような気がするが、今はどうなのだろう。

 それはともかく、船尾さんの話で印象的だったもう一つのことが、「農業の新参者が、地元の人から水を分けてもらうための苦労」。現在では、国や自治体が地方移住のための手助けを色々な形で行なってくれるが、当時は、そんな仕組みはなく、全てを、自らの手で整えていく必要があった。

 もちろん、細々とした農業だけでは生計を立てていくことができないので、船尾さんは、世界の高峰の登山ガイドをしながら、やりくりをしていた。

 船尾さんの一貫性は、この身体性にある。人は頭の中で色々考えることができるが、頭というのは、生身の現実とズレていても、生身の現実を頭に従わせようという傲慢さがある。

 身体というのは、生身の現実から遊離することはできない。そして、生と死という人間にとって究極の生身の現実に関する問題は、頭でいくら考えても割り切れるものではないということを、頭は、わかっていない。

 技術的には全ての人が同じ土俵に立てる写真表現分野において、違いを産み出せるとしたら、この”身体性”にあると私は思う。

 この”身体性”こそが、頭でっかちの文明社会の問題を乗り越えていくための鍵なのだから、写真家の存在意義も、そこにあるだろう。

 ”身体性”というのは、人と人が触れ合うように、人と被写体が向き合うということでもある。

 頭というのは、自分が対象を整理しやすいように対象を典型の枠組みにはめて処理しようとするため、それぞれが醸し出す機微は、無きものとして扱われることが多い。

 明確であるというのは、物事の機微を削ぎ落として単純化しているだけにすぎず、身体性からは、もっとも遠い感覚だ。

 実際に物事に触れてみれば、言うに言われぬ微妙なことがわかる。「ものごとがわかる」というのは、そうした身体性を伴った感覚であり、近代という視覚重視の特殊な時代において、写真家に重要な役割があるとすれば、視覚という直接的に触れることのできない感覚を通して、ともすれば消え入りそうになる人それぞれの身体性を取り戻す力にあるのではないだろうか。

 そして、そのことを実践できる写真家というのは、技術を磨くことよりも、身体性に基づく暮らしを磨きあげている人であろう。 

 身体性に基づく暮らしを磨き上げている人というのは、時代環境がどんな風になろうとも、まったく動じることなく、生きていける。

 船尾さんは、きっと自分のことを、そう思っているはずだ。

 本当の自信というのは、人と比べて得られるものではなく、周りがどうなろうが、生きていけるという気持ちと、悔いなく死んでいけるという感覚に宿るものだろう。

https://kazetabi.hatenablog.com/entry/20090118/1232245207

 ここに添付した「必死さとか、真剣さとか」のブログ文章は、2009年に船尾さんが編集部に来た時に話したことだが、この中にも"身体性"に通じることが書かれている。

 

 

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