第1317回 苦海と浄土がつながるコード

今年に入ってから、現代と古代のコスモロジーというワークショップセミナーを行っており、次の5回目を4月22日(土)と23日(日)で計画している。

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 教科書で書かれているような、もしくは陰謀論のような歴史解読をやろうという気はまったくない。

 コスモロジーという言葉を使っているのは、今、まさにそのコスモロジーの転換期にきているからだ。

 近代合理主義というのは、自己と他者を厳密に区別するコスモロジーに基づいていたが、これは、人間特有の根源的な思考ではない。

 20世紀の最高の知性である文化人類学者のレヴィ=ストロースは、人間特有の根源的思考を「野生の思考」と名付け、その方法論は、近代合理主義的なエンジニアリング的な思考ではなく、ブリコラージュ的思考であるとした。そして、その思考は、決して未熟で粗野なものではなく、極めて精緻なものであることを彼は理解していた。

 そして、自己と他者を厳密に区別する思考に慣らされてしまっている現代人は、根源的に備えているはずのCOMPASSIONという感覚が、自我によって歪められて、引き裂かれてしまうことがある。

 一般的には、思いやりとか慈悲心と訳される COMPASSION。

 COMと PASSIONの造語になっているが、語源のラテン語では、ComとPatiであり、passionではなくpatienceに真意がある。

 つまり、 Com-patience「一緒になって苦難のなかで耐える」という意味になる。

 他者の苦難も、世の中の苦難も、自分ごとであるということ。

 20世紀文学で後世に残すべきものの筆頭に挙げられるのは、石牟礼道子さんの『苦海浄土』だと思うが、苦海と浄土という両極にある境地を重ね合わせたこの言葉は、世紀末的な兆候が次々と起きる時代を生きる人々に対する意味深い啓示である。

 石牟礼さんは、水俣地方の言葉として、「悶えて加勢する」という言葉を紹介している。

 COMPASSIONと意味合いは同じだが、加勢という言葉は、苦難に対して受け身ではなく、より積極的な働きかけを示している。

 そこには、苦海=浄土という究極の転換を目指す心の動きが感じられるが、「禍福は糾える縄のごとし」とか、「災い転じて福となす」といった言葉のように、歴史的に幾たびも大震災を経験してきた日本人は、そうした転換を、生きる知恵に昇華させてきており、Com-patienceを、当たり前のこととして心に備えている人は多い。

 それは、2011年の東北大震災の際にも、色々な場面に顕れ、世界の人々から賛嘆されるものであった。

 「悶えて加勢する」。起こっている事態を自分ごととして、助太刀をすること。自分ごとだから自分も苦難を共有する。大事なことは、どんなに小さなことでもいいから、何か具体的な動きをすること。

 奈良時代天然痘の流行によって人口の半分が失われたとされる頃、聖武天皇は、行基の助けを得て盧舎那大仏を作ることになったが、その時、「大仏をつくる詔」のなかで、「国家権力によって作るのではなく、一本の草や一握りの土といったわずかな力でも、自発的に協力しようという者がいれば、ともに廬舎那仏を造ろう」と呼びかけた。

 作られた大仏によって国が救われるのではなく、大仏作りのために加勢するという多くの人々の心の働きじたいが、窮状からの救いであると考えたのだ。

 現代の世界の特徴は、自分に直接的に降りかかってくることは自分ごとになるけれど、世の中で起きていることが、自分ごとになりにくいところにある。

 それは近代的自我が、自分と他者とのあいだに大きな壁を作ってきたからだろう。

 レヴィ=ストロースは、文化人類学という他者理解の方法について深く考え抜いた人だが、他者を外から客観的に見て整理分類する理解の仕方の傲慢さについて、強く意識していた。

 彼は、文化人類学の研究対象である人々と長く一緒に暮らしながら、他者を自分と区別せず、なんらかの法則を用いることで他者と自分を入れ替えることが可能だとした。

 彼は、次のように語る。

「私は以前から現在に至るまで、自分の人格的アイデンティティの実感をもったことがありません。私というものは、何かが起きる場所のように私自身には思えますが、「私が」どうするとか「私を」こうするとかいうことはありません。私たちの各自が、ものごとのおこる交叉点のようなものです。交叉点とはまったく受身の性質のもので。何かがそこでおこるだけです」

 レヴィ=ストロースが、自分と、彼の研究対象であった人々を、入れ替え可能なものと捉えた背景には、自分を自分ひとりで完結した個として捉えず、まわりのものとの関係性の中で、人間が人間として存在するための共通するコードがあると考えたからだ。

 そのコードは、現代文明の中で生きていようが、未開の社会とされる環境の中で生きていようが、違いはないとした。

 そして、人間には、人間特有の根源的な思考があるとして、それを野生の思考と名付け、ブリコラージュとした。

 ブリコラージュは、器用仕事と訳され、ありあわせの手段・道具でやりくりすることと説明されるが、その程度の説明では足りず、その組み合わせ仕事が、どれだけ自然の摂理に即しているかが重要である。

 たとえば石工が組み上げる石壁は、ありあわせの石を組み合わせて壁を作るが、簡単に壊れてしまうようでは壁とは言えない。

 この時、重要になってくるのが、異なる要素どうしの関係性である。

 ブリコラージュと比較される概念としてエンジニアリングがあるが、エンジニアリング的な発想で壁を作る場合、部分的要素と要素の関係性は、さほど重要ではない。

 設計者が、あらかじめ計画した設計図にもとづき、必要なサイズのものを必要な個数だけ準備し、それを積み上げていくこととなる。

 それに対してブリコラージュは、一つひとつ形や大きさが違うものを、最適な組み合わせで積み上げていかねばならず、一つの要素は、他の要素があってこそ、その本領が発揮される。

 エンジニアリングが、作り手の計画にそって作られるのに対して、ブリコラージュは、要素の特性を把握していきながら、それぞれの関係性に配慮して作っていく。

 現代文明が生み出した機械、写真での表現行為の場合、エンジニアリング的発想は、自分の表現の材料として他者(風景も含めて)を利用するというスタンスとなり、ブリコラージュ的発想は、表現を通して他者の内側を引き出すことを心がけるということになる。

 明治維新以降、日本人は、西洋で生み出されたものが優れているとみなし、西洋思想から学ぶことを心がけてきたが、レヴィ=ストロースの考え方は、むしろ西洋文明よりも東洋文明に近い。

 自分という存在を個別の独立体として捉えず、ものごとのおこる交叉点として捉える視点は、華厳思想と共通している。

 聖武天皇の時代に作られた盧舎那大仏=奈良の大仏は、華厳思想の本尊であるが、華厳思想の中心になる考え方は、世界の実相は、個別具体的な事物が、相互に関係しあい(相即相入)、無限に重なりあっているということである。

 盧舎那仏は、ヴァイローチャナ(遍く照らす)存在であり、その智彗の光は、すべての衆生を照らして衆生は光に満ち、同時に毘盧舎那仏の宇宙は衆生で満たされている。これを「一即一切・一切即一」とあらわし、「あらゆるものは無縁の関係性(縁)によって成り立っているとする。

 レヴィ=ストロースは、先住民たちの習俗や儀礼、神話の数々が決して未熟なものではなく、極めて精緻で論理的な思考に基づいていることを発見し、それを、人間特有の根源的な思考、「野生の思考」と呼び、その方法がブリコラージュだとしたのだが、東大寺が作られた奈良時代に生み出された日本神話である古事記もまた同じだ。古事記も極めて精緻で論理的な思考の産物であるが、要素還元主義の思考に陥っている現代人が、古事記を読み間違える原因は、「神話に何が書かれているか?」を解読しようとすることだ。

 古事記もまた、野生の思考、華厳思想に通じる思想で作られているとすれば、そこに何が書かれているかではなく、世界を形成する各要素の相互関係を伝えるために、いかにして書かれているかに思いを馳せる必要がある。

 古事記は、年代別に、順を追うように、何があったかを記しているのではない。

 古事記が書かれた当時の世界が、どのようにして成り立ったかを、色々な角度から描いており、同じことを別の形でも描き、重ね合わせて、ブリコラージュしている。

 古事記が書かれた時代もまた、ものごとのおこる交叉点なのだ。

 ならば現代もまた、縁によって導かれた必然的な交叉点である。

 この時代もまた、起きていることを自分ごととして、 Compassion=Com-patience「一緒になって苦難のなかで耐える」ことを当たり前と受け止めなければ、この時代を生きるために生まれてきたことにならないだろう。

 自分という個は、単独に存在しているのではなく、宇宙の中の、そして歴史上の、交叉点である。世界をブリコラージュしていく媒介者であると言い換えてもいい。

 媒介者は、媒介者自体の価値よりも、石工の作る石壁のように、媒介することによって生じるものの価値によって、その価値が定まっていく。

 そのため、自ずから、自分がどうしたいかではなく、自分が媒介するものがどうなることが良いのかという発想で、物事を見て考えざるを得ない。それが、結果的に、相手の立場に立つという心構えにつながっていく。

 地球環境の問題にしても、基本的には同じであり、自分の意思ではなく、地球の意思に耳を傾ける。

 現代文明が作り出した機器のうち、コンピューターは、一つの頂点であり、その発展は今も止まることなく続いているが、いわゆる古典コンピュータが一番苦手としていることが、組み合わせ最適化問題だとされる。そして、この問題を乗り越える新しいコンピューターが、量子コンピュータだとされる。

 古典コンピュータが、設計デザインに基づいて石壁を作る場合、必要な材料の大きさや個数や調達先やコストなどを割り出すのは得意だが、大きさも形も異なる有り合わせの石材を組み合わせて壁を作らなければならない場合、うまく考えることができない。

 人工知能を活用したChat Gptは、エンジニアリング的な思考で、すでに典型的となっているアイデアから抜粋して答えを導くことはでき、多くのお役所仕事のようなものを肩代わりしていくことになるだろうが、未だ答えの見つかっていないことについて考えなければいけない時、ブリコラージュ的な視点を重ねることは苦手である。また、自分には理解できていない物事の答えを出す際に、強引に自分の思考の範疇に納めるために、対象の本質を歪めてしまうことを平気で行う。

 古典コンピュータは、0か1か、あらかじめ決めつけたことを緻密に膨大に組み合わせるのは得意だが、状況次第では0にも1にもなるという曖昧な存在を相手にすることが苦手なのだ。

 しかし、人もそうだし、世界の様々な要素は、関わり方次第で、在り方は異なってくる。

 関わろうとする対象に加勢して、悶えていると、予期しなかった良き様相が立ち現れてくることがある。

 生きていくうえでの救いや歓びは、計画の中に厳密に落とし込まれているものではなく、関わり方次第で変わってくるというところにこそ、潜在しているように思われる。

 苦海が浄土とつながるコードがここにある。

 

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