第1318回 写真表現の行く末

 朝早くから、船尾修さんの「満州国の近代建築遺産」と、新田樹さんの「Sakhalin」の写真集を見ていて、心洗われるような気持ちになった。

 船尾さんは土門拳賞、新田さんは木村伊兵衛賞と、長い歴史のある写真界の賞を今年度受賞したわけだが、この二つの賞の同年度の作品が、自分の手元にあるのは、写真界に近いところで20年以上仕事をしているが、今年度が初めてのことだ。

 現在、出版社の販売促進とか業界内の活性化を目的とする賞も無数にあり、その人の仕事の価値を賞で判断することは難しくなっているが、後に振り返って優れた仕事をした人が多く受賞していると感じる賞は、同じ分野での活躍を目指す若い人たちにとって、一つの羅針盤になる要素でもある。

 そういう意味で、未来の写真界にとっても、今年度、この二人が土門拳賞と木村伊兵衛英賞を受賞したことは、とても意義深いものだと思う。なによりも、裸の王様心理で「いいね!」と言いながら、内心では「この程度のことで」と感じさせる多くのものと違って、二人の仕事は、強い納得感とともに、その仕事のハードルの高さを感じさせるものであることが重要だと思う。

 現在は、高性能カメラを持っていれば、誰でもそれなりに写真を上手く撮れる。なので、写真家に求められるのは、表面的なテクニックではない。

 船尾さんも、新田さんも、撮影において最も心がけていることは、対象への敬意であり、写真の力によって、表面を写し取ることではなく、対象に秘められたものを浮かび上がらせるに精力を傾けている。

 この二人の写真を見る時に、鑑賞者は、写真の中に写っているものと静かに対話するような気持ちになる。

 しかし、「対象に秘められたものを浮かび上がらせる」と口にするのは簡単だが、その秘技は、簡単に人が真似できることではない。

 写真というのは、対象を前にしてシャッターを切りさえすれば写る。絵を描くことに比べて、なんとも安直極まりない行為であり、それで、対象の切り方のセンスを競ったところで、ファッションの着こなしのセンスを競うようなもの。それなりの経験があれば上手くなるだろうが、ようするに、自分の感性をどれだけアピールできるかの競争にすぎない。

 船尾さんも、新田さんも、被写体を前にする以前の、思考と、調査に膨大な時間をかけている。

 彼らが最も恐れているのは、自分の無神経さや無配慮によって、被写体を損なったり、その本質を歪めてしまうことだからだ。

 誰でも簡単に写真が撮れる時代、写真によって被写体を自分に都合よく改変しないというモラルを示すことは、写真家を名乗る者が持たなければいけない信念であり、矜持ではないかと思う。

 ファッションブランドを着飾っただけの人は、同じものを着続けていると、内面の浅さが透けて見えるので、着るものを次々と取り替え続けて、ごまかそうとする。

 それと同じことで、対象との向かい合い方の浅い写真は、見た目の新しさで「いいね!」と言ってもらえたとしても、すぐに消費される。

 船尾さんや新田さんの写真は、1度目よりも2度目、3度目と、見れば見るほど、味が出てくる。おそらく、10年、20年と時を超えていく力は、そうしたものに宿っている。被写体の魂もまた、写真とともに歳月を超えていくわけであり、彼らは、写真の力によって、被写体の魂を救っていることにもなる。

 彼らのような仕事は、根気と時間がかかる。だから、簡単に真似ができない。もっと手っ取り早く世の中に出て認められたいなどという邪な心を持つ表現者気取りは、見向きもしないだろう。

 しかし、写真家だけではないが、音楽家であれ画家であれ、その時代に必要な表現者は、いつの時代でも、そんなに数多くは存在しない。ほとんどのものは、無聊の慰めや、飽きたら他に取替えできる刹那的な飾り物にすぎないわけで、そうした数が多ければ表現界が活性化すると考えて、業界が、賞を乱発し、メディアに働きかけ、盛り上げようとすればするほど、浅はかなものになっていき、結果的に、世の中にとって、その表現界は、ほとんど意味のないものになっていく。

 船尾さんや新田さんの背中を見て仕事をする写真家が、100人でもいれば、その時代の写真界は、かなり充実したものとして後世に伝わるのではないだろうか。

 船尾さんが取り組んだ「満州」は、400ページにもなる分厚い本だが、ここに掲載されている歴史の生き証人である膨大な建築物は、50年後には消えてなくなってしまうが、建物や、その記憶だけでなく、「明治維新以降の日本とは何だったのだ?」という、決して目を逸らしてはならない問いが、おぼろになってしまうことの方が深刻な問題だ。

 船尾さんは、広大な満州の地で、それらの建造物を発見し、撮影をすることで、歴史からの忘却を防ごうとしている。

 そして、新田さんが取り組んだ「Sakhalin」の、祖国に帰ることのできなかった人々は、新田さんが取材中にも、一人ひとり亡くなっていくわけで、新田さんは、彼らの記憶をつなぐことに精力を傾け続けた。

 二人の背中を見て、同じように丁寧な仕事を100人だけでも行えば、それこそ、その集合は、「ホメロス叙事詩」のように、歴史を語り継ぐ力となるだろう。

 数千、数万という時代の消費財よりも、その100人を目覚めさせるのが、預言者的な役割を持つ表現者なのだろうと思う。

 表現における時代の先端というのは、流行の先端という意味ではなく、次にあるべき時代の羅針盤となることだ。

 

 

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