第1321回 試しながら修正をくわえて最適をめざすこと

 スティーブ・ジョブスの日本文化への関心はよく知られており、彼は、来日のたびに、京都の苔寺西芳寺)を訪れていた。

 スティーブ・ジョブスは、次のように言っている。

 「カスタマーエクスペリエンス(顧客体験)をもとに、テクノロジーを構築していくことが肝要だと常に考えてきました。

 テクノロジーありきで、それをどこに売り込もうかと思いめぐらすのではダメなんです。

 今日お集まりの皆さんの誰よりも、私自身がたくさんこの間違いを犯してきました。それによってたくさん代償も払ってきました。」

 ジョブスのこの言葉と通じる課題として、今年になって「現代と古代のコスモロジー」という趣旨で、ワークショプセミナーを行っている。コスモロジーという言葉を敢えて使っているのは、「歴史のお勉強」には興味がないからだ。

 また、同時に写真のポートフォリオレビューも行っており、これは、写真集という形にすることを目指しているが、コスモロジーの問題とも関係している。

 歴史の中で、コスモロジーの転換が何度も起きていて、現代もまた同じ。そのコスモロジーを構築するプロセスは、エンジニアリングとブリコラージュの二つの違いに分けることができる。

 エンジニアリングは、設計思想。ブリコラージュは、寄せ集めなどと説明されるけれど、単なる寄せ集めではなく、石工の石垣作りや宮大工の仕事のように、対象に耳をすませて、それを生かすように組み合わせの最適解を求めていくこと。

 エンジニアリングというのは、自分の計画や設計図に合わせて、対象を選び、切りそろえて組み合わせて作る。

 この二つの違いは、自分の仮説から宇宙を分析して論理を組み立てるコスモロジー(エンジニアリング)と、対象の側の様々な関係性に配慮して、その関係性のなかに宇宙の摂理を見出していくコスモロジー(ブリコラージュ)の違いであり、学問や研究や表現のスタンスの違いにもなる。

 古典的コンピューターは、AIも含めてエンジニアリング的発想でつくられているが、現在、開発中の量子コンピューターは、ブリコラージュ的な発想に基づいており、古典的コンピューターが苦手とする組み合わせ最適解の分野での活用が期待されている。

 おそらく、現在話題の AI技術を取り込んだ CHAT GPTが、エンジニアリング的発想(自己本位)の古典コンピュータの矛盾と問題を極限まで示すことになり、 それが量子コンピュータの開発を加速させることになるかもしれない。

 20世紀の中旬までに、文化人類学舎のレヴィ=ストロースは、近代文明の問題が、エンジニアリング的なスタンスにあるということを看破して、ブリコラージュこそが、生命原理であるとした。

 レヴィ=ストロースは、幼少の頃、父の影響で日本文化に深く触れて、それが自分の精神形成に深い影響を与えたと言っているが、明治維新以前の日本文化というのは、まさに、ブリコラージュに基礎を置いていた。

 そして、冒頭のスティーブ・ジョブスの言葉、

 「カスタマーエクスペリエンス(顧客体験)をもとに、テクノロジーを構築していくことが肝要だと常に考えてきました。テクノロジーありきで、それをどこに売り込もうかと思いめぐらすのではダメなんです。」は、まさに、エンジニアリングではなく、ブリコラージュでなければならないという意味のことを言っている。製品作りにおいて、ジョブスは、この考えが一貫していた。

 しかし、「顧客本位」という言葉を使う時、日本の多くの企業でも同じように顧客本位という言葉を使っているわけで、それらと、どう違うのか考えなければいけない。

 まず、「顧客本位」を旗印にして、そのうえで計画設計をしてはダメだということ。また、顧客に対して丁寧というだけのステレオタイプの対応(ファーストフード店のマニュアルのように)でなく、相手の出方次第で対応を変えられる臨機応変さがあってこそ、ブリコラージュ。 

 アップルの製品は、説明書がいらない。同じ時期に発売されていた日本の電気メーカーの商品は、説明が膨大にあって、それをまず読んでから商品を使え、というスタンスだった。これが、エンジニアリング的発想に支配された頭がやること。

 顧客のためになる技術やサービスだからと押し付け、顧客にとって本当の最適さがわからなくなっている企業は、衰退していくしかない。

 アップルの製品は、触りながら、確かめながら、これは違うなとやり直しながら、すぐにコツを掴んで使えるようになる。だから、子供は、その習得がとても早い。この使い方自体、アップル製品は、ブリコラージュに基づいていた。

 「触りながら、確かめながら、これは違うなとやり直しながら、すぐにコツを掴んで使えるようになる」というプロセスこそは、小さな失敗が、成功がなんであるか(つまり使い方を知る)を体得するプロセスと同じ。

 ビジネスのスタンスにおいても同じだというのが、ジョブスの考えだ。

 考えを完璧にしようとして、ずっと考え続けているのではなく、少しずつの実践を繰り返しながら、これはちょっと違うなと修正をしていきながら、コツを掴めばいい、ということ。

 私が、現在行っている写真集を作るためのポートフォリオレビューでも、同じことを実践している。

 やって来る人には、あまり厳密に自分でセレクトせずに、1000点になってもかまわないから、できるだけたくさん写真を持ってくるように言っている。

 自分では使えないと思い込んでいる写真が、他との関係で生きてくることがある。そうした感覚は、実際に写真を組んでいかなければ気づかない。私は、モニター上で、その関係性を高速で見せて、彼ら自身にも、それがわかるようにしている。

 もともと、日本人の物作りは、こうしたブリコラージュに基づいていた。

 しかし、いつしかエンジニアリング的発想の、計画重視、設計重視、技術重視の陥穽に落ちてしまった。動く前に、あれこれ、これが正しいとか間違っているかを考えるばかりで、いざ作ろうとすると、その考えをできるだけたくさん詰め込もうとするので、複雑なものになる。その商品は、非常に使いにくいものになる。 

 顧客が喜ぶだろうと押し付けがましく最新技術を盛り込むことが、日本の顧客重視になっている。

 日本の衰退は、技術大国と持ち上げられたことによって、エンジニアリング的な方法こそがベストだと錯覚するようになったところにある。

 失敗を恐れて、「まずは試してみろよ」という気楽な感覚が薄れてしまった。試しを一つするだけなのに、稟議書その他、膨大なエネルギーと時間が必要になってしまった。

 やってみなければわからないのに、それが少しでも違っていたら、そのことが責められる雰囲気になり、萎縮してしまった。

 ソニーの黎明期のウォークマンなどにしても、「技術ありき」ではなかった。

 大事なことは、試してみて、ちょっと違うなと思えばすぐに修正して、あれこれ試行錯誤しながら修正をくわえ、最適解を見つけ出していく”ノリ”の良さだ。

 そのようにコスモロジーの転換が起こらなければ、日本は、ますます萎縮した頭でっかちの国になって衰退していくことだろう。

 そのように硬直したコスモロジーで、ポジショニングを固めて幅を利かせるのが、官僚的な体質なのだ。政治や産業分野だけでなく、学問や表現界においても同じだ。

 官僚的体質になっている業界が評価するものは、まさに、エンジニアリング的な発想に基づく頭でっかちなものになっており、それこそが、このコスモロジーの末期的な症状だ。

 先入観にとらわらず、素直な心で向き合って、「なんでこんなのが評価されるのかよくわからない」と思う場合は、その素直な心の方が正しい導きになっている。

 きちんと整えられてまとめられていることよりも、多少の粗さや大胆さがすぎるとしても、新しい何かを感じさせるものが少しでもあるかどうかが大事なのだ。

 

 

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