京都は日本の歴史文化の宝庫とされていますが、観光地の大半は豊臣秀吉以降の時代に作られたものが多く、多くの人が古都の街並みだと勘違いしている祇園は明治維新以降のものです。
京都のなかで平安京遷都の1200年前より古い聖域は、京都の西側の桂川沿いに集中しており、これまで2回行ったフィールドワークを含むワークショップセミナーで、松尾大社や月読神社、梅宮大社など、1200年以上前の聖域を案内しました。
5月20日(土)と21日(日)に行う第三回目は、嵐山の渡月橋周辺から、桂川沿いを松尾大社方面に歩いて私の家に向かいますが、このあたりは、東西に比叡山と愛宕山を望み、京都で最も風光明美なところ。
嵐山周辺は、京都観光のメッカで多くの観光客が訪れる所ですが、その90%以上が、天龍寺周辺の竹林をはじめ土産物屋が並ぶ嵯峨野地域に集中し、渡月橋の南岸は、素通りしています。
現在、渡月橋の南岸にはモンキーパークがあり、コロナ禍以前は、外国人観光客が大勢訪れていました。
実は、モンキーパークの隣にある櫟谷宗像神社こそが、嵯峨嵐山地域で最も古い聖域なのに、嵐山観光の日本人は、ほとんど誰もやってこない。それは、歴史的背景が、どこにも紹介されていないからでしょう。なので、今回のワークショップでは、そのあたりも掘り下げます。
✳︎ワークショップセミナーの詳細、お申し込みは、こちらのサイトから。
嵯峨野方面は、桓武天皇の息子の嵯峨天皇親族ゆかりの聖域ですが、櫟谷宗像神社は、それ以前のもの。
櫟谷宗像神社の鳥居近くに掲げられている由緒では奈良時代の創建となっていますが、社伝では創建は668年で、白村江の戦いの5年後、天智天皇が即位した年となります。
この668年というのは、松尾大社に伝えられているところによれば、松尾山の中腹にある磐座で中津島姫を祀った年となっています。
中津島姫というのは、宗像三神の市杵島姫の別名ですが、松尾大社自体は701年に創建され、主祭神が、秦氏と関係の深い大山咋神(おおやまぐいのかみ)と、中津島姫(市杵島姫)ですが、668年、天智天皇の即位年に、まずは松尾山の磐座に中津島姫が祀られたということになります。
この同年に、嵐山に櫟谷宗像神社が創建され、宗像三神のうち、市杵島姫と奥津島姫が祀られた。
つまり、663年の白村江の戦いの後、宗像海人の女神が、京都の桂川沿いの嵐山と松尾の両方に祀られたわけです。
そして、天武天皇の長男で壬申の乱でも活躍した高市皇子は、654年頃に誕生したとされていますが、彼の母は、九州の宗像大社の神主でもあった宗像徳善の娘の尼子娘ですから、白村江の戦いの前後、天智天皇や天武天皇の時代、宗像氏が何かしら大きな役割を果たしていて、京都の松尾と嵐山に痕跡を残しているわけです。
宗像氏は、主に北九州の玄界灘を拠点に活動していた海人と考えられていますが、宗像市の中心部にある弥生時代の光岡遺跡から、宗像土笛というココヤシ笛をルーツとする笛の完全形が出土しています。この笛は、宗像地域を西限とし、関門地域を経て丹後半島付近までの日本海沿岸部にほぼ限定されて出土する祭祀に関係のある道具と考えられていて、この特徴的な笛のルーツであるココヤシ笛が、壱岐島の原の辻遺跡から出土しているのです。
そして、壱岐島から、5世紀末、現在は京都の松尾大社の摂社となっている月読神社に、月読神と亀卜がもたらされました。
壱岐島も宗像海人の活動域ですが、宗像という名は後につけられたもので、弥生時代から古墳時代にかけて、この海域の海人が、山陰から丹後にかけて活動し、5世紀末、京都の桂川沿いに入ってきていた。その海人勢力が、天智天皇や天武天皇の時代に、特に重要な役割を果たすようになったということでしょう。
京都の月読神社は、洪水によって松尾山の麓に遷座されましたが、もともとの鎮座地は、ここから真東に500mほどの桂川と西芳寺川の合流点で、現在も地名が「吾田神」となっています。
アタというのは、南九州の海人の拠点であった大隅半島を指しますが、宗像氏の祖が「吾田片隅命」(アタカタスミ)なので、宗像氏のルーツは、アタということになります。
宗像大社は北九州に鎮座していますが、ここから北に向かって宗像大島、沖ノ島と連なる宗像の聖域をたどって朝鮮半島に到るので、もともと南九州で活動していた海人が、朝鮮半島との関係で活躍するようになってから北九州に拠点を移したのかもしれない。
宗像土笛の起源がココヤシ笛ということも、南方とのつながりを示しています。
さらに、亀卜を行った亀の甲が出土している地域は、非常に限られているのですが、壱岐島、対馬以外では、神奈川県の三浦半島と千葉の房総半島のみで、いずれも、南九州とは黒潮の流れでつながっています。
三浦半島や房総半島には、古代海人と関わりの深い海蝕洞穴が数多く見つかっていますが、三浦半島の間口洞穴遺跡から、弥生時代の占いに用いられた卜骨と、後の時代の卜甲が見つかりました。この洞窟は、出土物に漁具が多いため、海人関係のものと考えられています。
弥生時代からの占いである骨卜は、亀卜が伝わってからも引き続き行われており、その出土は日本各地に見られますが、海上交通の拠点が大半で、内陸部でも長野県の千曲川とか群馬県の高崎など河川交通の要所です。航海という天運に身をゆだねざるを得ない海人にとっては、占いが重要で、その技能を持つ専門家がいたのかもしれません。
弥生時代、日本における占いは骨卜で、中国においては、殷の時代から亀卜が用いられていました。しかし、中国では漢の時代から亀卜は衰退しており、5世紀末から朝廷儀礼で亀卜を重んじるようになった日本とは対照的です。
この亀卜は、壱岐島から月読神といっしょに畿内に入ってきましたが、九州と大陸を結ぶルートにある玄界灘の海人が、その役割を担いました。
海人は、外交においても活躍しており、壱岐島で月読神の神託を受けた阿部事代の阿部氏も、海人と関わりの深い海産物などの食膳と、食でもてなす外交と、水軍を統率する氏族で、後に陰陽師の安倍晴明が出るように、占いとも関係していたと考えられます(史実では、安倍晴明は賀茂氏から陰陽道を習ったことになっていますが、奈良時代の初期に築かれたキトラ古墳は、石室に陰陽道と関係の深い天文図や四神相応図が描かれており、その被葬者の有力候補は、竹取物語の登場人物のモデルでもある阿部御主人です。)。
月は、潮の干満に影響を与え、月を読むことは、海人にとって重要なことだった。
海人の伝承が重なって創造されたと考えられる浦島太郎の祖も、月読神です。そして、浦島太郎を竜宮城へと導いたのが「亀」。ここに、亀卜と月読神が重なってきます。松尾大社の境内には、手水場の亀とか、撫で亀とか、亀の彫像がたくさんあり、亀は松尾大社の神使とされています。その理由はどこにも詳しく書かれていませんが、松尾大社の創建以前、この場所に亀卜がもたらされたことが理由かもしれません。亀卜は、いわば、神の声を伝えるわけですから。
嵐山の櫟谷宗像神社の前に架かっているのも渡月橋だから、ここでも「月」が関係してくると思ったら、それは違っていました。
もともと、この橋の名は法輪寺橋で、鎌倉時代の亀山上皇が、橋の上空を移動していく月を眺めて「くまなき月の渡るに似る」と感想を述べたことから渡月橋と名付けられたそう。
しかし、名のことはともかく、この橋が月の鑑賞にふさわしい場所だったことは間違いありません。
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