第1332回 出雲の国譲りとは何か? (4)

八雲山のスサノオの磐座。八雲山の西麓に鎮座する須賀神社の奥宮。

 島根の出雲地方は、大きく分けて三つの領域に分かれる。

 一つは、出雲の西側、斐伊川の流域で、もう一つの地域が、鳥取との県境の大山の周辺、日野川の流域。

 これらの地域のことは、(1)から(3)の記事で書いた。 最後の一つ、穴道湖と中海に挟まれた真中、意于川の流域についても書かなければならないのだが、実はこの地域こそが、古代出雲の謎を解く鍵を握っている。

 古事記日本書紀が書かれた8世紀前半、日本に律令体制が築かれた頃、出雲地方の行政の中心である国府が築かれたのは、意于川のほとりである。

 そして、意于川の源流の熊野山(現在は天狗山)の山頂に、熊野大社が祀られた。中世になり、熊野大社は里におろされ、「上の宮(紀伊国の熊野三社)」と「下の宮(伊勢宮)」に分かれた。さらに明治維新に、上の宮は下の宮に統合された。

 律令制下において、一郡全体が特定の神社の所領・神域として定められるという特別視された八神郡があった。茨城の鹿島神宮、千葉の香取神宮、三重の伊勢神宮の内宮と外宮、房総の安房神社、和歌山の日前神宮國懸神宮、九州の宗像大社ともに、島根は、出雲大社が鎮座する出雲郡ではなく、熊野大社が鎮座する意宇(おう)郡が指定された。

 そして、出雲の東地域の大山の周辺がオオクニヌシにゆかりの場所だとすると、この中央部の意宇(おう)郡は、スサノオと深く関わっている。

 現在の熊野大社(かつての下の宮)は、意宇川のほとりに鎮座しているが、その西には神奈備山にふさわしい八雲山がそびえ、その山中に磐座があり、ここに、スサノオクシナダヒメの魂が眠っているとされる。

  この磐座は、八雲山の西麓に鎮座する須賀神社の奥宮であり、須賀神社は、スサノオが八岐大蛇退治の後に建てた宮殿が神社になったものと伝えられ、「日本初之宮」と自称している。

八雲山の西麓に鎮座する須賀神社スサノオが八岐大蛇退治の後に建てた宮殿が神社になったものと伝えられ、「日本初之宮」と自称している。

 偶然かもしれないが、興味深いことに、出雲の王家の谷(西谷墳墓群)と、日本最多数の銅鐸が出土した加茂岩倉遺跡と、オオクニヌシの死と蘇りの伝承のある赤猪岩神社と大山は、北緯35.36度上に並んでいるのだが、八雲山のスサノオの磐座も、同じライン上にある。そして、八雲山や熊野大社のある場所は、西谷古墳群と赤猪岩神社の中間点(それぞれから25km〜26km)のところにあたる。

北緯35.35度のライン、赤いマーク、西から、王家の谷の西谷古墳群(弥生時代)、日本で最も多く銅鐸が発見された加茂岩倉遺跡、八雲山のスサノオの磐座、オオクニヌシが、八十神に殺されて再生した赤猪岩神社、大山。紫は、律令時代、出雲国国府が築かれたところ。黒は、下が国府の前を流れる意于川の源流の熊野山で、最初に熊野大社が鎮座していたところ。上が、意于川沿いで、後に熊野大社が遷された場所。出雲地域の西は斐伊川沿いに聖域があり、東は日野川沿いにある。そして、中央部が、意于川流域ということになる。

  神話の中では粗暴なイメージのあるスサノオは、この地域で、八岐大蛇を退治するという人間に恩恵をもたらす神となった。

 スサノオは、八岐大蛇に酒を飲ませて眠らせ、十拳剣で切り刻んだが、尾を切ると十拳剣の刃が欠け、尾の中から鋭い大刀が出てきた。スサノオは、これをアマテラス大神に献上した。この剣が、三種の神器草薙剣である。ヤマトタケルは、東征の時に、この剣の力に救われるが、ヤマトタケルの死後、草薙剣尾張熱田神宮で祀られることとなり、宮中に置かれたのは形代とされるが、その形代は、平家滅亡の壇ノ浦の戦いの時に海に沈んだ。

 それはともかく、神話の中でスサノオが使った十拳剣は、八岐大蛇の尾の中にあった草薙剣に当たった時に「少し欠けてしまった」と、あえて書かれている。

 十拳剣と草彅剣は、材質が違うということであり、拡大解釈すると、青銅器と鉄器の違いを伝えている可能性がある。

 三貴神のうち、アマテラス大神は太陽、月読神は月とわかりやすいが、スサノオには、風雨のイメージがある。しかし、イザナギは、スサノオに対して海原の支配を命じている。それに対してスサノオは、母のいる根の国(黄泉の国)へ行きたいと泣き叫び、怒ったイザナギスサノオ高天原から追放することにした。このエピソードが一体何を象徴しているかというと、スサノオは、天と地の秩序に組み込まれることを拒んだのだ。

 スサノオは、根の国に行く前に、別れの挨拶をするためにアマテラス大神と会い、悪意がないことを示すための誓約をし、その時、スサノオの十拳剣から生まれたのが玄界灘や瀬戸内海の海上交通と関わりの深い宗像三女神なので、スサノオは、イザナギが命じたように、「海」と結びついた神だと思われる。

 日本書紀では、高天原を追放されたスサノオに同行したのが、息子の五十猛神(イタケルノミコト)だが、この神も、林業、造船、航海安全、大漁といった海人と関わりの深い神である。

 こうしたことから、粗暴さを兼ね備えていながら人間に恩恵を与えたスサノオは、海の勢力と関係の深い神で、海の勢力は縄文時代から各地をつなぐ役割を果たしながらも、時の権力に服従せず、自由に振る舞っていたのではないかと思われる。

 彼らは、縄文時代から、黒曜石やヒスイを北海道から沖縄、さらにウラジオストク朝鮮半島まで流通させていたが、春秋戦国時代の内乱下にあった中国から、稲作文化をもった人々が日本に船で渡ることにも貢献しただろうし、その後も様々な大陸文化を日本に伝える橋渡しを行い、青銅器から鉄器時代への移行にも関与した。

 日本が治めていたとされる朝鮮半島南部の任那の経営に、海人の紀氏の名前が多く見られる。紀氏は、朝鮮半島の戦いにおいても活躍していた記録が残っている。

 出雲地方だけでなく紀伊国にも熊野三社があり、どちらが先かという議論があるが、おそらく、両方に海人の紀氏が関与している。

 出雲地方の真中地域において、6世紀以降、急激に、前方後方墳が多数建造されており、これが大きな謎になっている。

 出雲地域の特徴的な墳墓としては四隅突出型墳墓があげられるが、これは、弥生時代中期以降、中国山間部と山陰と北陸にだけ見られるもので、この時期、共通のコスモロジーを持つ勢力が、この地域に展開していたことが想像できる。 

 それに対して、前方後方墳は、3世紀中旬あたりから出現し、前期古墳時代は、前方後円墳と、規模も数もそれほど大きな違いはなかった。その分布は、東海や中部、関東に多く見られるものの、比較的全国的に普及していた。しかし、前方後方墳が築かれていた地域でも、次第に前方後円墳にとって変われるようになり、その事実から、前方後円墳ヤマト王権の支配の及ぶ範囲を示し、前方後方墳は、ヤマト王権に対立する勢力の古墳だと一般的には説明されている。

 しかし、同じ時期の前方後円墳前方後方墳の両方において、同じ型から作られた三角縁神獣鏡が出土しているので、二つの異なる形の古墳が、単純に対立する勢力の古墳だとはみなしにくいところもある。

 もともと、前方後円墳前方後方墳も、弥生時代の円形周溝墓と方形周溝墓の発展形であり、円形周溝墓が一人の被葬者、方形周溝墓が複数人の被葬者を埋葬しているという特徴があることから、墳墓の形の違いは、その地域の支配体制を反映していると考えてもいいのではないかと私は思っている。

 弥生時代が始まった後も、日本全土が一斉に稲作だけを基本にした社会体制になったわけではない。

 普通に考えればわかることだが、日本は山に覆われ、稲作に適した地は限られている。古代は、今より海面が高かったこともわかっており、濃尾平野大阪平野も海の底だった。

 だから、稲作が入ってきてからも、海や山の幸は大切な糧であり、いわゆる粗放農業を行っていた地域が多かった。そして、粗放農業を軸にした地域は母系社会が多いという研究結果があり、女性が中心になる社会は、卑弥呼邪馬台国もそうだが、複数リーダー制である。そうした地域が、方形周溝墓と、それに続く前方後方墳を採用していた可能性がある。

 稲作が始まってからしばらく経ち、灌漑治水などの技術も高まり、集約農業が普及していくと、大工事を行ったり、他の地域との戦いに備えるため、強い力で地域を治める男のリーダーが求められ、全権を握るようになっていく。前方後円墳の広がりは、こうした時代背景を示している。

 一般的にヤマト王権と呼ばれる時代は、奈良の王権が全国を支配していたかのように思われているが、そうではなく、各地域が、全権を担う王によって治められ、しのぎを削っていた時代なのだ。もちろん、強いところと、そうでないところがあったが、それは、中世の戦国時代に日本各地に城が築かれていたことと同じなのではないか。戦国武将は、封建制という同じコスモロジーを共有していたが、一つの権力によって統一されていたわけではなかった。3世紀から5世紀のヤマト時代も同じであり、日本が統一を目指す動きとなったのは、6世紀、第26代継体天皇の時代からで、朝鮮半島新羅という国が、中国の支援を受けて勢力を増強させた時である。

 6世紀、全国的に前方後円墳が築かれなくなり、近畿では、飛鳥の地に一基だけ、この時代では突出して大きい300m級の丸山古墳(欽明天皇陵と考えられる)が作られていた時期、信濃と関東と九州では引き続き、多数の前方後円墳が築かれていたが、それらの地域は、甲冑や馬具など軍事力を反映する埋葬品が非常に多い。

 全国で前方後円墳が最も多く築かれているのは千葉県、その次が茨城県群馬県が続いており、関東の方が近畿よりも遥かに多い。関東は、日本で最も平野が大きく、他の地域よりも集約農業に向いていることは明らかで、そのことと前方後円墳の数が多いことのあいだに相関関係があるのではないか。 

 さらに、第26代継体天皇に対して反乱を起こしたとされる九州の磐井の古墳とされる岩戸山古墳も墳丘長が135mという、この時代としては大きな前方後円墳であり、前方後円墳ヤマト王権の象徴だとする説では、矛盾が起こる。 

 九州の磐井は新羅と通じていた。継体天皇は、60,000人の兵で新羅討伐を行おうとして、磐井に邪魔された。この磐井の乱もまた、日本が統一に向けた動きの中で起きた内乱だろう。

 この6世紀、出雲の真中の意于川周辺で、突如、集中的に前方後方墳が築かれるようになった。

 出雲の国府が築かれた場所から2km北西の山代二子塚古墳は、古墳時代後期に築かれた全長92mの前方後方墳だが、これは、歴史上、島根県に築かれた古墳のなかで最も大きい。一般的に、古墳が最大になっているのは5世紀の前半であるから、6世紀に古墳が巨大化している島根は、この時期、別の勢力が入ってきた可能性を示している。

 興味深いことに、同じ時期に、出雲の西地域にある西谷古墳群のすぐそばに、全長90mの前方後円墳の今市大念寺古墳が築かれており、この古墳は、広大な石室と、全国最大級の巨大なくりぬきの横口式家形石棺を備え、金銅製履、大刀、槍、斧、馬具、土器等の豪華な副葬品が出土している。律令制が始まる直前、出雲地方の真中と西で、前方後方墳前方後円墳という異なるコスモロジーを反映する巨大な古墳が築かれたのだ。

出雲の国府のあったところ。今は六所神社

 出雲の国府が築かれた場所は、中海に注ぐ意于川に面したところだが、意于川をはさんだ真正面の丘陵一帯に大草古墳群がある。総数200基以上の古墳が密集する島根県内最大級の古墳群である。

出雲の国府島根県松江市)の前を流れる意于川の対岸の丘陵の頂上に、前方後方墳が築かれ、その石棺は、岩盤をくり抜いて作られている。6世紀前半の建造。

 この丘陵の頂上には、6世紀前半、大草岩船古墳という前方後方墳が築かれた。盛土の大半は失われているが、頂上の岩盤を掘り込んで作った石棺が残されており、この場所から雄大な風景が望める。

 さらに、6世紀後半、このあたり一帯に作られた古墳の中で中心的存在の古墳とされる古天神古墳が築かれたが、この古墳も前方後方墳である。

出雲の国府の正面の丘陵地隊の古墳群で、中心的存在である古天神古墳。6世紀末に築かれた前方後方墳

 この古墳群がある丘陵の麓に近いところに、6世紀末、凝灰岩をくりぬいた安部谷横穴墓群が築かれた。遺体を葬る玄室の天井が家の屋根の形に加工されている。家形は、古墳の中に収められた石棺では多く見られるが、群集墓としては全国的に珍しい。この群集簿は、丘陵の上に築かれた前方後方墳に眠る被葬者を支えた有力家臣たちの「死者の家」なのだろうか?

出雲の国府の正面の丘陵地隊の古墳群の安部谷横穴墓群。群集墓では、珍しい家形に整えられている。6世紀末建造。

 国府の正面、意于川のほとりの丘陵に大古墳群を築いた勢力が、律令制の時代、出雲地方の政治の中心勢力となり、意于川の源流の熊野山に熊野大社を築いた。

 熊野大社の祭神は、「櫛御気野命(くしみけぬのみこと)」である。平安時代の初期に成立したとされる『先代旧事本紀』でも、この神はスサノオと同一とされているが、「クシ」は「奇」、「ミケ」は御食である。

 そして、古代、御食国(みけつくに)に指定される地域があった。これは、海水産物を中心とした御食を貢進していた地域で、塩やアワビ、海草などの海産物は、神事の際の神饌として古くから用いられた。

 この御食を司ったのが海人勢力であり、彼らは御食を通じて王の側近となり、大嘗祭をはじめとする祭事でも重要な役割を果たしたほか、接待など外交においても活躍した。そして、王の側近ゆえに軍事氏族となったが、その代表が、紀氏や阿部氏、聖徳太子の妃の実家である膳氏だった。

 蘇我入鹿を打倒した乙巳の変では、水軍を率いる阿部内麻呂が活躍し、大化改新政権の中で、最上位の左大臣をつとめた。

 壬申の乱の時も阿部氏は功臣であり、律令制の開始時期においては、阿部御主人が、政権内では天武天皇の皇子である忍壁皇子に次ぐポジションだった。

 また、壬申の乱で活躍した天武天皇の長男の高市皇子の母親は、海人の宗像氏だった。

 紀氏は、大友皇子側についた勢力と、大海人皇子側についた勢力がいたようだが、戦後、大友皇子側についた勢力が処罰の対象になった記録がなく、途中で寝返ったのではないかという説がある。

 紀氏は、奈良時代も要職をつとめ、太政大臣となった紀諸人の娘が産んだ白壁王は、その息子の桓武天皇への道筋をつけるために、急遽、光仁天皇に即位させられたのだが、桓武天皇擁立の背後にも、紀氏の存在が見え隠れする。

 天武天皇は、昨日書いた諏訪の記事で述べたように、壬申の乱において、美濃の地で東国からの騎馬軍の支援を受けたことが勝利を引き寄せる大きな力となったのだが、吉野の旗揚げの時点から、阿部氏や宗像氏や紀氏など水軍を後ろ盾にしていた。

 そして、古墳時代前期より、前方後方墳が築かれた場所は、水上交通の要所であるところが多い。海人勢力というのは集約農業に頼らない営みを続けていたわけだから、複数リーダーによって束ねられていた集団である可能性が高く、そのため、彼らの拠点と、前方後方墳が築かれた場所が重なっているのではないかと思われる。

 だとすると、6世紀になって、突然、出雲の松江周辺に前方後方墳が数多く築かれたのは、この地域の海人勢力の力が高まったからだと考えることができる。

 和歌山県島根県の出雲地域には共通する地名や神社が多く、紀伊国の海人族が出雲に移住したとする説もある。

 そして、八十神から逃げたオオクニヌシスサノオと出会ったのも紀伊国であり、紀国と出雲の関係性が窺える。

 史実として、紀伊国の海人の紀氏が、朝鮮半島任那の経営に携わっていたという記録が残っているのだが、6世紀、任那の地は新羅に奪われてしまった。その時、朝鮮半島にいた海人たちの一部が、日本の山陰地方に移った。

 日本書紀の中でスサノオは、まずは、新羅の曽尸茂梨(そしもり)に降り、この地には居たくないと言って息子の五十猛神(いそたける)と共に東に渡り、出雲国斐伊川上の鳥上の峰へ到ったとある。

 神話上のスサノオのこの動きは、6世紀、任那の地を離れた紀氏の動きと重ねられている可能性が高い。

 神話が描くスサノオの物語は、弥生時代に遡るような古い時代ではなく、朝鮮半島および島根県の出雲地方で大きな変化のあった6世紀のことなのではないか。

熊野大社の前を流れる意于川。

 6世紀、出雲の松江周辺に、突如として多数の前方後方墳が築かれるようになり、この勢力の拠点が、律令体制への移行後に国府となった。そして、紀伊国と同じく熊野大社を築き、海人と関わりの深い御食神=「櫛御気野命(くしみけぬのみこと)」を祀った。出雲の熊野大社の櫛御気野命は、正式には、「伊邪那伎日真名子 加夫呂伎 熊野大神 櫛御気野命」という、とんでもなく長い名前である。 

 伊邪那伎日真名子 は、「イザナギが可愛がる御子」という意味で、「加夫呂伎(かぶろぎ)熊野大神」は「神聖な祖神の熊野大神」。

 イザナギの子で、大海原を支配するように命じられたスサノオが、海人と関わりの深い御食神と重ねられているのだ。

 紀氏の祖神は、竹内宿禰とされる。竹内宿禰は、景行・成務・仲哀・応神・仁徳という第12代から第16代の天皇に仕えたとされる伝説上の人物で、神話のなかで神功皇后新羅征伐においても活躍するが、この人物は、7世紀後半頃、つまり律令制が始まる時期に創出されたと考えられている。

 竹内宿禰を合祀する神社は、日本中に数多くあるが、竹内宿禰だけを祭神とする神社は、因幡國一宮の宇倍神社で、ここは、鳥取県で唯一の名神大社だ。

因幡国一宮、宇倍神社の祭神は、紀氏の祖神である武内宿禰。本殿の裏の丘の頂上に“双履石”があり、竹内宿禰が昇天した場所という伝承がある。実際には、この岩の下は、古墳時代前期末から中期の古墳の竪穴式石室であり、この岩は、その一部のようだ。

 そして、宇倍神社の鎮座地は、律令制下における行政の中心、国府が築かれたところであり、古事記日本書紀が書かれた頃、因幡國においても政治の中心地に、紀氏と関係の深い竹内宿禰を祭神とする聖域が設けられた。

 こうした事実は、7世紀後半、律令制が整えられていく時期、島根から鳥取にかけての山陰地方に、海人の紀氏の痕跡があったことを暗示しており、出雲と紀伊国に「熊野大社」という重要な聖域が築かれたのも、その流れの中にある。

 

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