第1519回 羽衣伝説の謎について

竹野川河口にそびえる立岩

羽衣伝説についてのあれこれ。
 昨日、丹後半島を休暇気分で訪れて、その最後にジオサイトで出会った翁が語ったこと。「古代最大の製鉄遺跡である遠所遺跡で用いられた砂鉄が、丹後のものではない」という話が心に引っかかって、家に戻ってネットで論文を探し出して調べたら、どうやら東北地方の砂鉄だということがわかり、そこからさらにいろいろ考えていたら丹後の羽衣伝説に重なり、今日の午前中、そのまま頭に思いうかぶことを書いていたら、いつのまにか、とっても長くなってしまった。
 日本の古代の歴史や神話などの背景を考える時、地質のことは切り離せない。
 例えば、古代世界を大きく変化させたものとして、鉄のことがよく取り上げられるが、鉄といっても色々な種類があり、鉄道具としての性能も違ってくるのだが、その鉄の原料である砂鉄や鉄鉱石や褐鉄鉱は、産地によって性質が異なってくる。
 また鉄から鉄製品を作る鍛冶行程においても、鍛鉄と鋳鉄でも鉄製品の品質が異なってくる。
 鍛鉄は、古くからある技術で、刀鍛冶のように一つひとつ真っ赤に熱した熱を叩いて作っていく。それに対して鋳鉄は、陶器で作った鋳型に流し込んで鉄製品をつくる。
 鍛鉄で作ったものの方が出雲の刀のように性能が優れているが、鋳型で作る方が包丁などのように実用的なものを大量生産することにまさっている。 しかし、鋳鉄の場合、鋳型となる陶器が超高温に耐えるものが必要なので、須恵器など高温の窯で陶器を作る技術も必要となる。
 古代の産業革命は、第一段階では鉄道具の使用ということになるかもしれないが、本格的な次の段階が、高品質の鉄道具の大量生産ということになるだろう。
 古墳から大量の鉄の武器などが出土するようになるのは西暦400年以降、古墳が巨大化した頃からだが、それは、須恵器の技術と新しい鍛冶技術の韓鍛冶がもたらされた時期と一致している。
 縄文文化の好きな人は、縄文時代にも鉄があったと指摘する。
 鉄といっても褐鉄鉱(水酸化鉄)ならば鉄分の豊富な土地の沼地などに生息する葦などの水生植物の根本にバクテリアの作用で生じるもので、これを縄文土器を燒く温度(800度くらい)で熱すれば溶けて、縄文土器の型に流し込めば鉄製品は作れる。しかし、不純物が多くて、実際の道具として石器よりも優れていたかどうかは別の話だ。
 たたら製鉄が、砂鉄を還元して鉄を取り出すことはよく知られているが、砂鉄といっても真砂と赤目の二種類があり、これはチタンの含有量によって異なるのだが、真砂よりも高チタンの砂鉄である赤目は真砂に比べて低い温度で還元がしやすいが、その分、真砂よりも品質が劣ると言われる。
 有名な出雲の刀などは真砂砂鉄。古代の鉄の産地で知られる吉備は、赤目砂鉄。一般的に、中国地方の山陰は真砂で、山陽は赤目だとされる。
 しかし、丹後半島宮津花崗岩地帯のものは、山陰側では珍しい赤目砂鉄である。
 この宮津花崗岩地帯は、竹野川にそって広がっており、竹野川がその岩盤を削って押し流し、竹野川河口から東西の浜辺には砂鉄の砂浜が広がっている。竹野川を境にして東にいくほど砂鉄の含有量が多いのは、砂鉄の比重と潮の流れの関係が反映されているのだろう。
 そして、この竹野川の上流にある支流の常吉川の源流域にそびえる磯砂山(661m)は、花崗岩の山だが、ここが、丹後の羽衣伝説の舞台で、天女が降り立った場所である。
 羽衣伝説の似たような話は世界中に存在し、日本にも幾つか存在するが、日本における文献上もっとも古いものは丹後風土記のもので、この物語が、形を少しずつ変えて、日本の様々な地域に広がったと考えられる。
 丹後の羽衣伝説では、羽衣をとられてしまって天に戻れなかった天女が、地をさまよい、豊受大神となって比沼麻奈為神社や籠神社の奥宮の真名井神社で祀られ、後に、アマテラス大神の食事係として伊勢神宮の外宮に祀られることになるわけだから、日本の歴史を考えるうえでも重要なポジションであり、この羽衣伝説の天女が何であるのかを洞察する必要がある。
 この謎を説く鍵は、幾つかある。
 まず、豊受大神というのが、神話の中では、カグツチの火によってイザナミが瀕死の状態の時の尿から生まれたワクムスビの子で、黄泉から逃げ帰ったイザナギが禊をした時に生まれたアマテラス大神より古い神であるということ。
 カグツチの火によってイザナミが死んでしまうことが意味していることは、新しい技術文明によって陰と陽のバランスが崩れることを象徴している。
 カグツチの火というのは単なる自然の火ではなく、人間が作り出す高温の火力技術を象徴している。
 そして、鉄製品は、高温の火力技術によって品質を高め、さらに鋳鉄技術で大量生産も可能になる。
 豊受大神が、世界の陰と陽のバランスがギリギリ保たれていた(イザナミが瀕死の状態)時の神であることを象徴するエピソードとして、丹後旧事紀(江戸時代に丹後に伝えられる伝承をまとめたもの)では、豊受大神は、月読神に殺された保食神(うけもち)と同じとされているが、スサノオに殺された大宜津比売も、月読神に殺された保食神も、饗応のための食事を提供したところ、美味だったのに作り方が汚れている(お尻から出したり口から出したり)という理由で殺されてしまった。その月読神の行為をアマテラス大神は非難した。
 このエピソードの解釈は、いろいろと複雑に説明されているが、実際には単純なことで、陰と陽のバランスが整っていた時は、江戸時代でもそうだったが、循環世界だから、お尻から出した糞もまた肥料となり新たな生命の糧となるわけで、保食神豊受大神は、そういう時代を象徴する神である。
 それに対してスサノオ や月読神は、イザナミが黄泉の世界に行ってしまった後にイザナギの禊によって生まれた神であり、すなわち世界の陰陽のバランスが崩れている段階の神。この二神は、古代における文明化を象徴している。スサノオの荒ぶるを自然の猛威だと解釈している専門家もいるが、そうではなく、スサノオが気まぐれのように良いことも悪いことをするのは、文明というものが、人間に恩恵を与えることもあれば世界に害をもたらす原因を作ることを反映している。
 豊受大神は、世界の陰と陽のバランスがギリギリ保たれていた時代の神であるが、文明を象徴する月読神に殺されてしまった。そのことを嘆いたアマテラス大神が、豊受大神を自分の食事係とした。つまりアマテラス大神は、スサノオ や月読神と同じくイザナミが死んだ後に生まれた文明の神でありながら、イザナミが死ぬ前の世界の価値観を重じているということになる。
 だとすると、その豊受大神が、なにゆえに羽衣伝説の天女と重ねられているのかを考える必要がある。
 羽衣伝説の天女が降り立った磯砂山は、花崗岩の山であり、このあたりは、山陰地方では珍しい赤目砂鉄(真砂より還元が簡単)がとれるところだ。
 そして、磯砂山の近辺から竹野川中流域の峰山周辺には、古代の鉄の痕跡が多く残っている。
 その峰山における古代世界を代表する場所が、扇谷遺跡だ。ここは弥生時代前期としては日本で最先端の文化を誇っていた場所で、この場所から、砂鉄系原料による鋳造品で、鉄製品導入期の希少なものと評価される板状鉄斧がみつかっている。
 この鉄製品の材料である砂鉄が、どこのものかはわかっていないが、当時の技術水準からしても、おそらく還元のしやすい地元の宮津花崗岩地帯のものではないかと推測できる。
 そもそも羽衣伝説の天女が白鳥を象徴していることはよく知られているが、古代の神話における白鳥は、ヤマトタケル神話においてもそうだが、鉄の鉱脈と関連している。
 渡り鳥の目には、磁力線が見えることがわかっているが、磁力線にそって飛び、毎年、決まった時期に同じところに渡り鳥がやってくるのは、その場所に特有の磁場があるからであり、磁鉄鉱である砂鉄が集中しているところの磁場が、渡り鳥の”目印”になっているのだろう。
 つまり、赤目砂鉄を豊富に含む花崗岩の山、磯砂山に天女が降り立ち、羽衣を隠されて天に戻れなかった天女が村に繁栄をもたらしたという物語は、鉄を中心とした新しい技術文化の恩恵が背後に秘められている。
 しかし、この天女が、豊受大神と重ねられているということは、その時の技術は、イザナミが瀕死の状態であったものの亡くなっておらず、自然界の陰と陽のバランスを完全に崩すほどではなかったということだ。
 弥生時代前期の扇谷遺跡から出土した鉄の斧が、それに該当する。
 そして丹後の羽衣伝説では、天女と一緒に暮らしていた翁が、突然、自分の子ではないからと言い出して天女を追い出してしまうのだが、これは、いったいどういうことなのか。
 この奇妙なエピドードは、羽衣天女である豊受大神が、月読神をもてなしたにもかかわらず、斬り殺されてしまうというエピソードと重なってくる。
 これは、新しくやってきた渡来人の新しい技術によって、新たな文明段階に入ったことを象徴しているのだろう。
 丹後半島の古墳は、初期段階においては竹野川を遡った磯砂山周辺の内陸部に多く築かれていたが、次第に海岸側に築かれるようになる。
 そして鉄生産の中心が、古代日本最大の鉄コンビナートとも言われる遠所遺跡となるが、ここもまた海岸に近いところであり、さらに興味深いことに、この製鉄所では還元のしやすい丹後の砂鉄ではなく、北陸から東北にかけての還元のしにくい砂鉄が使われていることがわかった。
 還元がしにくい砂鉄の方が、高い技術が必要となるが、鉄製品の品質としては向上する。
 丹後の遠所遺跡は、わざわざ東北など遠隔地から砂鉄を運んできて鉄製品を作っており、海上移送勢力と、鉄の新技術を持つ勢力が力を合わせていたと想像できる。
 東北と近畿は、陸路だとかなり離れているという印象があるが、地図を見ればわかるように、日本列島は弓形になっているので、日本海側の海路だと、海流などをうまく使えば、短期間のうちに行き来することができる。だから江戸時代においても北前船が活躍した。東北の砂鉄を若狭や丹後まで運んできて、ここで製造した鉄製品を、琵琶湖経由や由良川経由で、京都や奈良方面および瀬戸内海に運ぶことができる。若狭や丹後は大陸に近く、古代、新しい技術を持った多くの渡来人がやってきた場所だった。
 そして、この丹後の遠所遺跡は、奈良時代後半から平安時代にかけては、日本最大の鉄製造拠点となったが、この地において、丹後以外から砂鉄を運んで鉄製造を行っていたのは、近年の調査では5世紀末に遡るとされる。 
 5世紀末というのは、日本史における重要な転換期で、訓読み日本語を発明した今来という渡来人がやってきた時期だ。
 イザナミの死や、アマテラス大神の岩戸籠り、スサノオの八岐大蛇退治などに象徴される神話上の物語は、この時期の変化を象徴したものだと私は考えている。
 そして、この大変化の後、古墳の石室が縦穴式から横穴式に変わった。それまでは死んだ王は古墳の一番高いところから天に昇って神となるとされていたが、横穴式の石室になってからは、死後、地面続きで黄泉の世界へ旅立つとされるようになった。
 イザナギが死んだイザナミに会うために黄泉を訪れるという神話は、黄泉概念が象徴されているのだから、この時の死生観の変化が反映されている。
 そして、横穴式石室に埋葬された最初の大王が、実質上、初代天皇とされる第26代継体天皇だ。
 この継体天皇は、即位後、6万の兵で新羅討伐を行おうとした。新羅討伐が必要となった時代背景が、この人物を日本の王にしたわけだが、6万の兵で新羅を討とうとすれば、それだけの水運力と武器が必要になる。
 継体天皇の出身は近江高島であり、ここには海人勢力の安曇氏が拠点としていた安曇川が流れており、継体天皇の背後には、この海人勢力がいたことは間違いないだろう。さらに興味深いのは、継体天皇の母親の振姫の実家が福井県九頭竜川下流域なのだが、ここは、若狭湾の東端にあたり、若狭湾の西端の丹後半島まで海路を使えば一直線なのだ。
 さらに、丹後半島の巨大な鉄製造拠点として東北方面から砂鉄を運び込んでいた遠所遺跡は、竹野川を遡り、さらに由良川にアクセスすると亀岡まで至り、そこから桂川を上流に遡れば、花背のところで、安曇川にアクセスすれば継体天皇の拠点である近江高島まで行けるし、亀岡から桂川下流に向かえば、継体天皇が宮を築いた向日市の弟国宮、枚岡市の樟葉の宮、京田辺市の筒城宮に至る。
 継体天皇が、即位後、奈良に入らず淀川水系に宮を築いたことが古代の謎とされているが、新羅討伐をミッションとして即位した継体天皇の水運力や鉄製造の拠点のことを考えると、奈良に入らず淀川水系に宮を築いたことは、実に理にかなっている。
 丹後の遠所遺跡の性質を考えるうえで象徴的なのが、この遺跡のすぐそばにあるニゴレ古墳で、5世紀中旬の建造とされるが、ここからは立派な甲冑や、海上交通を示唆する準構造船を模した船形埴輪が出土した。まさに武器と水上交通が反映されている。

 丹後の羽衣伝説の天女が、人々の暮らしの向上に尽くした挙句、追い出されてしまったというストーリー。
 この内容を整理すると、峰山の扇谷遺跡から出土した弥生時代の斧製品に象徴される鉄技術は、農業生産性などを高めることにつながったが、この技術と関係あるのが、羽衣伝説の天女だということになる。この天女が豊受大神となり、伊勢神宮の外宮に祀られることになった。
 そして、この時の鉄技術は、農業の生産性を高めはしたものの、世界の陰と陽のバランスを完全に崩すことがなく、人々も、なんとか循環的な世界の中で生きていた。
 しかし、5世記以降、新たな鉄技術がもたらされた。その技術は、それまでの技術では還元できなかった砂鉄を、わざわざ東北から丹後半島まで運びこんで高品質の鉄製品を作るといったものだった。
 この新技術よって、戦闘の内容をはじめ、世界が大きく変わることになったのだろう。
 羽衣伝説で、天女とともに長年暮らして、その恩恵を受けていた翁が、ある時突然、天女を追い出してしまい、その後、村は荒廃した。
 この丹後の羽衣伝説には、過去における時代の転換期の記憶が反映されている。
 そして大事なことは、スサノオや月読神で象徴される新しい文明の力によって否定され、ないがしろにされた保食神豊受大神)を、アマテラス大神が、国の秩序安寧のために、名誉回復して国の中枢(伊勢の外宮)で祀るようにしたということ。
 アマテラス大神もまた、スサノオや月読神と同じくイザナミの死後という陰陽のバランスが崩れた時代に生まれた文明の神だが、そうした時代変化の後に、新たな方法で秩序と調和を維持するためにどうすべきかを象徴している神が、アマテラス大神ということになる。
 今の言葉で言うならば、不易流行ということになるだろうか。変化を受け入れながらも、変えてはいけないこと、もしくは変わらない本質的なことを大切にする。
 古代においても、社会環境が大きく変化する時があったが、その時にも、未来を憂い、どうすべきかを真摯に考える賢者、思想家や哲学者が存在していたのだろう。
 長く伝えられてきた神話伝承には、そのエッセンスが凝縮している。  

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羽衣伝説と深い関係が指摘される丹後峰山の比沼麻奈為神社豊受大神を祀る。