第1536回 日本に秘められた可能性


 この8年間、日本の古層を探究してきたけれど、今、なぜ東京を撮るのか。
 私は、風の旅人を作っていた時も、日本の古層をめぐる旅をしている時も、自分の関心は同じで、それは、世界、人間、そして日本人というものを、もっと深く知りたいということ。
 だから、風の旅人の創刊時に掲げたテーマ、森羅万象と人間、FIND THE ROOT(根元と求めよ)というのは、今も変わらずに自分の胸中にある。
 風の旅人は写真雑誌ではなかった。日本および世界の最高の写真を撮る人たちに協力を仰いだのも、一筋縄ではいかないテーマにそって誌面を具現化するために、それだけ深く世界と向き合っている人たちの力が必要だったから。
 なので、いわゆる「古代特集」とか、「東京特集」というカテゴライズで物事を括りたくはないという気持ちを、ずっと持ち続けている。
 今、東京や京都の街中で、針穴写真を設置して向かいあっているのは、目の前の現象の背後にある、この国のエッセンスだ。
 東京も京都も、外国人旅行客が必ずといっていいほど訪れたい場所だが、この二つの場所には、確かに日本文化および日本人の存り様が凝縮している。
 京都には日本という国に積み重ねられてきた歴史時間があり、そして東京には、日本という国に特有のダイナミズムがある。日本文化の骨格を感じるためには京都がいいだろうが、日本人の精神の骨格を感じるためには東京が最善だ。
 千年を超えて都であり続けた京都は、世界でも最長期間の都であった。
 そして、東京は、行政区画としては1000万ほどの都市とされるが、空から見ればわかるように埼玉や千葉や神奈川まで都市圏は広がっており、住民と仕事人を合わせて日本人全体の三分の1がここに集中しており、その密集度は世界一である。
 東京は、それだけの人口集中地帯であるにもかかわらず、混沌としているようでいて、比較的秩序だっている。そのため、期待とトキメキだけではなく、妙な安心感も漂い、夜遅くまで、無防備に享楽に耽る人も多い。
 そして、東京の街中で夢に浮かれたように楽しんだ後、満員電車に詰め込まれて自分の家に戻ると、以前から変わらない生活が続いている。
 表面的には様々な変化の刺激を受けていても、実質的には、何も変化していないのが東京ライフ。
 彼岸と此岸を行ったり来たりしているだけなのだが、実は、それが日本文化の本質でもある。
 能にしても、舞踊にしても、茶道などにしてもそうだが、現実と非現実のボーダレス化が、日本文化の表現の妙である。
 シェークスピアハムレットの台詞のように、「To be or not to be, that is the question.」ではないのだ。
 このハムレットの台詞に対する日本語による適切な訳は難しくて、40種類の翻訳があるようだが、坪内逍遥の「世にある、世にあらぬ、それが疑問じゃ」とか、多くの人々に馴染みのある「生きるべきか、死ぬべきか、それが問題だ」という訳など、その幅は大きい。
 この台詞は、日本人的感性とは違うものであって、だから、これだという日本語をあてはめることが難しい。
 beは、存在を示す言葉だ。だから、ハムレットの台詞は、「白か黒か」、「0か1か」、それが問題だと訴えている。
 ハムレットの問題は、自分の存在をかけてのもので、その「存在」は、死んだから消えてなくなるということではないのだ。
 敢えて日本語でいうならば、プライドが傷つく、自分の価値が下がることを意味する慣用句の、「これは、沽券に関わる問題だ!」ということになるのではないか。
 欧米文化において、こうした状況になると決闘が行われた。そのため、ハムレットは生命を落とすのだが、その死の際で、事の顛末を語り伝えてくれるよう親友ホレイショーに言い残す。
 日本人の場合は、同じ状況になった時は、切腹という選択があった。
 江戸時代以降は、その意味も大きく変わっていくが、もともと切腹は、武士が、自分の名誉を守るために行ったと考えられている。
 戦いに負けたり、謀反を疑われたりした者が、腹の中の真心をあらいざらい見せ、「汚名をそそいでください」という願いを込めて実行された。戦いに負けた武将が、自分の死と引き換えに家臣の命を救うという意義もあった。死んで名誉をとるという発想。
 権力者からの「死ね」という命令の下に切腹するにしても、自ら選んだ形をとることによって、名誉は保たれる。
 豊臣秀吉との軋轢で、切腹することになった千利休も、秀吉が本心では切腹を望んでいないことを察しながらも切腹を決行したのは、利休が考案した「にじり口」(武士も商人も誰もが身分差なく頭を下げて茶室に入る)のように、それが、天下人と自分を対等に位置付ける選択であると判断したからだろう。天下人の恩情によって生きながらえたとするよりも、潔く死ぬことで、汚名をそそぐ姿勢。
 ハムレットの台詞「To be or not to be, that is the question.」に対して、千利休ならば、「To be or not to be, yet the the principle is the same.」ということだろうか。 
 これは、まさに量子力学の世界だ。
 ニュートン力学に世界が支配されていた時代は、0か1、正義か悪かという欧米の世界観が地球上を覆い尽くすことになった。
 そして相対性理論が登場し、質量と運動によって宇宙のことを説明する時代となると、質量や運動量の多いところ(アメリカ)が、世界の支配者となった。
 今や、ニュートリノのように質量を持たないのにエネルギーがあるという幽霊粒子が発見され、相対性理論のように質量と運動量で宇宙の謎を解くわけにはいかない状況になっている。
 アインシュタインが、「神はサイコロを降らない」と受け入れなかった量子論が、もはやミクロの世界だけでなくマクロの世界においても通用する法則になろうとしている。
 つい最近の11月8日、理化学研究所などの研究グループが、「量子テレポーテーション」と呼ばれる現象を応用し、光を使った新たな方式の量子コンピューターを開発したことを発表した。
 2035年頃には実用化されるといわれる量子コンピューターだが、光を使った量子コンピューターの開発では、日本は、世界をリードしている。
 「量子もつれ(遠隔地においても起きる同時シンクロ現象)」など量子力学の世界は、20世紀までの物理学に影響を受けた思考では理解不可能な非現実の世界だったが、量子コンピュータは、この奇妙な自然原理を、私たちの現実世界に応用したものであり、このコンピュータが流通するようになるかもしれない次世代においては、こうした魔法のような現象も、ごく自然に受け入れられるようになるかもしれない。
 もともと日本文化の根底には、古典的力学(ああすれば、こうなる=計算や理論で予測可能な世界)ではなく、量子論的(魔法のような不可解で不確定な原理)な世界観が反映されている。
 21世紀には、きっと日本が歴史風土のなかで育んできた世界観が見直されることになる。
 日本人は、自分を取り戻すだけでいいというのに、いったい何をしたいのだろう。
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 新刊の「かんながらの道」は、書店での販売は行わず、オンラインだけでの販売となります。
 詳細およびお申し込みは、ホームページから、ご確認ください。よろしく、お願い申し上げます。https://www.kazetabi.jp/
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 また、新刊の内容に合わせて、京都と東京でワークショップを行います。
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<東京>日時:2024年12月14日(土)、12月15日(日) 午後12時半〜午後6時  
場所:かぜたび舎(東京) 東京都日野市高幡不動(最寄駅:京王線 高幡不動駅
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<京都>日時:2024年1月12日(日)、1月13日(月) 午後12時半〜午後6時
場所:かぜたび舎(京都) 京都市西京区嵐山森ノ前町(最寄駅:阪急 松尾大社駅