第1610回 ヤマトタケルと那須与一の重なりの不思議について

 10月25日(土)と26日(日)に行うワークショップの資料作りにおけるメモ。これは、まもなく印刷が完了する「みちのく古代巡礼」と、次の本とのあいだに架ける橋になるもの。
 みちのくの縄文世界は、次の時代の下地になっていて、「みちのく」という地域や「縄文」という時代区分に限定されてしまうものではありません。
 たとえば縄文後期の亀ヶ岡式土器は、沖縄まで流通していたし、東海地方の土器や糸魚川翡翠八ヶ岳の黒曜石が、みちのくの遺跡から発見されています。この広大なネットワーク(海上輸送力)が、後の時代にも連綿と続いており、古代日本の歴史のダイナミズムは、このネットワーク力によって生まれたのです。
 そして、もう一点大事なポイントは、みちのくが、未開で開発の遅れた地域であったという認識を持っている人が多いですが、それは大きな間違いであるということ。
 日本列島において、大陸に近い場所は九州だけでなく、みちのくもまた大陸に近い。みちのくが、古くから大陸との交流は盛んだったことは遺跡の出土物からも明らか。さらに金・銀・銅や鉄などの鉱物資源に恵まれ、奥州藤原氏の拠点だった平泉は、海外との交易で得た珍しい物や、黄金で溢れかえっていたことが記録に残っています。
 近畿地方は、地下資源にも恵まれておらず、大陸から一番離れている。播磨平野を除いて稲作に適した平地が広がっているわけでもない。だから、大和地方の豪族が、強力な産業基盤をもとに強力な武器を備えて軍事力によって全国を支配していたとは考えられない。
 近畿を中心にした全国的な秩序ができたのは、軍事力とは異なる力学によるものであり、考古学的にも、古墳時代後期に古墳から出土している甲冑や馬具などの武器関連は、群馬や栃木など東国が圧倒的に多く、それに次ぐのが九州で、近畿は、それほどでもない。
 近畿を中心とした日本全土におよぶ秩序世界が形成されたのは、事実上の初代天皇である第26代継体天皇が即位した西暦500年頃からと考えた方が理にかなっている。
 それ以前は、共通文字も、共通の暦もなく、氏姓制度もなかったので官僚組織もなかった。古代中国における帝王の役割は、これらをまず整えることであり、これなくして広大な国土を治めることはできなかった。一地域の豪族が軍事力だけで広い国土を制圧し続けることなどできないし、ましてや軍事力においては、東国の方が近畿よりも勝っていたことが、考古学的にも判明しています。
 ならば、西暦500年以降、近畿を軸にした勢力が、いかにして日本全土の秩序を整えていったのかが問題。
 このたび制作した「みちのく古代巡礼」のなかで、私は、ヤマトタケルについて、色々な人が説明してきたことと異なる視点から洞察をしています。
 ヤマトタケルの物語は、一般的に、ヤマト王権の拡大時期だと思われている西暦4世紀から5世紀にかけてのものではなく、もう少し後の時代でしょう。

 ここに添付した画像を見ていただければわかるのだけれど、ヤマトタケルの物語の舞台は、日本列島の東(常陸)と西(九州の日向)を結ぶ冬至のライン上に、きれいに重なっている。
 九州の延岡の行縢山が熊襲征伐の拠点で、三重の亀岡の忍山神社がヤマトタケルが東征する時に伴った妻の弟橘姫の生誕の地、その近くの加佐登神社倭文神社)がヤマトタケルの終焉の地。そして、茨城の那珂川流域の静神社の近く、水戸の吉田神社が鎮座する朝日山が、ヤマトタケル蝦夷征伐の拠点とされている。
 そして、吉田神社のすぐ近くの静神社が何を意味しているのかというと、ここが、日本書紀における、「国譲り神話」の最終決戦の舞台なのです。
 国譲り神話は、古事記日本書紀で少し異なっていて、古事記では、抵抗勢力として大国主や事代主やタケミナカタが登場しますが、日本書紀では、これらの神々をタケミカヅチが何とか抑えたものの、それでもまだ抵抗をし続ける天香香背男(あめのかがせお)がいて、建葉槌命(たけはづちのみこと)が、この抵抗を鎮めたという展開になっています。
 この建葉槌命は、別名が倭文神であり、織物の神。
 そして、「倭文氏」は、この神の後裔で、軍事氏族ではなく、揉め事の仲立ちの役割を担う勢力でした。
 ゆえに、建葉槌命による天香香背男の制圧は、軍事力によるものではなく、仲裁、調停、懐柔という意味合いがあります。 
 ならば、最後まで抵抗した天香香背男が何を表しているかというと、この神は、別名が天津甕星(あまつみかぼし)で、星神。
 星とは流星のことで、つまり隕石。古代世界において、鉄製品は、隕鉄の利用から始まったと考えられており、天津甕星というのは、鉄の技術を備えた産業力を象徴しています。
 そして、なぜ茨城県那珂川流域なのかというと、ここから北が、阿武隈産地をはじめ、豊かな鉱脈地帯だからです。
 織物の神、建葉槌命による隕鉄の神、天香香背男の説得という国譲りの最終舞台と、ヤマトタケル蝦夷鎮圧の拠点と重なっている理由は、ヤマトタケルの神話を作り出した人々が、建葉槌命という織物の神に関係ある人たちだったからなのでしょう。
 添付地図を確認していただければわかるように、ヤマトタケルの東西の遠征の場所をつなぐ冬至のライン上に、ヤマトタケルの関連地がありますが、たとえば、ヤマトタケルの終焉の地である加佐登神社倭文神社であり、さらに、このライン上に、山梨の倭文神社や、全国の倭文神社の総本社とされる近畿の二上山麓の葛木倭文坐天羽雷命神社が鎮座していることから、明らかに、揉め事の仲立ち役の「倭文」が関係していることがわかります。
 そして、重要なことは、倭文氏の仲立ちと説得が、織物が縦糸と横糸で象徴される意味を持ったものであること。縦糸と横糸は不易流行を象徴しており、一度張ったら張り替えのきかない経糸は常に変わらずに普遍のもので、横糸が状況によって変えていくべきものなのです。
 この経糸の普遍と、横糸の変化のビジョンがなければ、納得感が伴った説得は行えません。
 ならば、建葉槌命(織物の神)=倭文氏が伝える普遍性とは何なのかを考える必要があります。
 これを考えるにあたって、また別の角度からの視点が必要です。
 このヤマトタケルの活動を示す冬至のライン上に、倭文だけでなく、鳥取郷が重なっています。
 ヤマトタケルも死後、白鳥となって彷徨うので、ヤマトタケルの魂と鳥が重ね合わせられている。
 鳥取というのは、織物の神、建葉槌命の後裔である天湯河板挙(あめのゆかわたな)を祖としている。
 天湯河板挙は、垂仁天皇の時代に、口がきけない皇子、ホムツワケが口をきくきっかけとなった鳥を追いかけていった人物。
 渡り鳥がやってくる場所は、鉄資源と関係があるといわれます。渡り鳥は、磁力線を見ながら飛んでいるからです。
 なので、天湯河板挙を祖とする鳥取氏は、鉄製品を作る軍事勢力の顔も持っていた。
 丹後の遠處遺跡は、古代最大の製鉄遺跡ですが、この場所は、鳥取郷です。
 この遺跡のすぐ近くの二ゴレ古墳からは、甲冑と舟形埴輪が出土している。遠處遺跡の製鉄のために使われた砂鉄は、丹後地方のものではなく東北地方のものであり、はるばる東北から船でこの地まで運ぶ海運力と軍事力を備えて集団が、ここを拠点にしていたのです。
 しかし鳥取氏は、倭文氏の系統でもあるので、その軍事力は、侵略のためではなく、治安維持のためのもの。
 そして最大の謎は、ホムツワケが口をきけないことが、何を象徴しているのかということ。
 ホムツワケは、鳥を見て初めて言葉を発した。鳥は魂の象徴であり、彼が口をきけない状態は、「魂の寄る辺なさ」だということ。
 ホムツワケの父、垂仁天皇の時代というのは、それまでの殉葬が埴輪で代用されるなど、理性と合理性が進んだ時代であり、現代人と非常に似通った意識をもった時代でした。
 だから、現代人も感じている「魂の寄る辺なさ」だと理解すれば、ホムツワケの謎が解ける。 
 なぜそうなるのかというと、理性と合理性は良いところもあるが、万物の尺度を自分に置く意識分別を促進させる。
 そうした意識分別は、他との連携を断ち切っていき、肉体と心とのあいだも断ち切り、歴史時間との関係も断ち切る。
 口がきけないホムツワケは、この喪失感を象徴している
 だから、天湯河板挙が、このホムツワケのために鳥を追いかけるのは、その断ち切られたものを取り戻す行動ということになります。
 天湯河板挙を祖とする鳥取氏の役割も同じでした。
 そして、この倭文氏と鳥取氏が陰に隠れて創造されたのがヤマトタケルの物語ですが、古代と中世のあいだにおいても、似たような物語が、同じ勢力によって創造されました。
 それが、平家物語の中の那須与一の物語。
 屋島の合戦において、那須の与一が、船上で平家の女性がかざす扇を矢で射落とすシーンは、あまりも有名で、日本人なら知らない人はいません。
 平家物語は、文体その他に一体感がなく、様々な書き手が、いろいろと書き加えたり編集をしたことがわかっています。
 鎌倉幕府中枢の者が編纂したとされる吾妻鏡では、那須与一の物語は描かれていませんので、那須与一の伝説は、史実ではなく特定の勢力が作り出したものであり、これに鳥取氏が関わっていると考えられるのです。
 栃木の那須氏というのは、平将門の乱を鎮圧した栃木の武将、藤原秀郷の後裔ですが、実は、藤原秀郷は純粋に藤原氏ではなく、栃木に拠点を置いていた鳥取氏との婚姻で生まれた勢力のリーダーでした。
 秀郷の曾祖父の藤原藤成は、下毛国(栃木)の国司として赴任して、鳥取氏の娘と婚姻関係を結びました。
 この二人のあいだの子、豊沢(秀郷の祖父)は、母の鳥取氏のもとで育ち、鳥取氏の娘と婚姻関係を結んでいます。そして、藤原秀郷の父の村雄もまた、母の鳥取氏のもとで育っている。 
 この流れからして、藤原秀郷は、名前は藤原ですが、鳥取氏の勢力を束ねる立場にあったと考えられ、平将門の乱の鎮圧もまた、この力によるものだったのです。
 この藤原秀郷の後裔にあたる栃木の那須氏の背後にも、この鳥取の伝統が流れていたと思われます。
 興味深いことに、那須氏の拠点もまた、国譲りの最終決戦の舞台である那珂川流域であり、現代の大田原市が、那須氏関連の痕跡が多く残っています。
 そして、ヤマトタケルの東国と九州の活動を結ぶ冬至のラインと平行して、大田原市那須与一の墓から九州の天草まで、那須与一関連の地名や、那須与一の墓が、数多く配置されているのです。これは、偶然とは思えない正確さです。
 さらに、それらの場所に、倭文や鳥取が関係している。

 それでは、なにゆえに、那須与一の物語が必要だったのか?
 これ以上書くと、メモのつもりが、どこまでも長くなってしまうので、また別の機会にするとして、(ワークショップでは時間があれば説明します)、縄文時代が後の時代の下地になっているように、ヤマトタケルの神話が書かれた時代が、平家物語が書かれた時代の下地になっていることは明らかで、日本の歴史は、そのように重なりあっています。
 だからこそ、その古層の真相を探ることが、とても重要なことです。
 現代を生きるうえで、過去が、無関係ではないということ。
 過去から幾層にも積み重なっている歴史時間から意識を切り離してしまい、万物の尺度を自分自身に置いた個として彷徨っていると、「魂の寄る辺なさ」からは逃れられず、口のきけないホムツワケと同じ状態だということになります。 

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*新刊のみちのく古代巡礼は、ホームページで予約を受け付けています。
www.kazetabi.jp
 *10月25日(土)、26日(日)、東京で、11月28日(金)京都で、ワークショップセミナーを行います。詳細・お申し込みは、ホームページにて。