私の東京の拠点は、高幡不動と百草のあいだ。
百草という名からして、古代、ここは薬草の地だったのだろうか。
1989年、私の家から徒歩10分くらいの京王百草園内から、総出土量約5,000点にのぼる瓦が出土した。
この瓦を用いた建物は本瓦葺きの建物であったと推測され、これほどの数量の中世瓦が出土したのは、東京都内でここだけであり、この地に幻の真慈悲寺があったのではないかと、現在も調査が進められている。
真慈悲寺は、吾妻鏡にも登場するが、その所在地は長らく不明とされていた。
しかし、京王百草園に隣接する百草八幡神社が所蔵する1250年鋳造の阿弥陀如来坐像(国指定重要文化財)の背銘に、「日本武州多西吉冨真慈悲寺」と刻まれており、真慈悲寺があったのは武蔵国多西郡吉富郷 (日野市百草・落川を含む多摩市・府中市の一部)と考えられていたが、京王百草園一帯がその寺域に推定されるにとどまっていた。しかし、莫大な数の瓦の出現で、この場所が、真慈悲寺であると決定的になった。
百草のこの高台は、関東平野の西端にあたり、天気が良い時は東に筑波山を望み、西には富士山が見える。
古代、武蔵国の行政の中心だった府中の地も眼下に広がり、明治時代から文人に愛され、歌人、若山牧水なども、しばしば訪れて歌を詠んでいる。
水の音に 似て啼く鳥よ 山ざくら 松にまじれる 深山の昼を
彼は、「山と云つても岡です、(略)武蔵野の平原は地平につづくまで眼下に展開せられてゐます、地平から地平に横たはつて居るほの白い多摩の川、それも岡の麓に見ることが出来るのです、東京に近い割合に一体の空気(こころもち)が深山です」と友人宛に手紙を書いている。
今でも、この場所は、深山の趣を湛えており、野鳥も多く、フクロウもいる。
また、百草八幡神社境内から百草園の裏山にかけての広範囲に. スダジイが群生している。 最大のものは八幡神社本殿の裏山にあるもので、胸高直径130㎝、樹高17 m、推定樹齢は300年を超えている。
私の家の周辺も、シイノキがとても多く、どんぐりがたくさん落ちており、狸やキジなどの姿も、時々見かける。
京王線で新宿まで特急で35分だが、自然環境は、今でも豊かだ。
吾妻鏡によれば、真慈悲寺は、有尋という僧侶が源頼朝に訴えて鎌倉幕府が再興した祈祷の霊場だが、再興したということは、それ以前に築かれていたけれど、しばらく衰退していたということ。
ならば、いつ、この場所に、この霊場が築かれていたのか?
そして、なぜ、この場所が、霊場になったのか?
高幡不動には、空海が設置したという伝承のある巨大な不動明王像があり、関東三大不動と呼ばれている。
聖蹟桜ヶ丘も近く、ここには武蔵国一宮の小野神社が鎮座しており、日本に13基しかない八角墳の稲荷塚古墳もある。
古代、多摩川対岸の府中が行政の中心の国府だったため、その東岸を此岸とすると、西岸にあたるこの場所は、寺や神社など、彼岸へと通じる世界が築かれていた。
古代、多摩丘陵地帯から多摩川の西岸に広がる小高い丘まで、横山と呼ばれていた。
縦に聳えるのではなく、どこまでも横に広がっている高台ということだ。
この横山は、万葉集にも登場する。
赤駒を 山野にはがし 捕かにて 多摩の横山 徒歩ゆか遣らむ
(栗毛の馬が山野を駆け回るのを捕まえられず、多摩の横山を徒歩で行かせるのだろうか、いとしい夫を)
武蔵国豊島郡の宇遅部黒女(うぢべのくろめ)の歌だが、京都の「うじ」は、宇治平等院の開祖が小野氏の明尊であるなど和邇氏(小野氏の祖)と関わりの深い場所。
多摩の横山は、武蔵国を旅立ち、先行きの見えぬ彼方へと行く最初の境界であったとされる。
そして1105年頃に詠まれたとされる『堀河百首』の藤原顕仲の作品で、
明がたの み空ほのかに ほととぎす 多摩の横山 鳴きて越えけり
がある。
山際がほの明るんできた東の空から、多摩の横山を越えて、ほととぎすが飛来してきたという意味だが、ほととぎすは、「死出の山 越えて来つらん ほととぎす 恋しき人の 上語らなん」(拾遺集)という歌や、井原西鶴の句にあるように「無常鳥」とも呼ばれ、人生の儚さや冥土とのつながりを表す存在として描かれてきた。
すなわち、真慈悲寺があったとされる百草の地は、彼岸と此岸の境であり、さらに薬草が採れる場所であった。
これまで定期的に開催してきたワークショップのフィールドワークでは、1000年以上前の古代世界がテーマだったから、私の家の周辺では、くにたちの縄文世界や、小野神社や稲荷塚古墳や高幡不動尊金剛寺などを案内してきた。
新刊の「みちのく古代巡礼」では、みちのくの縄文世界と、古代世界のつながりを掘り下げる試みを行ったのだが、次のアプローチは、古代世界と中世世界がどうつながっているかを解き明かしていきたい。
具体的には、紫式部が源氏物語が書いた直後、藤原道長の息子の藤原頼通が、貴族の別荘だった宇治平等院を寺に造り替えて、貴族の時代から武士の時代へと突き進んでいく時期。
この頃、奥州の阿部氏が朝廷に従わなくなり、源頼義と、息子の義家が討伐のために派遣された。(前9年の役:1051〜1062)
当時の朝廷は、それほどの権力を持っていたわけでないから、全国に影響力を広げ始めた清和源氏(河内源氏)が、この戦いを、自分たちの勢力拡大の足掛かりにしようとしたのだと思われるが、この戦いを通じて、後の源頼朝につながる河内源氏と、武蔵国の武士たちの絆が強まった。
杉並区の永福町にある大宮八幡宮は、その時に創建されたもので、明治時代前までは、東京で一番大きな神社だった。
この神社は、弥生時代の方形周溝墓の場所に築かれており、石器時代からの湧水の地である井の頭公園と善福寺公園から流れる二つの川の合流点に近いところに位置しており、周辺には、石器時代や縄文時代の遺跡も点在している。
源頼義は、奥州に向かう途中、「武蔵国にて空に八条の白雲が棚引いているのを見た」とされ、これを源氏の白旗が翻ったかのように見た頼義は「八幡大神の御守護のしるしである」と喜び、これを吉兆とし、乱を鎮めた暁には必ずこの地に神社を構えることを誓って、武運を祈り出陣したという。
この大宮八幡宮の由緒は、『今昔物語集』の陸奥話記の記述にある「板東の猛者たちは、雲のごとくに集まり雨のごとくに来た。歩騎は数万…」という内容のことを、神秘的に象徴的に表現しているのではないかと思う。
すなわち、奥州の阿部討伐という大義名分のために、武蔵国の精兵たちが、源頼義のもとに集まり、頼義の私的武士団となったのだ。
その中で、特に活躍が目覚ましかったのが、小野篁の末裔とされる小野経兼。彼は、祖父の代に、小野牧(牧とは馬を飼育するところ)を任されて武蔵国に下向していた。
もともと武蔵国の聖蹟桜ヶ丘に小野神社が鎮座しているように、このあたりは小野氏と結びつきの強い地域だった。
彼は、源頼義に従って前九年の役に参戦し、敵将・安倍貞任(あべのさだとう)の首級を挙げた功績で知られている。
小野経兼は、この戦功により、源義家から武蔵国多摩郡横山庄と相模国下足柄郡を与えられ、横山庄に本拠を置いたのだった。
そして、この横山に拠点を置いた小野経兼の子孫は、横山党を名乗り、武蔵七党の一つとして、源頼朝に仕え、有力な御家人として活躍した。
横山の地の百草にあったとされる真慈悲寺は、有尋という僧侶が源頼朝に訴えて再興されたわけだが、頼朝が有尋の訴えを受け止めたのも、ここが源頼義や、横山党の祖である小野経兼のゆかりの地だからだろう。
小野経兼は、小野篁の末裔であり、小野篁は、京都の六道珍皇寺の冥土通いの井戸を通じて、昼間は、嵯峨天皇に仕え、夜は地獄の閻魔大王に仕えたという伝承が残るように、ホトトギスのように、彼岸と此岸を行き交う存在とされた。
最近、完成した「みちのく古代巡礼」のなかでも詳しく紹介したが、小野氏は、蝦夷の反乱を武力でなく懐柔政策によって鎮めるために陸奥守に任命された学者の小野岑守や、飛鳥時代の小野妹子を代表とする外交官など、境界を整える役割を担った勢力だった。
真慈悲寺があったと考えられている場所から、なだらかな丘を聖蹟桜ヶ丘に方にくだっていくと、日本に13基しかない八角墳の稲荷塚古墳があり、武蔵国一宮の小野神社も鎮座している。
八角墳は、近畿圏の8基は天武天皇一族の王族の墓だが、関東の5基は、被葬者がわからない。しかし、群馬の藤岡と聖蹟桜ヶ丘は小野の地であり、それ以外の茨城、山梨、群馬の三基は、和邇氏(小野氏の祖)の母から生まれたヤマトタケルの伝承が残るところで、和邇(小野)の存在が背後に見え隠れする。
真慈悲寺が、誰の手によって築かれたかは謎だが、源頼義に仕えて奥州征伐で軍功をあげ、この横山庄を本拠とした小野経兼が、彼岸と此岸の境界であるこの地に霊場を築いていたと、私は想像している。
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新刊の「みちのく古代巡礼」は、ホームページで発売しています。
https://www.kazetabi.jp/
12月20日(土)、21日(日)に東京で、今年最後のワークショップ&フィールドワークを行います。詳しくはホームページをご覧ください。
https://www.kazetabi.jp/%E9%A2%A8%E5%A4%A9%E5%A1%BE-%E3%83%AF%E3%83%BC%E3%82%AF%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%83%E3%83%97-%E3%82%BB%E3%83%9F%E3%83%8A%E3%83%BC/