第1616回 みちのく世界との境

箒川と那珂川に挟まれた日本最大級の扇状地からは、真西に日光連山を望める。

 栃木県の大田原市は、古代、那須国造の収めていたところで、源平の戦いの時、屋島の合戦で船の上の扇を射落とした伝承の那須与一で知られる那須氏が拠点としたところ。
 この場所は、縄文時代から東北と関東の接点で、縄文遺跡の槻沢遺跡からは、東北形式と関東形式が混じった30個の土器や土器片が出土している。 

箒川と那珂川に挟まれた日本最大級の扇状地にある槻沢遺跡からは、東北形式と関東形式が混じった30個の土器や土器片が出土している。

 この場所の北20kmのところが白河の関で、ここが、古代、「みちのくの玄関口」。このたび刊行した「みちのく古代巡礼」は、この白河の席の北側の古層をめぐる旅で、次は、この白河の関から南へと潜入していくことになるのだが、この白河の関のすぐ南は、那珂川下流に築かれた装飾古墳の虎塚古墳のように、九州の有明海とつながっているポイントがいくつかある。
 さらに、この那珂川流域が、ヤマトタケル蝦夷鎮圧や、日本書紀における国譲り神話の最後の舞台となっている。
 古事記の国譲り神話は、日本人なら誰でも知っている大国主命タケミカヅチの物語だが、日本書紀では、タケミカヅチでも服従させることができなかった天香香背男(あめのかがせお)という流星の神(おそらく隕鉄を意味している)が存在し、この神に対して、最後の切り札として、建葉槌命(たけはづちのみこと)という織物の神が出ていき、なんとか服従させたというストーリーになっている。
 こちらの日本書紀の国譲りの顛末は、あまり知られていないが、なぜ、古事記日本書紀とのあいだに違いが生じているのか、そこにも古代の謎が潜んでいる。
 古事記日本書紀の違いについて、万葉仮名の古事記は国内向け、漢文の日本書紀は海外向けなどと説明する専門家もいるが、日本書紀には、万葉仮名の和歌も含まれているし、日本書紀は、わざわざ「一書に曰く」と、他の見解もあるということを匂わせて記述して、その他の見解を、細かく示している。
「或書曰く、此神は海より来たり。或書曰く、天より降る。
是を以て曰く、其の来処は詳らかならず。」
 海外向けならば、わざわざ、こうした回りくどい表現をする必要はなく、すなわち、古事記よりも日本書紀の方が、実際に起きたことを、どう具体的に正確に表記するかという意識が、より強いのではないかと思われる。
 だとすると、国譲りの神話も、那珂川流域の攻防が、より事実に近い出来事だと解釈することも可能で、ここに登場する建葉槌命=織物の神が、日本の歴史上、重要な役割を担っているということになる。
 この重要な役割は、決定的な答えを与えられないかもしれないけれど、心の片隅に保留しておくべき問いであり、その織物が意味することが何であるかの問いは、歴史の真相を考えるうえでも、重要な鍵になってくるのではないかと思う。
 この建葉槌命の後裔で、第11代垂仁天皇の皇子で口がきけなかったホムツワケのために鳥を追いかけていった天湯河板挙(あめのゆかわたな)が、鳥取氏の祖となり、この鳥取氏が陰に隠れているのが、栃木の豪族で平将門の乱を鎮圧した藤原秀郷。さらに、その後裔が、奥州藤原氏と、那須与一に象徴される那須氏ということになる。
 この奥州藤原氏那須与一を結びつけるのが源義経
 奥州藤原氏は、源義経を育て、そして義経とともに滅んだ。
 那須与一は、那須氏全体として平家側についていたのに、義経との運命的な出会いによって、義経に同行し、屋島の合戦での活躍にいたる。
 しかし、屋島の合戦の活躍や那須与一の名前は吾妻鏡には記されておらず、史実ではなく作られた物語だと思うが、重要なことは、この源平の戦いの褒賞として那須氏が得たとされる全国の所領。
 具体的には、埼玉古墳群のある行田、東日本最古の前方後方墳弘法山古墳のある松本、神武天皇の東征を導いたシイネツヒコの後裔である古代海人族の八木氏の拠点だった京丹波日本海交易の玄関口の若狭の小浜、広島と岡山の県境で、古代から有数の鉱脈地帯だった井原。この井原からは、東北の亀ヶ岡式土偶の目の部分が出土している。
 これらの場所は、古代からネットワークで結ばれていた地域であり、那須氏が、それらのネットワークにおいて何かしら特別の役割を果たしていたと考えられ、それが陰に隠れた鳥取氏や、この鳥取氏の祖にあたる織物の神であり揉め事の仲裁や仲立ちの役割を担った倭文という勢力とのつながりが秘められているのではないかと想像できる。
 古代那須氏の拠点の栃木県の大田原は、地図で見ると、かなり内陸部だけれど、那珂川と箒川に挟まれた緩やかな傾斜を持つ台地で、面積は約40,300ha。日本の扇状地としては最大級のものとされる。
 そのほぼ中央には蛇尾川が流れていて、箒川に合流する。箒川の上流部は、黒曜石の産地。
 火山大国の日本では100ヶ所以上の黒曜石原産地があるが、関東では、唯一、この箒川の上流部の高原山だけで、ここは日本最古の黒曜石採取地とされている。
 約4万年前から始まる旧石器時代に、この場所で黒曜石を採掘した遺跡が残っている。
 現代でも、高原山まで行かなくても、箒川をたどって河原に流れ着いた黒曜石を得ることも可能。
 さらに、この那須扇状地は、厚い砂礫層で水が染み込むが、この砂礫層の下には伏流し蓄水した豊富な水量の地下水があり、その水が湧き出る場所が点在している。調査では、40 か所以上が確認されており、その湧水の場所に、縄文集落が営まれていた。

箒川と那珂川に挟まれた日本最大級の扇状地にある平林真子遺跡。ここは、敷石住居跡と帯状配石遺構が確認さたが、何かしらの祭祀の場と考えられている。また関東全域で見られる阿玉台土器や、加曽利式土器などが出土している。

 この扇状地から真西の方向には、男体山、女峰山をはじめとする日光連山を雄大な姿を望める。ちょうど太陽が沈んで行く方向なので、何かしら特別の感慨も生じる。
 この場所にある縄文遺跡で、東北形式と関東形式が混じった30個の土器や土器片が出土した槻沢遺跡は、蛇尾川の東側の小高い丘陵地帯に広がっている約4000年~5000年前の遺跡で、住居跡約180、食糧貯蔵のための穴が約450が確認され、縄文時代の大集落跡であったことが分かっている。
 ここから南東に7kmほどのところに、同じ時代の平林真子遺跡があり、ここもまた、蛇尾川のすぐ東にある。
 ここは、敷石住居跡と帯状配石遺構が確認さたが、何かしらの祭祀の場と考えられている。また関東全域で見られる阿玉台土器や、加曽利式土器などが出土している。
 この日本最大級の扇状地は、この場所だけに閉じた文化圏ではなく、縄文時代から、広い地域とネットワークが結ばれていた。そのうえで、「みちのく世界」との隣接地隊だった。
 那須与一源義経が出会ったのは、義経が、那須岳の別称がある茶臼岳(1915m)の麓にある那須温泉神社に必勝祈願にきた時のことだった。その時、与一は、那須岳に弓の稽古にきていた。
 那須与一が、屋島の合戦で扇を射落とす時、八幡大菩薩、吾が国の神明、日光権現宇都宮、そして、義経と出会った場所である那須温泉大明神に祈願した。
 那須与一の伝承と、源義経の伝承は、全国に広がっており、それは、彼らの物語を全国に伝えた人たちが存在していたからこそ。
 この二人の物語を通じて、いったい何を伝えようとしたのか?
 そのことを考えることが、日本の中世と古代とのつながりを洞察することにもつながってくる。
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 新刊の「みちのく古代巡礼」は、ホームページで発売しています。
 12月20日(土)、21日(日)に東京で、今年最後のワークショップ&フィールドワークを行います。詳しくはホームページをご覧ください。

https://www.kazetabi.jp/

箒川と那珂川に挟まれた日本最大級の扇状地にある平林真子遺跡。ここは、敷石住居跡と帯状配石遺構が確認さたが、何かしらの祭祀の場と考えられている。また関東全域で見られる阿玉台土器や、加曽利式土器などが出土している。