京都市右京区の一部でありながら、山の懐の奥深くに位置している京北地域。
京都観光で訪れる人のアンテナには、ほとんど引っかかっていないと思うが、実は、かなり歴史的にディープなところで、古墳・古墳群は43箇所、総数は 235基を数えるとされる。その大半は、山中に築かれているので、今後の踏査によって、さらに数は増加する可能性が極めて高い。
現代は、太平洋側が表日本、日本海側が裏日本と形容されるように、太平洋側の海岸地帯以外の山間部や日本海側は寂れた地域というイメージが強い。
しかし、古代から中世、日本の大陸への玄関口は、現代の裏日本であり、裏日本と京都や奈良の都を結ぶ場所が重要地で、京北もまたそうだった。
日本人が海外に行く時でもそうだが、その国の歴史に対して、自国民より外国人の方が関心が深かったり、地元の人にとっては当たり前の自然風景や伝統産業が異国人から見れば奇異に見えるというのは万国共通であり、そのため、現代、インバウンド旅行で賑わう日本でも、飛騨高山とか辺鄙な場所が多くの外国人で溢れかえっており、私が探し当てた秘境地域で日本人より外国人の方が多いという現象もある。
日本人においても、2011年3月11日の東北大震災をきっかけに生き方や仕事や住む場所を、都会から移した人間は、私自身もそうだけれど、私の周りでもけっこういる。
東北大震災の後、風の旅人を休刊したのだが、それまで編集部で一緒に仕事をしていた中山慶は、私より一歩先に京都の京北に移住した。
そして京北を拠点に、これまで10年以上に渡って、地域再生デザインの事業を展開している。
彼は、英語と中国語の通訳と翻訳において、群を抜いて優れているので、外国人を京北の地に招き入れるというスタイルを軸に事業をすすめてきたが、いわゆるインバウンド旅行のショッピングやレジャー、物見遊山の形ではなく、たとえば海外の学校と交流をもって海外の若者たちに京北文化の現地体験をしてもらうといったことを行っている。
こうした京北での経験をもとに、関西中の里山地域や、鳥取や島根、愛知や岐阜、長野などでも、ガイド養成を行いながら、その地域の住人とともに、それぞれの地域を深く再発見していく試みを試行錯誤している。
再発見というのは重要な鍵で、京都でもそうだが、形式化の手垢まみれになっている伝統とか文化というものを客寄せパンダのようにして商売道具にする傾向はどこにでも見られるが、炭酸の抜けたビールみたいというか、魂の抜け殻に触れるようなもので、心に引っ掛かり続けるものが残らないから、後に何かの創発の種になることもない。
とりわけ若い人たちにとって、自分に染み付いている価値観(コスモロジー)と異なる価値観(コスモロジー)に触れて交わることで心に生じる揺らぎは、現在、トランプ政権に限らず世界各国で急速に進んでいる自国中心(自分中心)主義の保守化という不気味な流れに、安易に巻き込まれて同質化してしまって極めて狭量な人間にならないための貴重な経験になるだろう。
新しいイデアは、最近流行の「調和」とか「共生」といった、耳障りがよくて、かつ日本の学校教育のなかで奨励されてきた内容のものとは少し違うような気がする。
もちろん調和とか共生には深い意味もあるが、一般的には、他者に合わせるというニュアンスが漂い、主体性をもたないがゆえに、その方が楽という人もいる。
自然界の共生は、ミツバチと花の関係でもわかるように、はるかに緊張感があるもので、お互いに補い合うことは、お互いに相手を利用しあうことでもあり、とはいえ相手に依存しすぎたり、むさぼりすぎると、バランスが崩れ、自分も滅びる。それは国と個人の関係においても同じだ。
なんでもかんでも国の責任だと声を荒げることは、結果的に、自らの心も荒廃させていくだろう。
古代において、地域や勢力が独立しながら他と巧みに交流を維持していた段階から、個別の存在を一つの共同体=体制の構成員に組み入れていかざるを得ない段階にいたった時、共同体のなかでの個別の存在の役割意識は、現代人が想像しているものより強かったのでなかったかと思う。
それはミツバチと花の関係のように、シビアなまでに緊張感のある持ちつ持たれつの関係で、その組み合わせの総体が「共同体」であり「クニ」だった。
前置きが長くなったが、京北を拠点に活動を深め広げている中山が、京北の古民家を賃借することになった。
その写真を見せてもらうと、かつては地域の名主だったのではないかと思う立派な佇まいで、南正面に桂川が流れ、川の向こうに小山がそびえている。
しかも、背後の山が「中山」で、その懐に古墳群があるという。
地図で確認してみると、その古墳群は折谷古墳群で、調査は十分に進んでいないが横穴式石室を持つ円墳が19基ほどある。
京北にある総数 235基(現状では)の古墳の大半が未調査だが、弓削川と桂川の合流点にある周山古墳(方墳5基、円墳4基)は詳しい調査がされており、古墳時代前期末(4世紀中旬)のものとされ、これが、この地域の最も古い段階の古墳群と考えられている。
その周山古墳群から桂川を1km遡ったところにある折谷古墳群は、横穴式石室を備えているので、6世紀に入ってからのものと考えられる。
19基という古墳の数からして、6世紀以降、この場所が、この地域の中心勢力にとって重要な場所であった可能性が高い。
しかも、中山慶が賃借することになった、かつての名主の邸宅のような古民家の持ち主の名が「水口」で、隣近所も「水口」さんだと聞くと、私はすぐに「大水口宿禰」のことが頭に浮かぶ。
しかも裏山が「中山」。
「中山」という名は、製鉄と関係している場所が多く、中山の名がつく神社は、製鉄の神とされる金山彦を祀っていることが多い。
美濃国一宮の南宮大社は、金山彦を主神とする代表的な神社で、この周辺は製鉄関係の遺跡が多いけれど、平安時代の『延喜式神名帳』では、この南宮大社は「美濃国不破郡 仲山金山彦神社」と記されている。
また、古代吉備における重要地に「中山」の名が多く、その代表が、津山の中山神社と、吉備津神社と吉備津彦神社がある場所の、古墳時代前期の吉備を代表する中山茶臼山古墳。
「中山」は、中国において鉄の生産を伝える「山海経」なる経典の中の「五蔵山経」が、南山経・西山経・北山経・東山経・中山経の五篇で構成されていて、中でも中山経は出鉄・製鉄の中心として描かれていて、ここから「中山」と「鉄」の関係が生じたという説がある。
「中山」と「水口」、これはきっと何かあると閃き、さっそく中山慶の新居を見せてもらうことと、裏山の古墳群を探検するために出かけていった。
彼の家に着くと、まず敷地内の立派な倉庫を案内してもらい、残されていた家系図を見せてもらった。
そうすると、やはり最初の方に、「大水口宿禰」の名があり、祖先に、吉備の美作守がいることも記録されていた。
「大水口宿禰」の名を聞いてピンとくる人は、ほとんどいないが、この人物は、古代の男巫。ヤマトタケルの妻となって東征の際、浦賀水道(走水の海)で荒れた海を鎮めるために海に入水して夫の使命を助けた弟橘姫の祖父にあたる。
大水口宿禰自身は、第10代崇神天皇の時代に、大物主神の祟りで国に禍いが頻発した時、大田田根子を大物主神の祭主にするよう神託を授かった存在として日本書紀に登場する。
現在、中山慶が暮らす京北の水口氏の古民家に残されている家系図は、おそらく1000年を超えて伝えられてきたものではなく、江戸時代後期に、秦氏の系統の三上景文によってまとめられた『地下家伝』にもとずくものだと思う。
『地下家伝』は、京都の地下諸家の歴代当主の名前、父母の名、生没年月日、叙位任官の履歴等を網羅したもので、地下とは、朝廷に仕えながら昇殿が許されない臣下のこと。
昇殿は、清涼殿の天皇の日常の場に昇ることであり、それが許されるかどうかは出自(家格)や、職務によって異なってくるが、昇殿を許されない多くの者たちによって、朝廷の各種行事の運営などが司られていた。
京北の地は、平安京の時代から都への材木資源の供給地である杣として知られているが、もう一つ、鮎を通じた贄人でもあった。そして、この京北の地を治めていたのが水口氏だった。
贄人というのは、朝廷への供物としての食材を担う人々でもあるが、古代の朝廷の神事に、魚介類・海産物などは欠かせず、これらの“生贄”を献上することを職掌とした人々がいた。
そして、人間が「贄」と表現されているケースもあるが、実際に殺して供犠したという意味ではなく、その多くは、神に献げるために派遣される人、すなわち神への奉仕のために特定の地に送られたり特定の職務に就く人など、 宗教・祭祀的な役割を負わされた人物を指すことが多い。
京北の水口氏の祖に位置付けられている大水口宿禰は、史実の人物かどうかはわからないが、ヤマトタケルの使命のために自己犠牲を行った弟橘媛の祖父であり、象徴的な意味で、贄人のルーツということになる。
そして、「贄人」は、歴史の陰に隠れているのだが、日本文化や日本人の心の古層を解明するうえで、この「贄人」のことを、もう少し明るみに出す必要がある。
太平洋戦争の時に、敗戦とか全滅という言葉の代わりに「玉砕」という言葉が使われ、敗戦濃厚のなかでも国民の士気を高揚させるために一億玉砕の決心と覚悟による結束で苦境を脱するという発想は、散る花の美しさと重ねられたわけだが、その下地として、古くから継続されてきた「神聖なる贄の精神」が日本人の心に潜在しているからだ。そのことに無自覚で無認識のままだと、無防備のまま、権力によって心が操られる可能性がある。
古代からの「贄」の構造は、単純に「供犠の名残」ではなく、祭祀、神話、文学的原型としての『犠牲的奉捧(自己を捧げる者)』の美学が連続していると捉えた方がいい。
たとえば、日本人は歴史を通じて判官贔屓の傾向が強く、源頼朝より源義経を好む人が多い。
明治維新政府では、大久保利通よりも西郷隆盛。これが日本的な“英雄観”の特徴だ。
大義のために尽くした者が、その功績とは裏腹に滅びる。
その死は「時代のため」「誰かのため」に捧げられたように感じられる。
本人の意思とは関係なく、時代の宿命に巻き込まれる。
その“犠牲”の在り方が、後世の人々の心を打ち、美意識となっている。
日本の古代における「贄」は、単に“殺される犠牲者”ではなく、共同体の安泰のために差し出される存在であり、そうした犠牲が、“浄化”として受け止められた。
こうした贄の構造において、誰でも知っている神話上のルーツが、ヤマトタケルと、その妻の弟橘姫ということになる。
日本文化には、こうした「贄の美学」と言うべき精神の古層が存在している。
ヤマトタケルも源義経も、彼らについて伝えられてきた物語は、史実かどうかは確かではないが、確かなことは、「贄としての英雄」という日本の古層に宿る精神の原型であるということ。
ここで京北に戻るが、京北の地は、中世、山国荘という東大寺の末寺領の荘園でもあり、東大寺とも関係が深くて、この地域の荘管が、水口氏と、鳥居氏だった。
今でも「鳥居」という地名が、上に述べた中山慶の古民家の1kmほど東北にあり、その場所に聳えるのが山国富士とも称される姑棄野山(標高429m)であり、別名が、姥捨山だ。
この山の名にも「贄」の名残があるが、実は、鳥居氏というのは、穂積氏の系統の藤白鈴木氏の一族とされ、この藤白鈴木氏は、源平合戦において源義経に従い、熊野水軍を説得して源氏側の味方にすることで屋島の合戦の勝利へと導いた存在なのだが、その後に奥州藤原氏の元に落ち伸びた義経に合流し、衣川の戦いで義経と最期をともにしたと伝えられる。
この鳥居氏にも贄の精神の構造が隠れているのだ。
水口氏は、大水口宿禰の息子で弟橘姫の父の忍山宿禰が穂積氏の祖なので、鳥居氏のルーツである「穂積氏」ともつながっている。
この穂積氏は、歴史的に具体的な活動が残されているのは、中山慶の古民家の裏山の折谷古墳群と同じ時期の6世紀前半に活躍した穂積押山から。
穂積押山は、第26代継体天皇に仕え、百済への使者に任命されて朝鮮半島で活躍した。
史実として初代天皇とされる継体天皇は、近江高島が生誕の地で、近江高島から琵琶湖へと注ぐ安曇川の源流は、京都の北の花背。花背は桂川の源流でもあり、ここから桂川は、京北、亀岡を流れて保津川渓谷から京都に入り、継体天皇が宮を築いた向日山の弟国宮や、枚方の葛葉宮のそばを流れ、大阪湾へとつながる。
つまり継体天皇の背後にいた勢力にとって、京北の地は、継体天皇の拠点であった滋賀や福井と、継体天皇が築いた宮のあいだの河川交通路に位置している。
そして、京北を東西に横切るのが桂川だとすると、南北に横切るのが弓削川。弓削川は、北上すると茅葺きの里として知られる美山に至るが、その北を由良川が流れており、由良川を遡れば若狭湾へと至る。
この弓削川流域には、縄文時代や弥生時代の遺跡も多く、下弓削町からは銅鐸も出土している。
この銅鐸出土地から東に800mのところに福徳寺があり、ここは別名、弓削寺で、711年に行基が創建し、弓削道鏡が七堂伽藍を整え弓削寺と称したとされる。
弓削道鏡というのは、奈良時代後半、女帝の称徳天皇の寵愛が深く、自らが天皇に即位しようとした僧侶だが、出自は弓削氏で、弓削氏というのは古代の日本で弓を製作する弓削部を統率した氏族だった。
弓もまた殺生のため使われるが、神事などにおける大事な神具でもあり、弓をかき鳴らす鳴弦の儀や、高い音の出る鏑矢を用いて射る蟇目の儀(ひきめのぎ)など、邪を祓う儀礼に用いられた。
京北の地を東西に流れる桂川流域は、水口氏や鳥居氏など、弟橘姫の穂積氏をルーツとする氏族が治め、南北に流れる弓削川流域は、弓削氏が関わっていた可能性がある。
弓削氏は、天日鷲神の子孫を称しているのだが、天日鷲神は、麻の殖産とも関わりが深く、この神と同一視されたり弟とされたり息子とされるのが織物の神、天羽槌雄神で、別名が建葉槌命。この神は、日本書紀の国譲り神話で、最後に残された抵抗者である香香背男に対して、説得交渉を行って服従させた神である。
この天羽槌雄神の末裔が、口のきけない皇子ホムツワケのために鳥を追いかけていったアメノユカワタナで、その末裔が鳥取氏。平将門の乱を鎮めた藤原秀郷は、女系を辿れば鳥取氏であり、藤原秀郷の末裔が、源義経を匿って滅んだ奥州藤原氏。さらに弓の名人として義経に仕え、屋島の合戦で活躍した伝承が残る那須与一も同じである。
弓削川が流れる京北の西に隣接する日吉町は、源平の戦いの後、那須氏に与えられた所領だった。さらに日吉町に隣接する亀岡市には、那須与一伝承が残り、与一堂が築かれている。
さらに不可思議なことに、日吉町は那須氏が所領とする前は、平氏の所領、その前は源頼政の所領だったとされるが、源頼政は、「平家にあらずんば人に非ず」と伝えられる平氏の全盛期に、一番最初に平氏打倒の兵を挙げたものの宇治川の合戦で敗れた。彼の首は、頼政の家来が、所領だった亀岡の地に持ち帰り、今そこに頼政塚があるが、那須与一堂のすぐ近くである。二人とも弓の名人として後の時代に伝えられているが、この二人を重ね合わせた人々が、陰に存在している。
実は、この頼政塚や与一堂の真北10kmのところに神吉という場所があり、ここは能の謡曲にある「氷室」の舞台である。
そして、頼政塚や与一堂の真南16kmのところにも氷室(高槻市)という地名が残る。ここは継体天皇が眠る今城塚古墳のすぐそばだが、この氷室の祭祀を司っていたのが、大阪の淀川河口にある坐摩神社の神職の闘鶏氏で、この闘鶏氏を祖とするのが鬼退治で有名な渡辺綱の渡辺氏。
渡辺氏は、源頼政の郎党として軍事部門の主力であり、平氏と戦った宇治川の合戦で、その一族の多くの者が亡くなった。
渡辺氏が仕えた源頼政を平家打倒の立役者の一人の那須与一と重ね合わせたのは、神吉と高槻の氷室を結ぶライン上に、那須与一堂や頼政塚が位置していることからも、氷室祭祀を司っていた大阪の坐魔神社の渡辺氏の可能性が高い。
大阪の坐摩神社は、かつて大阪城のところに鎮座していたが、ここは、大和川が淀川に合流するところだった。そして大和川は、この場所から大阪の藤井寺を通って奈良盆地に至り、三輪山の麓へと至るが、生駒山から下流域に、御野縣主神社や天湯川田神社など、鳥取氏の祖であるアメノユカワタナを祀っているところが多く残る。
坐摩神社の氷室祭祀と鳥取氏は何かしらのかたちで結びついている。
氷室というのは、古代、氷を貯蔵していたところだが、氷は、朝廷の神事とも大きく関わっていた。とりわけ、贄の鮮度を保つうえで重要な役割を果たしていたことだろう。
京北の鮎を宮廷に運ぶ際にも、すぐ近くの神吉の氷室が、関係していたはずである。
平将門の乱を鎮めた藤原秀郷の背後にも隠れている鳥取氏は、軍事集団であったが、その軍事は、自らの欲のためではなく、治安維持などの使命に向けられていた。
しかし、それは殺生行為でもあり、穢れを背負うことになる。
大事な役割を果たしながら穢れを負っている者は、当然ながら、天皇が暮らす場所には昇殿できない。
京北の水口氏や鳥居氏、そして、自らの犠牲を覚悟した使命の戦いで敵を殺める鳥取氏や、鬼退治伝承のある渡辺氏は、贄人ということになる。
殉死の代わりに埴輪を使うこととし、竹野媛を醜いからといって忌避した垂仁天皇は、「穢れ」を醜いものとして遠ざけたのだろう。
この垂仁天皇の第一皇子が口のきけないホムツワケ。このホムツワケのために鳥を追いかけていったのが鳥取氏。古代、鳥は、魂を運ぶものだから、この神話は、魂を取り戻すためには穢れを背負う覚悟=贄の精神が必要というふうにも読み取れる。
すなわち垂仁天皇に象徴される自己分別への執着は、魂の喪失につながり、自己放棄が魂を取り戻すことにつながる。
こうした考えが良いか悪いかではなく、源義経のことに限らず、後々まで伝えられている物語にはこうした構造のものが多く、そのため日本人の心には、この構造が深く潜在化している。
だから、神の国日本というイデオロギーの圧力が高まれば、魂を取り戻す=生きることの意味を取り戻すための自己放棄が推奨され、それが潜在的な欲求とも合致して、たちまちそれ一色になる可能性がある。
しかし、たちまちそれ一色になるのは、自己分別への執着による魂の喪失状態にあるからであり、穢れを背負う覚悟で生きて魂をつなぎとめている人は、穢れが、人間界に限らない生命界全体の関係性を貫く摂理であることを認識している。
それは花とミツバチの関係のように、それぞれ固有の、複雑精妙なバランスのうえに成り立つ関係性だと弁えているので、単純化された集団的潮流に盲目的に巻き込まれたりしない。
歴史でもそうだが、奈良や京都を中心に、日本という国全体を、蘇我馬子や藤原不比等など特定人物の横暴や陰謀で説明してしまう人もいるが、実際の歴史は、日本各地の隅々まで、固有の事情と関係性によって成り立っている。面白いのは、そのミクロとマクロが、まったく無関係ではなく、響き合っているということ。
一つの地域の狭いところにも、豊かな神話的コスモロジーが存在し、具体的に、その痕跡が残されており、しかもその痕跡は、他のどこかと絶妙につながっている。
歴史の真相を読み解くことは、事実を追いかけることではなく、どこまでも果てしないつながりを追いかけていくことではないかと思う。
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