その場所を訪れたからといって、その場所のことを理解できるわけではないが、その場所を訪れることなく、その場所の歴史をリアルに感じ取ることも難しい。
前回のエントリーで、京都の北部、京北地方のことに触れた。
京北は、京都市右京区だから京都市の一部ということになるが、歴史的には、平安京以前は、京都市よりも亀岡とのつながりの方が深いのではないかと思う。
なぜなら日本海方面から弓削川を通り、琵琶湖方面からは安曇川と桂川を通って京北に入ってくるわけだが、京北から京都市までは峻険な山を超えるよりは桂川沿いに移動した方が簡単だったはずで、そうすると、京北からは日吉町、八木町、そして亀岡市に至り、保津川渓谷を抜けてから京都市に入ることになる。
亀岡からは、西に向かえば丹波篠山を経て鉱物資源の豊かな西脇や生野に至り、南に向かえば宝塚を経て瀬戸内海だが、その途中に多田銀銅山もあり、ここが清和源氏(多田源氏)発祥の地だった。
そうした地政学的な条件からも、清和源氏の流れをくむ足利尊氏が、鎌倉幕府打倒の兵を挙げたのが亀岡の篠村八幡宮の場所だったことも理解できる。
京北の記事で、折谷古墳群のことを書いた。中山という山の南斜面に築かれた群集墓で、横穴式石室を持つ円墳が19基ほどあり、6世紀初頭に築かれたもの。
6世紀初頭というのは、事実上の初代天皇、第26代継体天皇が即位した頃で、継体天皇の出身地の近江高島と、継体天皇が築いた弟国宮(京都府向日市)や樟葉宮(大阪府枚方市)とのあいだを結ぶ安曇川と桂川の水上ルート上の拠点が京北なので、継体天皇の王朝を支えた勢力が、京北を拠点にしていた可能性がある。
そして、桂川をさらに下り、亀岡に入ると、出雲大神宮の近くの彼岸山の南斜面に、平野古墳群がある。これも6世紀初頭のもので、51基に及ぶ群集墓だが、京北の折谷古墳群と様相が似ている。
この平野古墳群エリアに宮内庁が管理する邦茂王墓がある。邦茂王は、戦国時代の皇族だから考古学的にも大きく時代が異なっており、邦茂王墓とされるものは、平野古墳群の有力者の墓なのかもしれない。
興味深いのは、この平野古墳群の位置が、亀岡の那須与一堂や源頼政塚の真北5kmであることだが、このラインを与一堂から真南に16km伸ばすと継体天皇の今城塚古墳のすぐ近くの「氷室」という場所で、さらに、平野古墳群の真北5kmのところが、能の謡曲「氷室」の舞台で知られる神吉なのである。
彼岸山の麓に6世紀初頭に築かれた古墳群と、那須与一と源頼政、そして氷室とのあいだに、何かしら関係があるのか、それとも偶然のことなのか?
これが必然となる鍵は、いくつかあるのだが、まず源頼政の郎党であった渡辺氏と氷室の関係だ。
そもそも氷室というのは、単なる氷の貯蔵庫ではない。
神吉を舞台にした能の謡曲「氷室」の内容は、このようなものだ。
「晩春のある日。亀山天皇の臣下(ワキ・ワキツレ)が丹波国 氷室山を訪れると、山蔭は今なお冬の冷気を湛えていた。そこへ現れた、老人(前シテ)と若い男(前ツレ)。聞けば、毎年夏に帝へ献上される氷は、当地の氷室から運ばれるという。二人は、氷室の管理者であった。春や夏になっても氷が溶けないのは、帝の威徳ゆえ。老人はそう語ると、天下を照らす帝の威光を讃歎する。やがて彼は、この氷室は当地の神々が守護しているのだと明かすと、その様子を見てゆくよう勧め、姿を消す。実は彼こそ、神の化身であった。
やがて、一行の眼前には天女(後ツレ)が降臨し、舞を舞って氷室の神事に華を添える。そこへ現れた、氷室の守護神(後シテ)。守護神は、冷たい神風を吹かせて神威を顕現させると、帝へ献上される氷を祝福し、都への道中に加護を与えるのだった。」
氷は、食料の保存のためだけでなく、天皇などが亡くなった時に遺体を保存するのにも使用され、氷の出来具合でその年の吉凶などを占う祭司も行われていた。前回のエントリーでも書いたように、朝廷の神事で重要な役割を果たした贄の鮮度を保つうえでも欠かせなかった。
継体天皇の古墳である今城塚古墳に隣接する氷室町には闘鶏神社が鎮座し、闘鶏山古墳と呼ばれている前方後円墳もある。
氷室と闘鶏の関係は、奈良県の天理市から東の山間地一帯に、古代、闘鶏国が存在し、この場所には、氷を保存した氷室が数多く作られていたことにある。
そして、大阪の淀川河口に摂津一宮の坐摩神社が鎮座しているが、この場所は、酒呑童子退治や、京都の一条戻橋での鬼退治で知られる渡辺綱の後裔とされる摂津渡辺氏が「渡辺党」と呼ばれる武士団を形成して瀬戸内海の水軍の棟梁的存在として勢力を誇った拠点だった。
10世紀の『延喜式』によれば、坐摩神社の巫に、闘鶏国の国造の7歳以上の童女を充て、西から来る穢れを祓う儀式を行ったという記録があり、坐摩神社の神職を世襲した渡辺氏と、氷室祭司を司っていた古代闘鶏氏との関わりは深い。
この渡辺氏の悲劇は、源頼政が平家打倒の兵を挙げた時に宇治川の合戦で大敗したことだった。渡辺氏は、源頼政の主力軍として、一族の多くの者が亡くなった。
この戦いで自決した源頼政の首を、家来が亀岡の矢代荘に持ち帰って頼政塚を作った。ここは、頼政が鵺退治の褒賞として拝領した領地だった。
矢代荘という名は、源頼政が弓矢の名人だったからで、同じく弓矢の名人としての伝承が残る那須与一ゆかりの那須与一堂が、このそばに築かれた。
那須与一堂の由緒では、この場所は、安倍晴明が法楽寺という寺院を建立したことから始まるとされ、 本尊は阿弥陀如来坐像だが、その作者は、浄土教の祖の源信だという伝承がある。那須与一が、原因不明の病に罹り、この阿弥陀如来にお参りしたところ、たちまち平癒し、屋島の戦いで武功を挙げたとされる。そして晩年の与一は武士の身分を捨て法然に師事し、僧となり法楽寺を再興したことになっているが、これと似た話は、那須与一の墓がある京都の即成院や、神戸の碧雲寺にも伝わっている。
京都の即成院は、源信によって建立された光明院を始まりとするという伝承まで残っている。那須与一は屋島合戦の前に、突然の病に倒れ、病気平癒のご利益があるとされる即成院の阿弥陀様の霊験を知った与一がこの場所で療養し、熱心な祈願で病が治り、そのおかげで功績をあげたとされる。
これらの伝承に共通しているのは、那須与一が、晩年、浄土経に帰依し、源平の戦いで亡くなった多くの者たちの鎮魂に精力を傾けたという話。
一方、平家物語では、与一が屋島の合戦で活躍したのは17歳の時、そして20歳の頃には他界している。
そもそも平家物語は、ストーリーによって文体も異なり、いろいろな書き手が、それぞれの事情に応じて書き加えたり、修正をくわえたものであり、那須与一は、鎌倉幕府が作った正史である吾妻鏡には登場しないので、伝承の人物だと考えられる。
それでは、伝承のなかで、なぜ那須与一が、浄土教と重ね合わされているのか?
明確な答えはどこにも残されていないのだが、亀岡の地で、同じ弓の名人として与一と重ね合わされている源頼政の郎党として無念の死をとげた渡辺氏が背後に隠れているような気がする。というのは、渡辺氏が神職を世襲していた大阪の坐摩神社は、豊臣秀吉が大阪城を築く前は、大阪城のところにあった石山本願寺に隣接するように鎮座していた。
石山本願寺は、浄土真宗の本山であり、那須与一の伝承に阿弥陀如来とともに登場する源信が著した『往生要集』は、浄土真宗の教義に多大な影響を与えている。
すなわち、那須与一伝承というのは、源平の戦いで多くの人たちの命が失われたが、そのなかでも特に一族に多くの犠牲を出した渡辺氏の後裔が、彼らの拠点だった大阪の坐摩神社と隣接する石山本願寺の浄土教信仰と重ね合わせて全国に広めていったのではないかと思われるのだ。
これは、先日の京北のエントリーでも書いたように、日本的な“英雄観”の創出と関わっている。
大義のために尽くした者が、その功績とは裏腹に滅びる。その死は「時代のため」「誰かのため」に捧げられたように感じられる。その“犠牲”の在り方が人々の心を打ち、美意識となって、後世まで語り継がれる。
源頼政も、渡辺氏も、単に“殺された犠牲者”ではなく、共同体の安泰のために差し出された贄であり、そうした犠牲が、“浄化”として受け止められた。
こうした伝承を日本各地に広げ、それらの情報に深く通じ、情報を再編成していくことに適した人々が、日本には古くからいた。
それは、縄文時代から、日本各地を自由自在に行き交っていた海人と呼ばれる人たちである。
海人は、権力に従属しないがゆえに、彼らが伝える情報は、権力に媚びたものにはならない。権力者が作った正史とは異なり、時代の変遷を俯瞰した眼差しで、そこに人として生きる道の教訓が織り込まれる。なので、こうした伝承に触れる時は、それが事実かどうかを議論するのではなく、それらの物語を作り出した人々の胸中に思いをはせることが大事だ。
那須与一堂と源頼政塚のある亀岡の矢代(矢田)荘には、鍬山神社が鎮座している。
この神社の祭神は二神であり、一神は、源頼政がこの地を領地とした時に勧請された八幡神。そして、もとからの祭神が大己貴命で、古代、湖沼だった亀岡から水を外に流すための保津川渓谷の掘削工事と関わりがあるとされる。
実は、これと似た物語が長野の松本盆地の小太郎伝説で、泉小太郎が、母の犀龍と協力して岩山を壊し、湖の水を海に流すことで豊かな大地(現在の安曇野や松本平)を作り出した物語だ。
亀岡の場合は保津川渓谷、松本盆地は、犀川がその舞台になる。
松本盆地から外にでていく川は犀川しかなく、細い渓谷を通りぬけて千曲川に合流する。大地震などによって渓谷の岩盤が崩れ塞がれてしまうと松本盆地の水は外に流れていかない。保津川渓谷と亀岡の関係も同じだ。
古代、実際に犀川が塞がれ、その岩を取り除く作業が行われたことが、小太郎伝承につながったのだと思われるが、犀川が細い渓谷の中に分け入っていく手前に、穂高神社が鎮座しており、ここは安曇海人の拠点だった。
さらに、小太郎の母、犀龍は、諏訪明神の二神のうちヤサカノトメであり、ヤサカノトメは、安曇海人の女神である。
すなわち、犀川の工事は、安曇海人が関わったのだろう。彼らにとっても、水路が塞がれてしまうと、活動に支障があるのだ。
興味深いことに、亀岡から桂川を遡ると京都北部の花背であり、ここは桂川の源流でもあるが、反対側は、安曇川の源流であり、近江高島までつながっているが、この安曇川もまた安曇海人の拠点だったとされる。
那須与一が、屋島の合戦の活躍によって得た領地とされるのが、小太郎伝説の伝わる松本、そして若狭の小浜、京北と亀岡のあいだの地、岡山と広島の県境の井原(縄文の亀ヶ岡式土偶の目が出土している)など、古代海人とつながる地である。
そして、那須与一と同じく源義経とともに戦い、最後、義経とともに亡くなった穂積氏の系統の鈴木氏につながる鳥居氏が、京都の北部、京北の荘官をつとめていたが、鈴木氏は、熊野水軍の将だったとされる。
伝承では、この熊野水軍を率いていた熊野別当の湛増が、弁慶の父とされており、源氏と平氏の両者から援軍を求められた時、どちらに味方をするのか決めかねて、田辺市に鎮座する闘鶏神社の神前で鳥を戦わせて神意を確かめた。その結果、源氏に味方すると決め、義経のところへ遣いとして送られたのが弁慶だとされる。
鳥居氏は、熊野山に鳥居を建立したことから鳥居と名乗ったとされるが、伝えられるエピソードに「闘鶏」が出てくる。内裏で実施された闘鶏に赤い鶏を参加させたところ、その鶏が勝ち続け、平清盛に平家の赤旗を連想させて縁起が良いという理由で気に入られたことから、桓武平氏を名乗る事を許されたとされているのだ。
源頼政に郎党として仕えた渡辺氏と関わりの深い「闘鶏」が、源平の戦いにおいて、戦局を左右することになった熊野水軍の意思決定に重要な役割を果たしているのだ。
鳥居氏も、源頼政も、最初は、平清盛と関わりが深く平氏側についていた。那須氏もまた、与一だけが源義経との縁で源氏側についたが、それ以外の父も兄弟も平氏側についていた。
古代の海人には、こうした性質があり、どこにも従属していないがゆえにどちらの味方にもなれるが、海人がどちらにつくかで戦局が大きく変わった。戦国時代の瀬戸内海の海人、村上水軍に対しても、毛利側と豊臣秀吉側のあいだで駆け引きがあった。
話は亀岡に戻るが、那須与一堂と源頼政塚の真北の彼岸山の麓に、6世紀の初頭に築かれた平野古墳群があるが、ここから南西1kmほどのところに千歳車塚古墳がある。
この古墳は、6世紀に築かれた前方後円墳として丹波・丹後では最大の古墳で、被葬者の候補が、倭彦王である。
倭彦王というのは、継体天皇が即位する前、皇位継承者がいないために天皇に推挙された亀岡の王だが、逃げて行方知れずになったために仕方なく継体天皇が即位したという不可思議なエピソードが日本書紀に記録されている。
このエピソードは、単純に継体天皇と倭彦王の勢力争いということではないようで、というのは、継体天皇の今城塚古墳と千歳車塚古墳は、副葬品から、同盟関係にあったのではないかと推測されているからだ。
つまり逃げて行方知れずになったというエピソードは、皇位を譲り、陰で支える役割を選んだとも解釈できる。
この倭彦王と、同じ時期の平野古墳群の被葬者との関係は定かでないが、表には出ず、背後で役割をはたした勢力が、亀岡から京北の地を拠点にしていたということだろうか。
亀岡と京北のあいだは日吉町で、ここに源頼政と那須氏が所領としていた五ケ荘という場所がある。
継体天皇の出身地の近江高島から琵琶湖の対岸の東近江にも五箇荘という場所があり、ここは那須氏が城を築き、那須与一の孫が創建したとされる弘誓寺がある。
そしてこの場所は犬上郡であり、古代、ヤマトタケルの子のイナヨリワケの後裔と『記紀』に記載されている犬上君が治めていた場所だった。
継体天皇に皇位を譲った倭彦王は、仲哀天皇の五世孫とされるが、仲哀天皇もまたヤマトタケルの息子である。
東近江から琵琶湖を渡れば近江高島で、そこから安曇川、桂川を移動すれば日吉町なので、この二つの場所に五箇荘の地名と、那須氏関連の物語が伝わっているのは偶然ではないだろう。
那須氏は、平将門の乱を鎮めた藤原秀郷の後裔で、藤原秀郷は、女系で見ると鳥取氏である。
死後、ヤマトタケルの魂は白鳥となって天に飛び立つという物語があるが、第11代垂仁天皇の第一子、ホムツワケは口がきけなかったが白鳥を見た時に初めて言葉を発し、その白鳥を捕えるために追いかけて捕らえたアメノユカワタナが、鳥取氏の祖だ。
東近江に、鳥取氏の系統の那須氏関連の史跡と、ヤマトタケル関連の白鳥神社や、建部神社があるのは、そのためだ。
ヤマトタケルというのは、源義経とよく似ている。
大義のために尽くした者が、その功績とは裏腹に悲劇的な死を迎える。その死は「時代のため」「誰かのため」に捧げられたように感じられる。その“犠牲”の在り方が人々の心を打ち、だからこそ、後世まで記憶され続ける。
義経を匿ったために滅び去った奥州藤原氏もまた藤原秀郷の後裔であるから、鳥取氏の存在が陰に隠れている。
古代、鳥は魂を運ぶと考えられていたが、鳥取氏は、物語を創出することで、無念の死を遂げた者の魂を、過去から未来へと運ぶ役割も担っていたのかもしれない。
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