第1621回 日本文化の軸、不易流行の起源

 京都北部の京北から始まった「水口」のつながりは、果てしなく、どこまでも続いていく。
 京北という京都市の辺境の地で、これまで古墳・古墳群が43箇所、総数は 235基が確認されているが、これは京都市で最も集中度が高い。
 京北という場所の重要性を考えるうえで、南北に流れる弓削川と、東西に流れる桂川が極めて大きな意味を持つ。桂川は、東で近江とつながり、弓削川は、北で由良川を経由して日本海につながる。
 そして、この場所は、平安時代は材木の供給源として知られる場所だが、実は、隠れた鉄関連地である。
 古代史と鉄を結びつける本は数多く出ているが、その大半が鉄資源との関連を述べている。しかし、鉄製品というのは、砂鉄や鉄鉱石だけで作れるものではない。
 飛鳥時代から奈良時代にかけて国内最大の製鉄遺跡である丹後の遠所遺跡は、地元の砂鉄ではなく東北の砂鉄を運びこんで製造されていたことがわかっているが、鉄製品作りのためには大量の木材が必要になる。また溶かした鉄を鋳型に流し込む鋳鉄の場合は、須恵器の生産も必須だ。
 さらにもう一つ、意外と見落とされているのが砥石である。
  古代、武人は必ず戦地に砥石を持参した。なぜなら、一度人を切った刀剣は切れ味が悪くなるから、砥石で磨きなおさなくてはいけない。
 また弓矢を使用したくても、鉄の矢尻は、砥石なくして大量生産ができない。
 そして、この砥石は、荒砥、中砥、仕上げ砥石の三段階があり、荒砥の産地は伊予などが有名だが、中砥において世界最高品質とされているのが京北のすぐ西の亀岡で、仕上げ石の世界最高品質は、京北のすぐ南、神護寺がある高雄山周辺である。そのなかでも最高品質が、中山砥石とされる。

亀岡の砥石

 先日の記事で書いたように、京北の水口氏ゆかりの場所にある19基の古墳群、折谷古墳群の背後の山の名称も中山である。中山という地名は、古今和歌集の「真金吹く 吉備の中山 帯にせる 細谷川の 音のさやけさ」に示されているように鉄関連地が多い。
 京北は、世界最高品質の中砥と仕上げの二段階の砥石の産地がすぐ近くにある場所だ。
 さらに京北の鉄関連で、敢えていうならば、この地がマンガンの鉱脈であること。マンガン石灰岩は、鉄の品質を向上させるための精錬において用いられる。
 このように、京北に砂鉄や鉄鉱石を運べば、鉄製品作りの環境が整っている。その意味では、弓削川から由良川にアクセスすると、由良川は、丹後の大江山あたりの鉄の鉱脈地帯を経由するので、鉄資源も簡単に手にいれることができる場所だということになる。
 しかし、残念ながら、これまでのところ、京北では鉄関連の遺跡は発見されていない。鉄というのは酸化しやすく後の時代まで残りにくい。
 弓削川が流れる京北は、弓削道鏡ゆかりの地でもあるので、弓矢の製造に関わっていた弓削氏が、何かしらのかたちで深く関わっていた可能性も高い。
 お隣の亀岡では、鉄製造が証明されたわけではないが、篠窯跡群が奈良時代から焼物を焼く窯が密集する地域として知られており、窯の総数は百数十基にも上ると推測されている。平安時代には、日本を代表する焼物の産地となり、篠窯で生産された須恵器や緑釉陶器は、平安京を始めとして、北は宮城県多賀城付近から、南は宮崎県辺りまでと、実に全国各地へと供給されていた。
 須恵器の窯と製鉄遺跡が隣接しているところが全国的にも多く、今後の調査で、鉄関連遺跡も発見されるかもしれない。
 この京北に、「水口」が深く関わっていることを知ったのは、15年前まで風の旅人の編集部で働いていた中山慶が新しく賃借することになった古民家が、中世、京北の荘官をつとめていた水口氏の家で、家系図まで残されていることを知ったことからだった。
 その家系図を見る前、由緒ある「水口」なら大水口宿禰を祖とする水口ではないかと予感していたが、実際に、その通りだった。
 大水口宿禰は、歴史好きでもそれほど知られていないが、私には気になる存在だ。これは古代の男巫で、ヤマトタケルの妻、弟橘媛の祖父にあたる。
 大水口宿禰は神話のなかの存在だが、第10代崇神天皇の時、三輪山大物主神の祟りの際に、祟りの鎮め方の神託を受けた。
 このエピソードの真相を解くためには、この時の大物主神の祟りが何を象徴しているのかを洞察する必要がある。
 崇神天皇の治世は、新旧の価値観の転換期を象徴しており、そのための戦いに明け暮れていた。
 崇神天皇が、祟りの原因を知るために亀卜を行ったところ、ヤマトモモソヒメに託宣がおりて、大物主神の祟りだとわかったが、ヤマトモモソヒメだと霊験がなく、祟りが鎮まらなかった。そのため、天皇は身を清めて、大物主神に対して、夢の中でどうすればいいか教えて欲しいと願ったところ、大田田根子に自分を祀らせるよう神託があった。この時、大水口宿禰も同じ夢を見たという話になっている。
 さて、この神話をどう解釈すべきかなのだが、まず歴史の専門家は、崇神天皇が第10代とされているので、西暦300年頃とする人が多い。第26代継体天皇が西暦500年頃なので、そこから単純に逆算しているのだ。
 しかし、それだと幾つか矛盾がある。まず崇神天皇が行った亀卜は、日本書紀のなかで、西暦487年に京都の月読神社に壱岐からもたらされたという記録がある。
 また、大物主神の祟りを鎮めるための大田田根子というのは陶邑出身とされており、陶邑は須恵器の産地である。須恵器というのは、それまでの土師器が焚き火の温度である摂氏800度くらいで焼ける陶器であるのに対して、摂氏1100度以上の高温で焼き固める陶器のこと。この技術が畿内にもたらされたのは、考古学的に、西暦400年以降とされている。
 そして、大田田根子=須恵器の製作者に祀らせることが意味しているのは、古墳祭祀の転換だろうと思われる。というのは、西暦500年前後から古墳の石室が縦穴式石室から横穴式石室に代わり、副葬品が、それまで武具や農具や玉や鏡などから、須恵器に食事や酒を盛って石室内で祀るように変化したのだ。
 縦穴式石室の時は、古墳の一番高いところに石室が築かれ、巨大な岩で蓋がされて二度と開けられないようになっていた。王は、死んだ後に天に上って神になるから、石室内は、神の領域だったのだ。
 しかし、横穴式石室になると、石室のなかの出入りができるようになり、指導者の妻や子供が無くなったら、その棺を石室内に運びいれるようになった。つまり石室内は、神の領域ではなく、亡くなった者が黄泉の国へと旅立つための神聖な部屋であり、黄泉の旅のための食物や酒が須恵器に盛られて祀られるようになったのだ。
 この横穴式石室に埋葬された最初の天皇が、第26代継体天皇である。それ以前の王は、文献上に残る者が史実かどうかは別として、亡くなった後に神となって、その地を守る存在であったのが、継体天皇以降、王は、あくまでも地上の指導者であり権力者として、その地を治めることになった。
 この西暦500年頃というのは、訓読み日本語がつくられたり、官僚制度が整えられたり、日本が統一国家としてまとまっていく転換期であり、学校の教科書などでは、西暦300年頃からヤマト王権が日本を統一していたかのように教えられるが、おそらくそうではなく、西暦500年頃まで、中世の戦国時代のように地方ごとに強弱はあるが、群雄割拠だったのではないかと思われる。
 だとすると、大物主神の祟りを鎮めるために須恵器の製作者である大田田根子に祀らせる神託を受けた大水口宿禰は、新しい時代の祭祀を象徴しているはずだが、日本の歴史が複雑なのは、一筋縄ではないところで、大水口宿禰の孫が弟橘媛で、この女巫は、ヤマトタケルの東征の神話のなかで、浦賀水道で神の怒りを鎮めるために自ら生贄となり入水を行う。
 こうした女巫の役割は、大物主神の祟りの時、霊験がなかったヤマトモモソヒメに象徴されるもので、時代遅れのはずである。
 弟橘媛のパートナーであるヤマトタケルも、古代史の英雄であるものの、その戦い方は、女装して敵の懐に忍び込んだり、火打ち石を使ったり、何よりもスサノオが退治したヤマタノオロチの体内にあった草薙剣を守護剣としたり、亡くなった後、その魂が白鳥となって彷徨うなど、前時代的な存在なのだ。
 これはいったいどういうことだろうか?
 この謎を解く前に、少し回り道をしなければいけない。
 古代、水口の本拠は、滋賀県甲賀市水口町で、ここに水口神社が鎮座し、大水口宿禰が祀られている。

水口神社

 この場所は、琵琶湖に流れ込む川として最大の野洲川の流域だが、野洲川の対岸に、こちらも式内社の川田神社が鎮座しており、祭神はアメノユカワタナ。これは鳥取氏の祖で、鳥取氏と関わりの深い場所に祀られている。

川田神社

 そしてアメノユカワタナの祖が、織物の神のタケハズチで、この神は、日本書紀において、タケミカヅチでは服従させることができなかったカガセオという星神を従わせた神である。
 国譲りを完成させたのが、織物の神であることがポイントで、これは、武力による実力行使ではなく、調停とか和合とかの説得交渉の意味合いが強いと考えられ、その根拠として、タケハズチの後裔の倭文氏が、歴史的に、その役割を担っているからだ。
 鳥取氏は、倭文氏と同じ系統だが、その拠点とした場所が、たとえば古代最大の製鉄遺跡である丹後の遠所遺跡や吉備の赤磐など、鉄関連地が多く、強力な軍事力も備えていた。しかし、その戦いは、自らの威光のためというより、どちらかというと治安維持の様相が強い。
 10世紀、関東で平将門が起きた時、これを鎮めたのは京都の朝廷軍ではなく、下野国藤原秀郷だが、彼は、女系でみると鳥取氏であり、女系が子の養育を担っていた。
 滋賀県甲賀市水口町に、鳥取氏と関わりの深い川田神社が鎮座するが、この神社から野洲川をくだっていくと、近江富士と称される三上山が聳えている。
 その麓に、藤原秀郷の別名、俵藤太の伝承がある。太平記が元になっているとされるが、大蛇の依頼を受けた藤原秀郷が、三上山の大ムカデを弓で退治するという物語。
 この大蛇とムカデの対決は、日光の男体山と前橋の赤城山とのあいだに似たような話が残されており、藤原秀郷が拠点とした栃木も、鳥取氏の拠点であることから、二つの地は、鳥取氏でつながっている。
 すなわち、鳥取氏は、蛇の側の立場でムカデを退治する。その際に、弓が使われるのである。鳥取氏の末裔にあたる那須与一も弓の名人だった。つまり当時の平氏は、ムカデなのである。
 蛇とムカデは、いったい何を象徴しているのか?
 上述したヤマトタケルの守護剣は、草薙剣であり、これはスサノオに退治されたヤマタノオロチ=大蛇の体内にあったものだった。
 しかし、スサノオの十束剣は、ヤマタノオロチを切ることはできたものの、その体内にあった草薙剣とぶつかって欠けてしまった。
 このエピソードが何を象徴しているかというと、おそらく草薙剣は古い時代からある鍛鉄で、十束剣は、上述した須恵器の技術を使って初めて可能になる鋳鉄だろうと思われる。 
 鋳鉄は、鉄を高温で溶かして須恵器の鋳型に流し込んで作るため、大量生産が可能だが、鉄を溶かさず高温で熱して何度も叩くことで作っていく鍛鉄に比べると、鉄製品の強度は落ちる。 
 つまり鋳鉄技術は、武器の大量生産によって強力な軍事力につながるものの、一本の刀ならば、出雲の名刀がそうであるように、鍛鉄に軍配があがる。 
 鋳鉄技術は、合理的だが、その道具作りに魂はこもりにくい。これは、近代の大量生産技術でつくられた物と共通している。
 実は、古代においても、時代の転換期に、この合理化が行われ、人間の心が変容し、そのことによる弊害も起きた。これは現在と同じである。
 一言でいうと、魂の問題だ。近代合理主義より以前、人々は、物には魂が宿り、人は死んでも魂は残ると信じることができていた。しかし、現在、「魂」の存在を語るのは、非理性的で不合理なことになる。
 蛇とムカデの戦いにおいて、ムカデは新しい知識と技術による新しい価値観と新しい体制のなかの、魂の欠けた傲慢さを象徴していると思われる。
 蛇というのは縄文時代に遡る聖なる存在であり、古くから大切に継承されてきたものを象徴しているのだろう。
 藤原秀郷と同じく鳥取氏の系統である那須与一は、屋島の合戦で、船の上の扇を射落とした。これは、貴族の時代から武士の時代への転換を象徴するシーンでもあるが、平家物語の冒頭、「驕れるものは久しからず」の言葉のとおり、日宋貿易の財と権力で栄華を極め、傍若無人に振る舞い、ついには、後白河法皇を鳥羽殿に幽閉するなど横暴を極めた平氏に対する天誅を象徴するシーンとしても描かれたのだと思われる。
 魂の喪失の問題が、記紀でどう描かれているかというと、垂仁天皇の第一子、ホムツワケが口のきけない皇子として登場する。 
 垂仁天皇は、殉死の代わりに埴輪を使うなど、合理精神をもった天皇として描かれている。
 彼の息子、ホムツワケが口をきけないことが象徴しているものは、魂の喪失であろう。なぜなら、ホムツワケは、白鳥を見た時、はじめて口をきき、天皇の命で、その鳥を追いかけて捕らえたのが鳥取氏の祖、アメノユカワタナだった。古代、鳥は、魂を運ぶものとされており、ホムツワケが口をきけるようになるためには、鳥をとらえることが必要だったのだ。
 熊襲蝦夷との戦いにおいて、原始的とも言える方法で戦ったヤマトタケルが、亡くなった後に白鳥となって各地を彷徨ったという伝承は、ヤマトタケルが、合理的精神の前の原始的な存在であることが強調されている。
 神話は事実が列挙されている、もしくは単なる空想にすぎない、という二つの捉え方での議論があるが、どちらか一方が正しいわけではなく、事実的なこと(時系列ではない)と、フィクションをまじえて、人間の内面の変化を象徴化しているという捉え方をくわえる必要があると思う。
 さて、ここからが謎に満ちた本題なのだが、水口氏が荘官をつとめていた京北から冬至の日に太陽が昇る方向に、滋賀県甲賀市水口の水口神社と、鳥取氏の祖、アメノユカワタナを祀る川田神社が鎮座しているが、この冬至のラインをさらに延長すると、三重県亀山市の忍山神社に至る。ここは、ヤマトタケルの妻、弟橘媛の出身地で、彼女の父で京北の水口氏や鳥居氏の出自である穂積氏の祖、建忍山宿禰の拠点だったところだ。 

忍山神社

 興味深いことに、滋賀県の水口と京北の水口を結ぶ冬至のラインを、京北から西に伸ばすと、まず、日吉町の五ヶ荘村で、ここは、鳥取氏を祖とする那須氏の所領だったところ。さらに伸ばすと、鳥取氏の祖であるアメノユカワタナを祀る豊岡市日高町の三野神社。日高町は、国分寺が築かれた場所だが、このあたりが、アメノユカワタナがホムツワケのための鳥を捕らえた場所とする伝承地で、周辺には、中嶋神社や和奈美神社などアメノユカワタナを祀る神社が日本で最も集中している場所となる。
 すなわち、水口だけでなく弓削という弓に関連する京北と、水口氏の本拠でありながら鳥取氏と関連の深い野洲川が流れる滋賀県甲賀市水口を結ぶラインは、弟橘媛で象徴される穂積氏と、アメノユカワタナの鳥取氏が重なっており、死後、魂が白鳥となって彷徨うヤマトタケル神話の背後に隠れている何かしらの構造がここにある。 

今度は弟橘媛の出身地の忍山神社から冬至の日に太陽が沈む方向にラインを伸ばすと、布都御魂を祀る石上神宮が鎮座し、このあたりは、古代、那須与一伝承の背後に隠れている闘鶏氏が治めていた場所で、亀岡の神吉と同じく氷室が多く築かれていた。

石上神宮

さらにこのラインを西に伸ばすと、全国の倭文神社の総本社とされる葛木倭文坐天羽雷命神社が鎮座し、さらに二上山の頂に、布都御魂を祀る葛木二上神社が鎮座し、さらにラインを伸ばすと大阪の阪南市鳥取郷で、ここが鳥取氏のルーツとされている。
 次に、弟橘媛の出身地から春分秋分の日没方向(真西)にラインを伸ばすと、第26代継体天皇が最初に宮を築いた樟葉宮(大阪府枚方市)、継体天皇の墓である今城塚古墳(大阪府高槻市)を通り、岡山の備前一の宮の石上布都魂神社(岡山家赤磐市)に至る。

石上布都魂神社

 神武天皇の国土統一で重要な役割を果たす布都御魂は、もともとは吉備の石上布都魂神社にあり、仁徳天皇の時代に奈良の石上神宮へ移されたと、天理の石上神宮の社伝にも記されている。
 ここでの布都御魂は、スサノオヤマタノオロチを切った十束剣のこととされるから、新時代の象徴ということになる。
 岡山家赤磐市には、鳥取という地名が多く残されており、上述したように、「真金吹く 吉備の中山」という言葉のとおり、古代、鉄関連地だった。

備前地域では最大規模の206メートルを誇る両宮山古墳(岡山県赤磐市)。5世紀後半に築かれた。2重周濠を採用して「畿内型」の様相が強い。すぐ近くに、全長11.2メートルの横穴式石室を持つ鳥取上高塚古墳があり、周辺に、鳥取の地名が多い。

 このように、三重県亀山市弟橘媛の出身地(穂積氏の拠点)から冬至の日の出ライン、春分夏至の日の出と日没ライン、冬至の日没ラインに配置された聖域のことを、どう読みとけばいいのだろうか。
 穂積氏というのは、采女を統括する采女氏の祖でもあり、采女というのは、天皇の側に仕える女性で、妻妾としての役割を果たす事も多く、その子供を産む者もいた。これは、地方の有力者と、天皇の結びつきの強化のための制度でもあったが、子を育てるのは母の実家であり、母の実家を通じて、古代からの地方の祭祀や習俗なども後世へと引き継がれていく仕組みともなった。
 つまり日本文化の根底に宿る不益流行。時代の変遷に応じて変わるべきところは変わるが、本質として変えてはいけないところは変えない。
 この変化と普遍のバランスが、日本の歴史の変遷において極めて重要な軸になっているのだが、弟橘媛の出身地から西に三方向に伸びるラインには、この不易流行の精神が秘められているように思われる。
 鉄の武器などを備え、戦いにおいて活躍した鳥取氏は、鳥(魂)を追いかけるアメノユカワタナで象徴されるように、新しい知識や技術を備えているが、時代の変化で失われていく(魂の喪失)を防ぐ役割を担っていたようで、だから、平将門の乱の鎮圧など治安維持のために軍力を用いた。
 大水口宿禰の後裔である穂積氏もまた、継体天皇の頃から歴史に登場するが、新羅との戦いや壬申の乱で活躍するなど軍事的な側面も持ちながら、古代の巫女制度を形を変えて継承したような采女制度を統括した。
 穂積氏と鳥取氏は、時代の変化に対して最前線で具体的に対応をしながら、古くから大切にされてきた魂の問題(信仰とか習慣とか、物事への姿勢に反映される倫理とか)を守るという似た性質がある。これが、弟橘媛の聖域から豊岡まで伸びていく冬至の日の出ライン上の聖域。
 そして、弟橘媛の聖域から西に伸びる冬至の日没ライン上は、倭文という国譲りにおける調停と和合の立役者が関わってきて、そこに鳥取氏や、新しい時代の象徴である布都御魂が重なっている。
 最後に、岡山の赤磐まで伸びる春分秋分のラインは、布都御魂と、第26代継体天皇の最初の宮である樟葉宮や、継体天皇の今城塚古墳。
 これは新しい時代を象徴しているのだが、そうすると、布都御魂で国土統一した神武天皇神話というのは、実は、事実上の初代天皇である継体天皇のことだということになる。
 神武天皇という名は、奈良時代に、淡海三船が名付けたもので、記紀では「イワレビコ」が正式名称。
 天皇の名前は、多くが、宮の名前からつけられており、継体天皇が奈良の地に入って気づいて宮の名は「イワレノミヤ」なので、ここでも一致している。
 さらに、上述したように、大物主の祟りがあった記録される第10代崇神天皇の時に、祟りの原因を亀卜で占ったことや、祟りを鎮めるために祭祀を須恵器の製造者である大田田根子が行ったことなど、継体天皇が即位した西暦500年頃の時代でないと技術的にも成り立たないし、ヤマトタケル神話もまた、同じ時代のことを、別のかたちで、象徴的に伝えているのだろう。
 古事記日本書紀が書かれたのは西暦700年の初頭だ。訓読み日本語ができたのは西暦500年頃。それ以前は口承であり、文字記録無しに、出来事や、関係性を、長期間に渡って正確に伝えられるはずがない。
 神武天皇の時代を弥生時代と想定する人がいるが、古事記日本書紀の編纂者が、700年以上前のことを、正確に調べて記載できるだろうか。
 文字記録を備える現代を生きる私たちでさえ、300年前のことが、不確かなのだ。
 記紀の編纂者たちにとって、日本に大きな変化が生じたのが、彼らが生きた時代から200年ほど前の西暦500年頃だったことは、その頃から文字記録も残されているゆえ、把握することはできただろう。
 だから、神話は、西暦500年頃からの出来事や社会の変遷、そして人間の心に起きた変化を踏まえ、そのうえで過去のことをただ記録するのではなく、後世に伝えるべき教訓も織り込んで創出したのではないかと思われる。
 その神話の創出に重ね合わせて、聖域の配置や、個別の役割を担う氏族勢力の配置が行われたはずであり、そうでないと、この地図上の、規則的な配置を説明することができない。
 偶然で、ここまで正確に配置されているととすれば、それこそ人智を超えた力ということになるが、そちらの方が、合理的な思考の癖がついた私たちには信じがたいのではないだろうか。
 古代と一言で片付けるわけにはいかず、その時々ごとに大陸の影響を受けたりして、物の見方や、世界観や死生観は、大きく変化しており、その変化による混乱と、学びもあり、揺り戻しもあったのだろうと思う。

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 11月28日(金)の京都で行うワークショップは定員に達しました。
 12月20日(土)、21日(日)には東京で、今年最後のワークショップ&フィールドワークを行います。詳しくはホームページをご覧ください。

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水口神社