南九州の旅、二日目は、菊池川流域の古層への潜入。とくに今日は、10基以上、古墳が築かれている場所の地勢や光景を確認した。
そうすると、興味深いことに、どの古墳群においても、カムロ山という神体山の存在が、特に意識されているように思われた。江田船山古墳。シキノ宮でワカタケルに仕えた文官の名が刻まれた鉄剣が出土した。
カムロ山は、標高219メートル。山頂に磐座がある。この磐座は、船繋ぎ石とも呼ばれるようで、同名の石は、菊池川流域の江田船山古墳の周辺や、日置氏の墓地などにも残されている。
菊池川の流域には、日置氏の痕跡が多く残されている。
日置氏というのは、6世紀、欽明天皇の頃より、太陰太陽暦を全国に浸透させた勢力。
太陰太陽暦は、統一国家の印でもあり、6世紀、九州の有明海流域にも、それが及んでいたということだが、江田船山古墳から出土した鉄剣に、シキノミヤでワカタケル王に仕えた文官の名が刻まれていることは、とても興味深い。
武官ではなく文官。
8世紀、嵯峨天皇の時、蝦夷に対して、それまでの武力闘争による支配の限界を知り、小野岑守という文官を陸奥守として蝦夷の懐柔政策を行ったことと似たようなことが、6世紀以降の菊池川流域でも行われたのではないだろうか。
それだけ、この地域の勢力が手強かったということだ。
菊池川は、古代から、砂鉄と製鉄で知られた場所であり、強力な鉄の武器を備えていたことだろう。
そして、菊池川流域は、日本で最も装飾古墳が集中する一帯だが、この地の装飾古墳の図案と、栃木から茨城へと流れる那珂川流域の虎塚古墳の図案が非常に似通っている。
遠く離れた二つの地域に交流があったのか、それとも、菊池川流域の勢力が、遠いところに進出して影響力を及ぼしていたのだろうか?
この問いに関して、菊池川流域の阿蘇凝灰岩が、5世紀、畿内の王の古墳の石棺に用いられており、装飾古墳の図案に、船で石棺や馬を運ぶ図案が残されていることから、菊池川流域の海人勢力が、機内や関東まで足を伸ばしていた可能性が考えられる。
日置氏が、この地にやってくるまでに、この地には、かなり強大な王国があった。
その力を示すものが、日輪寺山山頂に築かれている竜王山古墳。これは4世紀〜5世紀初頭のもので、熊本でも最古級の古墳だ。竜王山古墳。熊本では珍しい縦穴式石室を持つ古墳。標高142mの日輪山の頂上に築かれ、360度、まわりを見渡す場所。周辺は、古代、湖沼だったという伝承。4世紀、この地域を治めた王の墓。
古墳の大きさな25mと、さほど大きなものではないが、標高141mの単独の山の上に築かれており、360度の見晴らしが素晴らしい。
竪穴式石室というのは、死んだ王が、神となってその地の安定秩序のために力を尽くしてくれるという世界観、死生観を抱いていた時代のもの。だから、古墳の一番高いところに築かれ、巨大な岩で蓋をされて、2度と開けられない作りになっていた。
熊本には竪穴式石室の古墳が少ない。その原因として考えられられるのは、一つの勢力が、広大な領域において支配的な力持っていたということではないだろうか。
だから、この地においては、国譲り神話のような伝承が異なる形で、多く残されている。
今日1日で得られた情報が、あまりにも多すぎて、頭が整理できない。
これから訪れる場所との関係で、さらにじっくりと熟成させていくことができる、という手応えはあるので、さらに、南九州の古層に、深く潜入していきたい。
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