第1626回 日本の古層に潜る旅〜南九州編(5)ー12月4日の日記

ニニギとコノハナサクヤヒメの出逢いの伝承地、延岡の笠沙山から。

 旅の途中ではあるけれど、こうして文章化しているのは、鉄は熱いうちに打てと言われるように、現地にて、自分の感覚がリアルに敏感な時に、感じたり考えたことを文章化しておくと、後になった時に、自分にとって、とても助けになるからだ。
 もちろん、時間とともに熟成されていくものがあるので、それも大事なのだが、生々しい感覚は、後になってからだと、どうしても薄れてしまう。
 けれども、いくらSNSという簡易なツールで行なっている自分のメモのつもりでも、自分がアウトプットするものに対して責任もあり、いい加減なことはできない。
 それでもまあ、私の関心ごとは、現代日本の世知辛い社会のなかで、それほど多くの人が関心を持つものではないし、本当に関心がある人は、後ほど成就させていく本を読んでくれるはずで、本を読んでくれない人の関心は、まあ、世の中に溢れる情報を右から左に流すくらいの私のアウトプットに対する接し方だろうから、それほど気にする必要もないかと割り切って、かなり大胆なことも”メモ”にしている。
 前置きにこんなことを書いているのは、今日、訪れたところは、日本の伝統歴史のなかで、かなり矛盾に満ちているのだが、その矛盾を覆い隠すために神聖化することで、そこに触れることをタブーとしている領域だからだ。
 大袈裟なことだと思う人もいるが、今ここにアップしている写真を宮内庁の人間が見たら(誰かが報告したら)、私は呼び出されて厳しい注意を受けることになる可能性がある。
 それは、日本の皇室の祖とされるニニギとコノハナサクヤヒメのこと。
 この二人の墓とされるのが、宮崎の日向の地の西都原古墳群にある男狭穂塚と、女狭穂塚。
 西都原古墳群ほど謎に満ちた古墳群はなく、これは日本最大の古墳群で、現時点で、前方後円墳31基、方墳2基、円墳286基、それ以外にも帆立貝古墳や、横穴墓や、地下式横穴墓が多数あり、4世紀初頭から7世紀前半にかけて、すなわち日本の古墳時代の前期から終末期まで、一通りの古墳群が、この地に築かれている。
 その中で最大、九州でも最大の前方後円墳(180メートル)が、女狭穂塚(めさほづか)で、これが、コノハナサクヤヒメの墓ということになり、日本最大の帆立貝形古墳である(175メートル)が、男狭穂塚(おさほづか)ということにされている。
 この二つの古墳は、特別に神聖なるものなので、考古学的調査はされていないが、もし宮内庁が、日本の天皇史の系譜を頑固なまでに正当化するならば、この二つの古墳がニニギとコノハナサクヤヒメのものでないことは明確なこととなる。
 なぜならば、この二つの古墳は西暦400年代のものであり、第26代継体天皇が西暦500年頃であり、逆算していっても、西暦400年代というのは、第15代応神天皇以降という計算になるからだ。
 それと、天孫降臨の神話に従って、ニニギがヤマト王権の祖であるなら、通説では前方後円墳ヤマト王権の墓の形態とされているわけで、帆立貝形古墳の男狭穂塚が、どうしてニニギの墓となるのか。
 ほぼ同じ大きさで隣接する前方後円墳の女狭穂塚をニニギの墓とすればいいじゃないかという矛盾がある。
 帆立貝形古墳が、日本で一番集中している場所は、大阪の仁徳天皇綾を取り囲むように築かれている数多くの小さな帆立貝形古墳であり、これは5世紀、巨大な前方後円墳に埋葬されている王に仕えた渡来系技術者集団の族長の墓ではないかと考えられいる。
 東京の多摩川沿いにも、帆立貝形古墳が多く、等々力渓谷の周辺には、私が訪れたものだけでも3基ある。
 帆立貝形古墳は、日本全体を統治する大王の墓とはとても言えないのだ。 
 しかし、九州の西都原古墳群のなかの帆立貝古墳は、異様なほど巨大で、その真相がいったい何なのか、日本の古層を考える上で極めて重要な鍵なのだが、この古墳の姿が、まるで見えないように警戒状態に置かれている。
 一般的に宮内庁が管理している皇統関係者の古墳は、中に入れないけれど、すぐ側に立つことは可能だ。
 しかし、西都原古墳群の男狭穂塚と女狭穂塚は、中に入れないだけでなく、その姿を望むことができないよう、二つの古墳を取り囲むように樹木が生い茂り、その樹木地帯の外側のところに立ち入り禁止の境界が設けられている。

ここまでしか近寄れないコノハナサクヤヒメの墓とされるもの。

 コノハナサクヤヒメの墓とされている女狭穂塚の方は、樹木がまばらになっているところから前方部分がかすかに見えるが、男狭穂塚は、周辺をぐるりとまわっても、まったく姿が確認できる場所がない。
 そして、一年に一度だけ、一般に公開されるらしく、宮内庁に名前を届けた人間だけが、古墳のすぐ手前まで入れる。その場所でされ通常の宮内庁管理の古墳と同じくらいの距離感で見るだけである。
 しかし、明治維新前までは、この古墳の周りは集落であり農業が行われていた。
 集落の人々が古墳を守りながらも、自分の用地に古墳から削り取った土を入れる者もいて、外の住人が、その人の畑の土が豊かになっているのを見て、お前だけ狡いことをするなと叱責し、また土が古墳に戻されるといったことが繰り返されていたと、先祖から、古墳の守りを行なっているという老人から話を聞くことができた。
 なのに明治維新以降は、中に入るどころか近づくことさえもできない。
 これはおかしい。
 この日、とても風が強かったので、私は、帽子が風に飛ばされたことにして、柵を超えて古墳の周りを取り囲む森林地帯に入った。
 警察や宮内庁に連行されたら、歴史談義をするつもりで。何らかの罪状を被ることになれば、その経緯を伝えることもまた、必要なことなのではないかと自分に言い訳して。

 だから、この写真を宮内庁の人が見たら、どうなるのか関心はある。まあ、有名人の発信ならば、不倫騒動と同じように社会的良識に反するとバッシングを受けるかもしれないが、私ごときでは、不倫で誰も騒がないのと同じで、右から左へのスルーだろうけれど。

西都原古墳の近く、ニニギとコノハナサクヤヒメが結婚した場所という伝承地、都萬神社。

 今日は、この西都原古墳群の前に、延岡を訪れた。
 延岡の愛宕山は、旧笠沙山で、ここがニニギとコノハナサクヤヒメの出逢いの伝承地だ。
 そんな伝承を、私が信じているはずがないが、私が気になって訪れたのは、この笠沙山の西が小野郷であり、古墳が多く築かれていること。

延岡の笠沙山の西は小野郷。この社の背後に古墳が密集している。

 私の発信する情報を見たことがある人は、私が、「小野」にこだわり続けていることを知っていると思う。
 最新刊の「みちのく巡礼」でも、東北の地で、桓武天皇の時代、武力による蝦夷征伐を行なったが、その限界があり、嵯峨天皇の時代に、文官の小野岑守陸奥守として蝦夷の懐柔政策を行なったことを詳しく書いた。
 古代、小野氏は、異なるものの境界で、何かしら重要な役割を果たして、調整、折衝を行なっていた。だから、小野妹子など外交官がとても多いし、小野篁が現世と冥土のあいだを行ったり来たりしていたという神話も生まれている。
 だからニニギとコノハナサクヤヒメの出逢いという神話の背後にも、小野氏が関わっている。これは、マレビトと先住の人とという異なるもののあいだの調整の神話だからだ。
 さらに、この延岡は、ヤマトタケル熊襲征伐の神話の地であり、奇岩絶壁がそそり立つ行縢山(むかばきやま)が、その舞台とされる。

ヤマトタケル熊襲征伐の舞台、行縢山。

 この山の光景は、日本の風土のなかでは特異で、アメリカのヨセミテ渓谷のような峻険さと壮大さがあり、異なる世界への扉のような気配が満ちており、神話の舞台に相応しい。
 ヤマトタケル熊襲征伐もまた、異なるものとのあいだの軋轢と調整にあたる。
 この戦いは、大軍の兵を引き連れて行なったわけではないので、ヤマト王権の九州進出を神話化したものとは思えない。
 ヤマトタケルは、ヤマトタケルは女装して熊襲の宴に潜入し、隠し持った短剣で首長を討ち取ったことになっているのだ。
 そして、熊襲の首長、川上梟帥(かわかみたける)は、死ぬ間際に、ヤマトタケルの勇敢さを讃え、自分の名である「建」(タケル)の名をヤマトタケルに与えてほしいと願い、これを聞き入れたヤマトタケルは「倭建命」(ヤマトタケルノミコト)と名乗るようになった。
 女装して熊襲の宴に潜入し、隠し持った短剣で殺すことが、褒め称えられるようなことなのかどうかわからないが、滅ぼされた側の名前が残るところにポイントがあるのではないか。
 人は誰でもいつか死ぬのであって、現代でも、自分の名前を後世に残したいという欲を持つ人は、とても多いのだから。
 それはともかく、奇怪なことに、ヤマトタケル熊襲征伐の神話の舞台である延岡の、ニニギとコノハナサクヤヒメの出逢いの神話の舞台である愛宕山(笠沙山)から冬至のラインを東に伸ばすと、奈良県天武天皇陵であり、さらに西に伸ばすと、茨城の吉田古墳(水戸市)であり、ここは、神話ではヤマトタケル蝦夷征伐の拠点である。
 延岡から水戸まで約900kmで、そのほぼ真ん中が、天武天皇陵。

 昨日訪れた那須与一の墓がある大見口は、西に天草の与一浦があり、神戸の須磨と、京都の東山区に与一の墓があり、東近江に与一の孫が作った寺や城があるが、これらの那須与一関連地も一直線で結ばれており、ヤマトタケル神話のラインと並行して、ほぼ冬至のライン上にある。 
 これは私の作為ではなく、Googleマップで誰でも確認できる事実。
 この事実をどう思うか、考えるかは、人それぞれだけれど、私は、けっこう本気で、これらの神話や伝承の舞台に、コミットしている。
 旅の途中のメモなので、推敲も読み直しもせず、一挙に書いて、無責任を承知でアウトプットしています。
 誰がどう思おうが、今の私は、どうでもよしという心境。「旅の恥は掻き捨て」だけれど、私の場合は、旅の恥は書き捨て。

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新刊の「みちのく古代巡礼」は、ホームページで発売しています。
 12月20日(土)、21日(日)には東京で、今年最後のワークショップ&フィールドワークを行います。詳しくはホームページをご覧ください。

https://www.kazetabi.jp/

西都原古墳群最後の古墳。飛鳥時代のもの。