第1630回 日本の古層に潜る旅〜南九州編(9)

十根川神社から東に1kmほどの所にある大久保の大ヒノキ。これも、推定樹齢800年で、那須大八郎が手植えしたとの言い伝えがある。

 平家物語のなかの有名なシーン、屋島の合戦において、平氏側の女官が乗った小舟の上の扇の的を那須与一が見事に射たことは、日本人の多くが知っている。
 平家物語は、いろいろな作者の手によって書かれており、那須与一のことは鎌倉幕府がまとめた歴史書である吾妻鏡にはでていないので、この扇のシーンは創作だと思われるが、この物語を作り上げた者たちは、源平の戦いの後に那須氏が得たとされる所領と何かしらのつながりがあるのではないかと思われる。
 この戦いの後、那須氏は、信濃の松本、埼玉の行田、丹波の日吉、岡山と広島の県境の井原、若狭の小浜の土地を得たという記録がある。
 それにくわえて、那須与一が、戦いの後、出家したという伝承が各地に残り、そのゆかりの地に那須与一の墓が築かれており、さらに那須氏が平家の落人を追討するために九州の椎葉地方に入ったにもかかわらず、平家に同情して、その場所に定着したという伝承が残っている。
 とりわけ椎葉地方周辺には、那須氏の末裔とされる人々がとても多い。
 これらの那須氏と関わる伝承地には、いくつかの共通点がある。 
 まず信濃の松本、若狭の小浜、丹波の日吉は、古代海人とつながりが深いところであること。
 そして、岡山の井原は、日本を代表する熱水鉱床の地であり、埼玉の行田は、関東最大の古墳群である埼玉古墳群が築かれたところ。ここは現在、荒川の流域だが、古代、このあたりで利根川と荒川は一つとなり東京湾へと流れていた。利根川は、洪水対策のため江戸時代に付け替えが行われて、霞ヶ浦方面へと流れの方向が変えられた。
 そして、椎葉地方において、那須氏が最初に定着した場所が、同じ「とねがわ」の十根川流域である。

那須氏が、椎葉村に最初に築いた拠点、十根川集落の十根川神社。この近くに、財木銅山があった。

 平家の追討を命じられた那須与一の弟の那須大八郎が、十根川の地に椎の葉を用いて陣小屋を築いたことから、「椎葉」という地名が付けられたという。
 標高550メートルほどの地に、現在、小さな集落があるが、「椎葉型」と呼ばれる細長い平面の主屋をはじめ、馬屋や倉といった附属屋などの伝統建築が建ち並んでおり、城塞のような石垣や、拓かれた田畑などが印象的だ。
 この地域は、山深い椎葉地方のなかで、日照に恵まれた土地で、「日当(ひなた)」と呼ばれる。
 実は、この集落から十根川を8kmほど北に遡った源流域が財木(たからぎ)であり、ここは様々な鉱物の鉱床がある場所で、とくに銅山として知られている。

財木銅山の跡地。

 関東において那須氏が所領とした埼玉の行田も、利根川を遡ると、日本有数の銅の鉱脈地帯である。
 さらに那須氏の本拠である下野国(栃木)も、足尾銅山をはじめ、よく知られた銅の鉱脈がある場所で、さらに「那須のゆりがね」と呼ばれる金の産地として有名だ。
 椎葉地方における鉱山地帯は、この財木と、日があまり当たらない場所のことを指す「日添(ひぞえ)」の名がつく向山、そして、南の西都原古墳群と一ツ瀬川でつながる大河内で、大河内には、鍛冶屋が数多く存在していた。
 向山は、今回の旅で夜神楽を体験した場所だが、ここもまた那須氏の痕跡が色濃く残る場所で、歴史的に知られる事件が、江戸時代初期に起きた「椎葉山騒動(千人ざらえ)」だ。 
 それまで、那須大八郎の子孫を称する那須左近太夫(小崎城主)、那須弾正忠(向山城主)の兄弟など、十三人衆と呼ばれる首領達が、椎葉地方を事実上の統治を行っていた。
 豊臣秀吉の天下統一後、椎葉の向山城の主である那須正忠は、秀吉の鷹匠の落合新八郎を饗応したことで御朱印状を授かり、正忠は身内の那須主膳らとともに十三人衆の中で「那須三人衆」と呼ばれて優位に立ち、他の有力者達とは不仲となって、御朱印派と反御朱印派の対立が起きた。
 そして、那須正忠の死後、息子の久太郎と那須主膳の孫の仙千代が反御朱印派の起こした一揆で殺害されたため、那須主膳が徳川幕府に訴え、幕府は、御朱印状の権威を守ることを選択し、二人を殺害した反後朱印派を攻め140人を捕らえ斬首。その婦人らも自害した。
 そして、この事件をきっかけに多くの那須氏が、椎葉を離れ、緑川の源流域へと移住した。

江戸時代初期、椎葉山騒動で、多くの那須氏が移住した緑川源流域。

 現在、椎葉地域の人は、椎葉姓が30%、那須姓が20%と言われるが、源平の戦いの後、那須氏と源氏がこの地に入ってきて、その末裔が「那須」を名乗り、もとからこの場所で暮らしていた人たちが、椎葉姓だとされる。
 全国統一を成し遂げた秀吉が出した御朱印状によって、向山の城主の那須正忠は、椎葉地方の領地の支配が保証されたことになった。
 椎葉地方は山深く、耕作可能な土地も限られており、中央集権的な支配ではなく、谷ごとに独自の自治的な支配体制が長く維持されてきて、だから、十三人衆による合議制的な秩序安定策がとられていた。
 天下統一をした豊臣秀吉が、太閤検地刀狩令などを通して統一国家を整えていく上で、山間部の国人衆や在地勢力が独立的な支配を続けることは、秀吉にとって障害だったと思われる。
 また戦国時代末期から貨幣経済の発展に伴い、金、銀、銅などの鉱物資源の重要性が飛躍的に高まった。
 豊臣政権にとって、大規模な土木工事の費用、朝鮮出兵のような対外政策の資金を賄うために、金銀の確保は国家的な最重要課題でもあった。
 そして椎葉地方やその周辺を含む九州山地は、古くから鉱山資源に恵まれていた。
 秀吉政権から見れば、椎葉地方の十三人衆にそうした資源の管理を任せておくのではなく、御朱印によって秀吉政権のお墨付きを与えた向山城主の那須正忠に権限を集中させた方が、椎葉地方を間接的に支配しやすいと判断したのではないかと思われる。
 しかし、椎葉地方は、焼畑農業が今も続けられているように、土地が貧しい。ヒエ、アワ、イモ、トウキビ、ムギ、ソバ、カブ、ダイズなど多彩な作物を輪作し、何年かして焼畑で生じる灰の肥料分がなくなると、また元の森林に戻すという持続可能な農業や、山の中の狩猟採集が生命線だ。
 こうした営みは、中央集権的な強引さで推し進められる鉱山開発による自然破壊によって、大きなダメージを受ける。
 椎葉地方に限らず、すぐ近くの高千穂の天岩戸神社の真北4kmの場所の土呂久鉱山で、大正から昭和にかけて死者数150名を出した土呂久砒素公害が、記憶に新しい。
 椎葉の向山城主の那須正忠の息子の久太郎は、反御朱印派の起こした一揆で殺害されたが、この一揆には、椎葉の山の民たちが多く含まれていたのではないだろうか?
 中央集権的な体制に対して一揆を起こした椎葉の十三人衆は、山深い椎葉地方の、それぞれの土地の特性に応じて、生態系のバランスなどに配慮した政策を長く行っていたのだと思われる。
 人間が積み重ねてきた歴史の真相を知るためには、現代でもそうだが、鉱物資源との付き合い方を考慮に入れなければいけない。
 古代史のことについて説明される時、鉄のことはよく取り上げられるが、たとえば弥生時代においても大陸から多くの物資が日本にもたらされているが、その見返りに日本から何が持ち出されたかについて、あまり議論されていない。
 金や銀は、古代から交易において重要な役割を担っていたし、銅鏡や銅鐸など、弥生時代から古墳時代にかけて大量に出土する祭司道具に使われている銅が、どこから調達されていたのかを考えることも大事だ。
 現在は、辺鄙で寂れた場所であっても、古代は、鉱物資源があることで重要な場所であった可能性が高い。
 数日前の記事で触れた、宮内庁によってニニギとコノハナサクヤヒメの墓とされる二つの古墳がある日本最大の古墳群、西都原古墳群にしても、なぜ、この場所に築かれているのか?
 この古墳群は、一ツ瀬川が山間部を抜けたところの日向灘に面した扇状地に築かれているのだが、一ツ瀬川を遡ると、椎葉の鉱山地帯の大河内で、さらに一ツ瀬川源流と耳川源流は近く、耳川をたどって向山、さらに耳川から十根川につながって財木という椎葉の各鉱山地帯が結ばれており、西都原古墳群の有力者は、この資源と深く関わっていた可能性がある。
 日本神話のなかで、高千穂が天孫降臨の舞台となっているのも、高千穂地域の豊かな鉱物資源と無関係ではない。
 鉱物資源の利用は、社会環境を大きく変える。それは、人間社会にとってメリットもデメリットもある。 
 危険だし、取り扱いの注意がとても重要で、だから誰でもできることではないし、我欲に取り憑かれた者が手中に治めることは、人間社会を危機的な状況に導く可能性だってある。
 源平の戦いの後、那須氏が九州の椎葉に入った。
 那須氏の本拠は、那須のゆりがねで知られる鉱物資源豊かな場所で、源平の戦いの後に所領とした岡山と広島の県境の井原も、鉱物資源が豊かな場所だ。
 それゆえ、那須氏が椎葉に入った理由も、それと同じであるはずで、だから最初の拠点が、銅鉱脈のある財木のすぐそばの十根川集落だった。ここを流れる川が十根川「とねがわ」なのは、ここと同じく銅資源の豊かな地と通じる関東の利根川からきているのだろう。
 そして、椎葉に入った那須大八郎が、椎葉の女性(平家の落人とも言われる)の鶴富姫と結ばれ、その後裔が、椎葉の那須氏であるという伝承は、那須氏が、鉱物資源の搾取のためにこの場所に来たのではなく、後の十三人衆で象徴されるように、椎葉の土地の特性に応じたバランスのとれた開発に長けた一族だったからだろう。
 那須大八郎が、椎葉村で静かな暮らしをしている平氏に同情したとか、鶴富姫との恋に落ちたという物語は、後からやってきた那須氏と、元からこの地で暮らしていた人々とのあいだの調和を象徴している。
 その調和が崩れたのが、中央集権化の影響を受けた椎葉山騒動だった。
 この問題は、現代の我々の社会でも同じであり、地方の独自性よりも国家のために地方を役立てるという発想で、国家事業が地方を分断し、対立を生み、深刻な問題を残すケースは、いろいろなところで見られる。

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江戸時代初期、椎葉山騒動で、多くの那須氏が移住した緑川源流域の湯鶴葉集落。那須姓と、春木姓だけだが、幣立神宮の宮司は、春木氏が世襲している。幣立神宮は、那須与一の墓がある大見口の真南8kmほどのところに鎮座しており、この両者のあいだには関わりがある。具体的には、もともと幣立神宮の神官は藤原氏であったが、椎葉の那須氏と婚姻を行い、その後、春木姓となったと伝えられる。